5 彼女
そのちょっとした異変に一番最初に気付いたのは、やはり女性であるホークアイだった。
「あら、ハボック少尉。それはどうしたの?」
「ああコレっすか。彼女にもらったんです」
朝から妙に機嫌がよかったのはそういう訳だったのかと一同納得する。色男と名高い東方司令部の司令官ほどではないが、この同僚もかなり恋多き男だからだ。
「お前そういうのつけるとちょっとチンピラっぽいなあ」
「でも空みたいな綺麗な色ですね」
「片方だけなのは何かのまじないですかな」
皆がハボックの周りに集まってわいわいしていると、就業開始時刻に少し遅れて司令官が顔を出した。
低血圧なその人物はまだ半分眠そうに目をこすりながら何事だと輪の中に入る。
「あ、大佐。おはようございます」
「ああおはよう。ところでハボック少尉。何の騒ぎだ?」
「これです」
そういって綺麗に刈り込まれた金髪の下、左耳に小さく光るものがある。
ハボックの瞳と同じ色の、綺麗なスカイブルーのピアスだった。
「新しい彼女が右に二つ開けてて、左は一つしか開けてないんです。それで一個あまるから付けてって言われて」
頭をかいて少し照れながらもデレデレと説明する。
中央にいるロイの親友である程度免疫は付いているものの、恋人や家族を褒めるときの人間ほどだらしない顔はない。
殆どの者が興味を失ったように仕事に手を付け始め、頭がまだ完全に覚醒していないロイだけがぼんやりとそのノロケを聞いていた。
ピアニスト志望のハボックよりひとつだけ年下の彼女。いまはアルバイト程度だが酒場でピアノを弾いているのを見かけたのがはじまりらしい。ハボックよりも色の濃い蜂蜜色の金髪に、アメジストのような淡い色のめをしている美人。この街の美人ならたいてい把握しているはずのロイが知らない娘だ。
今度紹介しろという声に冗談じゃないと慌てる声がかぶる。
「人の幸せを踏みにじる気ですか」
「それで私になびく程度の娘であればやめておけという神の思し召しだな」
「とにかくやっと口説き落としたんですから、丸一日たつまえに人の幸せを壊しかねない発言をせんでください」
自分が手出ししなくてもどうせ一月だと思ったが、あまりに幸せそうな表情にだんだん気の毒になったので何も言わなかった。
軍人を恋人にもったことを割り切れる女性は案外少ない。社会的地位も給料もいいが、いつ仕事で転勤になるかも分からず、命を落とすことになるかも分からず、だいいち生活が不規則すぎる。事件があれば上司の呼び出しひとつで私生活を投げ出すのも日常茶飯事だからだ。
それなら軍人をきちんと理解してくれる恋人を作るか、軍人でもかまわないと言わせるほどめろめろにさせるかのどちらかなのだが、不器用な男には後者は無理だろう。特にピアニストなどという夢見がちな仕事をしている女には軍人は理解できるはずもない。士官学校時代は結構遊んでいたヒューズですら前者なのだ。
けれど思えば仕事仕事仕事で彼女を作る間も与えなかったのに多少は自分の責任もある。自分はこの部下の何倍も仕事をこなしつつも、女性とデートをして気に入った相手とは肌も合わせているのだから結局は本人の問題のような気もするが、それでもみすみす部下の不幸を願う理由もないので、と自分に言い聞かせて適当に話をあわせた。
その会話の合間にもきらり、とその彼女の所有欲の片鱗が見え隠れする。
ほんの小さなものであるのに、昨日まではなかったそれがひどくハボックを違う人間に見せた。ヒューズの指にはまっている結婚指輪も時として彼が他の誰かのものであるという証に映る。まるで首輪のように。
生まれてはじめてピアスを見るかのように、しげしげと眺める。鮮やかな青色をたたえたそれは、彼のために設えられたのではと思うほどしっくりと似合っていた。
「それは自分で開けたのか?」
「そんな訳ないっスよ。失敗したら結構悲惨らしいんで彼女にやってもらいました」
何気ない言葉。
だがその言葉にロイは酷く動揺していた。
ぴりぴりと静電気が走ったようなかすかな震えが背中を駆け上がり、それと同時に訪れる心臓を打つ早鐘。
ざわりと胸のうちを何かが這い上がり、のどの奥で何かが痞える。一瞬呼吸の仕方を忘れたかと思った。
「その彼女が、お前の耳に穴を開けたのか」
自分の声は自分でも驚くほど乾いてひどくささくれ立って響いた。
ハボックの体に一つできた小さな穴は、自分の手の届かないところで出来たのだ。その事実だけが、ロイの思考を支配する。何故なのか分からない。
ただ理由は分からないが、裏切られたような気がした。



終業時刻間際になって、ハボックはその日最後の書類をロイの執務室に持ってきた。
「しっつれーしまーす」
ちっとも失礼だと思っていない声で、ノックもせずに入ってくる。
一瞬眉をひそめたが、もともと躾のよろしくない犬である。役には立つし、何より飼い主がだれであるのかはきちんと心得ているので最近はいちいち咎めるのはやめた。ロイ自身たいそう型破りなのもあるが、自分の威厳を保つだけに強要する上下関係はわずらわしいばかりだ。ハクロ少将などがいい例である。もはや階級でしか他者を跪かせることが出来ないから、必要以上に嫌味を言ってきたり部下を叱ったりするのだ。本当に有能な人間であれば、いかなる階級であろうと下のものは黙ってついてくる。それがロイの持論だ。
「今日の分ラストです。これにサインしたらもう帰ってもいいって中尉からの伝言です」
「ご苦労だったな」
書類を受け取ってちらりと目を通してからサインをする。ハボックは当然のようにその唇に煙草を銜えたまま、それを待っていた。ペンを置いて紙切れを手渡す。
「ハボック少尉。この後予定はあるのかね?」
「いや、特にないっすよ」
「新しい恋人は放っておいていいのか」
「今日は仕事だそうです。何でも結婚式の二次会に使うらしくって貸切なんで入れないんですよ」
「ちなみに一つ聞くが、別れる気は」
一瞬唖然として、煙草の灰が絨毯を汚すところだった。
「…もー何なんスか。さっきから」
朝からロイはやたら見たこともない彼女に絡む。
女好きなのは知っているが、まったく不自由しているはずはないのだ。人のものが欲しくなるという子供じみたやっかみなのだろうか。
それにしてはやりすぎな気もする。いつもならもっと無関心を装う人だ。
「ハボック、ちょっとしゃがめ」
「はあ…」
何の疑念も持たずにおとなしくしゃがんで目線がロイよりも低くなる。
とつぜん肩に手を乗せて重みを預けてくると、唐突に耳に手を伸ばし引きちぎるように乱暴にピアスを外してしまった。
「…痛…っ!!!」
ころんと、とても軍人の手には見えない滑らかで白い手のひらに小さな青いピアスが乗っている。それをこともあろうに半開きだった窓の外へ思い切り投げてしまった。
日が傾いた空へ綺麗な放物線を描き、庭の茂みにおちる。
「な、何するんですか!」
それは乱暴にピアスをとられたことに対する抗議だったのか。それともピアスを投げ捨てられたことに対する抗議だったのか。恐らくそのどちらでもあったのだが、出来たばかりの彼女にはじめてもらったプレゼントを失った事実は変わりない。
ハボックの瞳の色に似ているからととても嬉しそうに笑った彼女の顔に、一瞬で靄がかかる。ようやく口説いてまだエッチもしてないのに、ふられる原因をひとつ作られてしまった。
見つけられるはずもないと思いながら窓の外に目をやる。ピアスはすっかり茂みに隠れてしまって、そこからあんな小さなものを見つけ出すのは殆ど不可能に思えた。
はあ、と落胆に肩を落とすと再びロイがハボックの肩に乗りあがるようにして、生暖かい息を肌に感じた瞬間。
先ほどとは比べ物にならない激痛が走った。
慌ててロイの肩を掴み体を離す。その箇所が熱くなって頭が沸騰しかけ、一瞬何をされたのか分からなかった。
ロイの舌が血の色で紅くそまっている。
耳を、噛まれたのだ。
生暖かいものが耳を伝うのを確かに感じる。生の脈動が少しずつ、明確に流れていく感触。
この程度の出血で死ぬはずもないが、ぞくりと背中を駆け上がるものがあった。
本能的な支配者の実感。
「お前は私のものだ」
ためらいも淀みもなく言い放つ。
「恋人だろうか家族だろうが親友だろうが、許さない」
ロイは笑っていた。普段よくするような人を食った笑いではなく、またごく親しい人に向ける優しげな笑みでもない。心の底から楽しくて仕方がないといった笑いだ。強者が弱者を圧倒する種類の。
「お前の傷も私のものだ」
そう言ってハボックの耳を今度はやさしく舐める。獣が傷を癒すように、丁寧に、慈愛を込めて。
声が出なかった。怖いのか気持ちが悪いのかそれすらも分からず、ただ身を固くしてずるずると地面に座り込む。その膝の上に一回り小さな体が伸し上がる。驚くほど軽い体だった。突き倒して逃れることなど簡単なはずだ。けれど常識的な思考はロイと接触する箇所から柔らかく解けていく。なめくじに塩をかけたとき、ぐにゃぐにゃと溶けていったあの姿が脳裏に浮かんだ。一箇所といわず、腕、膝、髪、ぴりと明らかに違う電流で反発しあうものが火花を散らすように、この焔が。
されるがままのハボックに気をよくしたのか、どんどん接触は深くなる。
ざらりとした舌の感触が、耳の後ろを舐め、薄い唇がやわらかく耳たぶを食む。
性欲でも、ましてや食欲でもないはずのそれは、酷く直情的で獣じみていてハボックを興奮させた。
喧嘩などしたことがありませんというような、白く細い指が頬を包み込んで顔を覗き込む。
額をくっつけて、じっと息を潜めた。追われているわけでもなく、隠れているわけでもなく、二人きりの部屋で。
つめたく凪いだ海のような静けさが部屋に満ちる。
黒い瞳がただこちらを見ていた。
ロイの瞳はハボックがこれまでの人生で見てきた中で、いちばん闇に近い色をしている。ひとくちに黒といっても赤みがかっていたり濃紺のようであったり色というものが見える。けれどロイの瞳には色と呼べるものがない。
間近で見るつるりとした球体の、表面を彩るつややかで深い虹彩が綺麗だった。どこまでも奥が見えない、まるでロイ自身のこころのように。
ロイの舌がそのままするりと正面に来る。あ、と思った瞬間眼球を舐められた。
それこそいまだ誰ともしたことのない接触だ。
愛しむように髪の毛をなで、頬を伝って腕をさすり、鍛えられた筋肉をたどって、また耳を撫でた。
「この耳もこの髪もこの眼もこの手も足も心臓も骨も誰にも渡さない。お前を傷つけるのは私だけだ」
再び交わる視線の先で、その二つ名の通り暗い光が灯っていた。ハボックを傷つける唯一の焔だ。
何も言わない。言葉を必要としない生き物のように、ただ、生温い接触だけが二人を繋ぐ。
これは一体何なのか。
ハボックはできるだけ考えた。普段使わないような頭をフル回転させた。
しかし答えなど出なかった。ただ分かったのは、自分が酷く興奮しているということだけだ。
キスをしたわけでもなければ、甘い愛の言葉を囁かれたわけでもない。それどころか酷い言い草で理不尽に責められ、怪我までさせられた。自分は実はマゾなのではと嫌な気分にもなる。それなのに。
あの子の細い手首よりも豊満な胸よりも小さな肩よりも、ただ熾烈な目と舌の感触が。
これは恐怖ではなく、かすかな期待と歓喜に近かった。
ロイがにやり、と笑ってハボックのズボンを持ち上げる雄の部分を撫でる。
「これは、お前の責任、だ」
血を舐めとってつやつやと濡れそぼった唇で、掠め取るようなキスを唇に落とした。何度も何度も。
親から子へ、友達同士で、そして子供が戯れにするような軽いものだったが、繊細で今まで味わったこともないような感覚だった。子供じみていて、けれど本質的なかたちをした。
それに付ける名前があるとしたら、随分歪つではあったが愛そのもの。
夕闇の気配がひっそりと二人を撫でる。呼吸が互いの頬や鼻先や首筋をくすぐる。飽くことなき欲望とは本当はこんな風に単純な接触を、終わりなく繰り返すことなのだろう。
終業のベルが鳴った。それが終了の合図。
ロイは猫のようにのびあがってハボックの膝の上から立ち上がり、コートに腕を通すとハボックのことなど振り返りもせずに部屋を出て行った。
先ほどまでの不思議な情交をまるで滲ませない、清潔で決然とした後姿だった。



あたりはすっかり暗くなっており、帰る時期をすっかり逸してしまった。
普段ひとりでいることなどないロイ個人の執務室で、天井の明かりだけが煌々と輝きハボックの影を象る。
まだぬるりとした血と唾液の混ざったもので濡れている耳に、乱暴に消毒液を擦り付けた。繊細な場所なので丁寧にやらないと余計に悪化させるような気もしたが、そうでもしないと落ち着けそうもなかった。
痺れるような陶酔感がやまない。
痛みだけがリアルにこの胸を穿つ。
適当に消毒を済ませて、傷口をガーゼで覆った。
ロイに噛まれた傷が治るよりも先に、彼女に開けられたピアス穴は肉が盛り上がって簡単に塞がってしまうだろう。そんなささやかで小さな傷だ。
きっとこのこころにも残らない。
……胸が痛むね。
可愛いあの子よりも、尊大な上官に心を奪われている自分が、彼女にもう惹かれてはいないという事実に。
ピアスは明日全部返そうと思った。
明後日はきっと派手な紅葉の跡を顔につけているだろうが、そんなことはもはや問題ではない。
坂道を転がり落ちるどころか、一気に崖から落ちているような気分だった。
ティッシュを引き寄せて、興奮したままのものを自らの手で慰める。
脳裏に浮かぶのは彼女ではなく、焔だ。昨日刺された小さな傷よりも、今日噛まれた鈍い痛みだ。
これは、俺の責任、か?

 

ロイがアレでハボもアレでスミマセン。15禁表示くらいにしたほうがいいですかね・・・あわわ。ロイハボくさいんですが、そこはハボロイだと念じつつ読んでください。どうせ突っ込まれるのはロイだしな!(下品)
最初このお題で考えていたのはロイが駄目人間な可愛い感じのお話だったのに、駄目人間だけしか残りませんでした・・・。ロイ鬼畜。つーか怖いよ。きちがい?夢野久作もびっくりです。(04/10/7)
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