3 雨天
泣かせてしまった。
大佐を。焔の錬金術師を。ロイ・マスタングを。
唇をかみ締め、きつく睨み付け、怒りに身体を震わせながらも、確かに透明な雫が零れ落ちていた。
しまった、と気が付いたときには引き止める間もなく部屋を飛び出していった。外は雨で追いかけなければと思うのに足が言うことをきかない。
胸の奥に穿たれた言い知れぬ罪悪感だけがこの部屋に取り残されていた。
何が原因だったかなんて覚えていない。冷静に立ち返ればきっと馬鹿馬鹿しくて些細なことであるはず。
ハボックは基本的に朴訥とした田舎者なので駆け引きの類は苦手だし、甘いといわれようがお互いが傷つかずに済むのなら、多少の我慢も面倒も厭わないつもりだった。
けれどその時は頭に血が昇っていて我慢できなくて、どうしても手ひどく痛めつけなければ気がすまなかった。
とにかく傷付けなければ。
だから言ってしまった。己のどろどろとした狡さを晒すことに対する恥も醜聞も捨てて。
「あんたはそうやって全部を破壊すれば気が済むんだ」
ロイは何も言わなかった。否、何も言い返せなかったのだろう。
それほどハボックの言葉は真実をついていたから。
ただ凍りついたように目を見開いて、白い顔がますます青ざめた。手を伸ばして触れば石のように冷たいのではないかと思うほどに。
黙ったまま睨み合っていると、いつの間に振り出したのか雨の音が部屋に響いた。
獲物が罠にかかるのを待つかのように、息を潜めてじっと身を固くして。
多分それは一分にも満たない時間だった。みるみるうちにロイの目に涙がたまり、抑えきれない感情を吐き出すかのように地面にぽたりと落ちた。一度箍が外れてしまうと、それは次から次へと珠になって頬を滑り落ちる。
予想だにしなかった状況に一瞬頭が白くなり適切な対応をとれずにいると、瞬く間にロイは身を翻しボロアパートから出て行ってしまった。ハボックを拒絶する泣き顔を残して。
抱きしめる腕も、かける声も、あるはずがない。傷を更に抉るだけだ。刃を向けて付けた傷から流れ落ちた血は、ハボックの掌で黒く固まって洗い流すことが出来ない。
喧嘩などしょっちゅうだった。お互いいい大人なのにも関わらず、考え方の誤差をやり過ごせずにいちいち躓く。
ロイは決して妥協しない。ありとあらゆることに関して、あくまで己の信念を貫き通す。仕事の上ではそのことに尊敬を覚えることもあるが、プライベートな面ではとても納得しきれない部分も多かった。だからついハボックも頑なになる。お互い意固地になって傷付けあう。それは前日にどれほど愛し合っていようともだ。裸で抱き合ってちょっとした戯言ですら睦言に変わった夜が遠い昔のことのように思えてくる。
感情的になって不満を投げつけて、欠点を探して突きつけて。
喧嘩をするよりも抱擁しているほうがずっといい。そんなことは分かりきっているのに原因は尽きることがない。
それでも普段ならハボックの寛容かロイの諦めで、なし崩しのうちに原因すら曖昧になって元通りになる。それが今日はついに来る日が来てしまったという感じだった。
泣かれた。泣かせた。
怒鳴りつけられても、殴られても、燃やされてもよかった。涙を見るよりは。
本当に衝動的な発言だった。呆れるくらい無防備な言葉。何であんなことを言ってしまったのだろう。
言ってはいけないことを知りながら、言ってしまうなど最低だった。
今までの人生、決して奇麗事だけではすまなかったが、できるだけ真っ当に真面目に生きてきたつもりだったのが、すべて音を立てて崩れていくよううな気がした。激昂に我を忘れて、躊躇いもなく大切な人を傷つけてしまったことに。後悔の二文字が胸に突き刺さる。
今までだって何度となく恋をしてきた。それらの過去とひとくくりにしてしまえる物の中には楽しい思い出も悲しい思い出もあって、喧嘩だって何度もしてきた。けれど一度として憎悪と履き違えてしまいそうなほどの愛情を抱いたことはなかった。今にして思えば甘えと馴れ合いの上の愛情だったのだ。だから取り返せない喧嘩をすれば別れればよかった。それならロイとだって別れればいいのだ。
その言葉を反芻してみて、すぐに出来ないと思った。
離れては生きていけない。
実際には別れたとしても何事もなかったように自分は呼吸をし、食事を取り、眠るだろう。けれどそれだけだ。
ロイとの間にも普通の恋人のようにお互い甘えも執着もあるけれど、それ以上に手に負えない何かがあった。セックスをするだけなら彼女、一緒に時間をつぶすなら友人、安心を求めるなら家族、それらのどれにも当て嵌まらない。
醜さを曝し合って、刃を突きつけて、決して安らかではすまない関係。それでも。
この人とだけしたいこと、偶然と必然を混ぜ合わせたような日常の中にただひとつのそれを見つけたことを、今でも幸運だったと信じている。
金縛りにあったように立ちすくんでいた足が急に動き出す。
謝らなければ、側にいなければ。たとえ許してくれなくても、拒絶されても。
そうしなくてはならない何かが自分たちを繋ぎとめている。
正しいことが必要なのではなくて、間違っていても構わないのだ。ただそれが今の自分たちの間で何ものにも代えられないことなのだとしたら。



ロイは日頃はとても捻くれていて扱い辛いのだが、時々非常に分かりやすい一面も持ち合わせている。今がそうだ。雨の中ハボックの家を飛び出してどこへ行ったのかと思えば、ロイの家の近くにある教会に彼はいた。もともとインドアな彼がたまに外に出たいときなど、ここで読書をしたりするのだと聞いたお気に入りの場所なのだ。
扉は閉まっており裏庭の石に腰掛けたままで、服は雨を吸ってすっかり変色していた。
その背景と切り離されたようなひとりの背中に一瞬躊躇ったが、このままにしてしまっていいはずがない。例え明日彼が何事もなかったような顔をしていたって、一度歪んでしまったものは、決して元通りにはならない。そのことを一番よく承知しているのはロイのはずだ。
なあなあで済ませられる関係を築きたかった訳じゃない。
濡れる肩に傘を差しかけた。男一人暮らしのハボックの家に傘は一本しかないので、とりあえず自分は濡れてロイとは距離を保つ。
「・・・大佐」
呼びかける声にぴくっと小さな肩が反応した。もう一度呼んでみるが無視を決め込んでいるのか、振り向く気配はない。それでもハボックは諦めずに何度も呼びかけ、ロイの態度が軟化するのを待つ。
意を決したように振り向いた顔は涙と雨とで濡れていた。
「すみません。言い過ぎました」
返事はない。赤くそまった目元で、視線だけが鋭くハボックに向けられている。
どんな反応を返されてもしつこく食い下がって許してもらおうと思ったのに、雨の中一人きりでロイがどんな時間を過ごしたのかを考えると、どんな謝罪の言葉も彼を和らげはしないことを痛感した。
「ごめんなさい。俺が悪かったです。酷いことを言って傷つけました」
子供でもないのに、口を点いて出てくるのはそんな陳腐な文句ばかり。
しかしそれ以上ハボックにはどうすればいいのか分からなかった。もう土下座でもするしかないかと思ったその時。
「・・・馬鹿馬鹿しいな」
鬱積していたすべてを吐き出すような深いため息と共に、ようやくロイが口を開いた。
ハボックにさしかけられていた傘を腕ごと引き寄せる。安物の傘では男二人が収まるのには窮屈で降り注ぐ雨に背中が濡れるが、雨のせいだけではない濡れた瞳を見ると安堵と後悔がおしよせた。
うつむく首筋の白さが冷えた身体を物語る。掴まれた腕を預けたまま空いている手で肩を引き寄せれば、素直に腕の中に落ちてきた。少しは抵抗されるかと思っていたのだが、ハボックと同じくらいロイも参っていたのだ。
馬鹿馬鹿しい。
もう一度繰り返される。何がとは言わなかったが恐らく正解を知っている。ハボックも同じことを考えていたからだ。
喧嘩と仲直りの繰り返し。いつまでたっても。
距離が縮まるどころか喧嘩するたびにまたひとつお互いの醜さを知り、狡さを知り、理解しあえないことを知る最悪の悪循環。一人が嵌れば助けるどころかもう一人嵌り、為す術もなく身動きがとれなくなっている。
「どうせまた喧嘩するんだ。それなら側にいなきゃいいんだ。離れてたら私だってきっともっとお前のことを大事だと思えるし、優しくも出来る」
「でも俺は離れたくありません」
こくん、と子供がするように頷きが返る。
「俺も本当は喧嘩なんかしたくないです。アンタにはいつだって笑っていて欲しいし、傷つけるよりは守って大事にしたいって思ってるのに、いつも上手くいかない」
雨で濡れて頬や首筋に張り付いた黒髪を掻きあげてやれば、また泣き出しそうな瞳がそこにあって胸が痛んだ。
きっとロイはこんな顔を見せるのは不本意だろう。けれど雨は不思議だ。感情を抑えなければと思わせるような鎮静効果がロイの頬をぬらす雫になる。
「私はお前に酷いことを言われたのだし、私もお前に酷いことを言った。なかったことになんて出来ない」
言葉が浮かんでこなくて、今度は自分が黙ったまま頷いた。
もともと弁の立つほうではないが、ことにロイが相手だと妥当とか無難な言葉がまるで思いつかない。それでも満足したようにロイはひとつ息を吸うと、
「それでもなかったことにしなくちゃ一緒にいられない」
そう言った。
本当は何一つ解決していない。絶望にも似た距離で二人の心は別の場所にある。
それでも一緒にいたいのなら、葛藤もすれ違いも呑み込んで安らかであるふりをしなくてはならない。
そこまでして一緒にいなくてもいいではないか。ただの上司と部下で、身体が欲しいならセックスフレンドで、どうして駄目になったんだろう。こころまで分かり合いたいなどと思ってしまうのだろう。
きっとそれが恋というものなのだ。
煩わしさも面倒くささも受け入れて、それでもこの人だけという決意にも似た。
「帰りましょう」
手を握り合って、ロイと一緒にアパートまで歩いた。
もうお互い服が重たくなるほど濡れそぼっているのに、ぴったりと一つの傘に寄り添って。
恋は愚かで無謀で美しい。

 

もっと手酷く言い合うのも萌えなんですが!
(04/11/4)
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