13 火種
「もう一回言ってみろ!!」
ハボックの怒鳴り声を聞いたのはそれが初めてだった。
長身で鍛えられた無駄のない身体は立っているだけで周りを圧倒できるほどなのに、温厚とまではいかなくてもあまり感情を表面に出すタイプではない。何かあってもたいていは流したり、茶化したりですませる程度の分別もある。
その彼が、負の感情を一心に露わにしている。
「よせって、ハボック!」
「ハボック少尉!落ち着いてください!」
ブレダやフュリーが数人がかりで暴れるハボックを押さえつけ、殴られた士官は突然のことに目を白黒させながら情けなく地面に尻餅をついていた。制止を振り切ろうとかたく拳を握ったまま、興奮冷めやらぬ荒い呼吸が響く。
年若く荒っぽい下士官同士なら喧嘩も珍しくないが、士官が上官に殴りかかるという白昼の喧嘩騒ぎに辺りは騒然としていた。司令官としては騒ぎを収めるべきだったのだが、続く言葉を耳にしてしまって出るに出られなくなる。
殴られた箇所を押さえながら相手がよろめいて逃げていくのを見送りながら、ようやく頭に昇った血が引いてきたのか落ち着きを取り戻したハボックにブレダがため息交じりで諭すように言った。
「お前の気持ちも分からんでもないが、上官に手を出したらまずいだろ」
「だってあいつ大佐のこと!」
「だから落ち着けって。自分のことなら流せるのにどうしてお前はマスタング大佐のことになるとそう頭に血が上りやすいんだ」
冷静に考えれば失礼な話だが、肉体労働派な見た目とは裏腹にブレダはとても頭が切れるし、また冷静だった。階級が同じなことも手伝ってかハボックとは年齢こそ違うものの仲もいい。ハボックも滅多なことでは己を取り乱す男ではないが、大きな手でばしばしと背中を叩かれ再び黙った。
「また、くだらない陰口や噂だろ?いちいち噛み付くなよ。大佐だって放っておけと言うんだから、俺たちが騒ぎを起こしてどうするんだ」
そんなこと分かってると何かをこらえるように口を結んだ彼は、日頃は年齢以上に落ち着いているくせにロイの前ではしないような幼さを垣間見せた。
人がぱらぱらと散っていく中で、消化し切れていない怒りを静めるように立ち尽くしている。喧嘩慣れしているはずなのに、血が通わなくなりそうなほど白くなるまで手を握り締め。
単純に馬鹿だと思った。口さがない人間の悪意や嫉妬に塗りこめられた雑言や罵倒。そんなことにロイは傷つかない。だからかばう必要など全くないというのに。
「・・・誰にも悪くなんか言われたくない」
搾り出すように、けれど切実な声だった。
それは真摯というものの存在を証明したような響きで、ロイは思わず聞き惚れた。耳の奥で何度も反芻する。
喉の奥がひりひりして、体中の水分が蒸発していくみたいな気分になった。緊張の一瞬手前にも似た、落ち着かない感じ。自分が原因だということも忘れてしまいそうなほど。
それなのにロイのために怒っているのだ。この男の感情に火を点けたことに、ぞくぞくする。
「あの人のこと、誰にも悪くなんか言わせない。俺は」
こんな声、他の誰にも聞かせたくない。
自分の名前が出てきたせいで息を潜めて隠れるように立ち聞きする形になってしまい、なんとなく出るタイミングを逸してしまったのでその場は見つからないように立ち去り、執務室で改めてホークアイから喧嘩の話を聞いてから、ハボックには半日営倉で反省しろと言いつけた。
やがて日も暮れて終業時刻になる。
鍵を持って営倉に向かいながら夜の空を覗けば、それは月の美しい夜だった。
「まったく何をしてるんだ、お前は」
「・・・大佐」
いつものように少し不貞腐れて座っているかと思いきや、思ったよりも堪えていたのか背中を丸めて後ろを向いていたのが拗ねているようで、その様子がまるで捨て犬なのでなんだかおかしかった。
「トレイズ大尉の怪我は全治三週間だそうだ。この馬鹿力め」
ロイは敵意には敏感だ。中央ほどではないにしろ、この東方にもロイを快く思わない連中はいる。そんなものにいちいち相手していては身が持たんとロイ自身はまるで相手にしていないが、やはり部下はそうもいかないらしい。鉄面皮のホークアイですら時々、銃に手を伸ばしかけて周りをひやりとさせるのだ。
今回の件も簡単な始末書だけ見れば、相手の暴言に怒ったハボックが手を出しただけのこと。だが毎回そんなことをさせていては部下を残らず常倉に入れることになりかねない。
「で、上官に殴りかかるほどお前を怒らせたのは何だったんだ?」
「あいつ・・・大佐のことを・・・」
「私?」
さすがにハボックは言い難そうにしていたが、かえってそれでロイには見当がついた。
少年らしい潔癖さというにはもういくらか年をとってしまっているが、根底でひどく常識人なのでロイの素行には多少思うところもあるのだろう。
イシュヴァールの功績、異例の出世スピード、そして焔の錬金術師。
ロイ・マスタングという人間は良くも悪くも軍内ではかなりの有名人なので、知名度に比例してあることないこと噂には事欠かなかった。その中でかなり多いのが上層部に足を開いて今の地位を手に入れたというものだ。
白い肌に端正な顔立ちの男くささをあまり感じさせない容姿が災いしてか、女性の少ない戦時中にそういう用途で上官に呼び出しをくらったこともある。とても人には言えないような目にも合わされた。
最初は悔しかったし憎かったが、意識で決着を付けるよりも先に身体が男の好みにあうように慣らされるにつれ、だんだんどうでもよくなってきた。
そして気が付けば昇進していた。当時上官だった幾人かと肩を並べる地位まで上り詰め、今なら階級を恐れることもないがあの行為と等価交換だったと思えば復讐だの怒る気力も失せた。
忘れないと、神経が持たない。
人は忘れるように生きている生き物だから。辛いことをすべて抱え込んでまでは生きていけないのだ。
「言いたい奴には言わせておけ。さすがに寝てもいない男と寝たことにされるのは心外だが、今更そんな噂のひとつやふたつ気にすることじゃない。これ以上悪くなりようもないからな」
ほら出ろ、と営倉の扉を開けた。決まり悪そうに頭をかきながら出てくる。
「私直属の部下なら、もう少し何事にも動じない心構えでいろ」
「あんたに迷惑をかけたことはあやまります。でも、もうちょっと自分を大事にしてください」
「私は十分我が身を可愛がってるつもりだがな」
何故かハボックは曖昧な笑みを返した。



そういえば今朝注意されたのだと思い出したときには、もう遅かった。
取っ手に手をやってガチャガチャと回したり押したり引いたりしてみるが、軍の施設らしく頑丈に作られた扉はロイの力程度ではぴくりとも動かない。今度は両手で力を込めて弾いてみるが同じ。
後ろでは前も見えないほど山と本や資料を持たされたハボックが「早く開けてくださいよー」と呻いている。しかし扉は開かない。
適当に聞き流してしまっていたが、資料室の扉が壊れているので、一度閉じてしまうと内側からは開けられないとかなんとか言っていたような。
「・・・駄目だ」
こんなことをしても無駄だと悟り、早々と扉と格闘するのをやめてハボックにこの事態を説明した。
うっかりで済ましていいものかややげんなりとしながらも荷物を床に降ろして、ハボックも同じ行動をとってみるが確かに扉はうんともすんとも言わなかった。
「ビクともしませんね」
「だから言っただろうが」
「錬金術とかでなんとかなんないんですか」
両手をひらひらさせて、無駄だと意思表示する。
発火布はあるがこんな可燃性のものばかりある場所で使うわけには行かない。大体扉を破壊して脱出するなど最後の手段である。しかし錬成陣を書く道具はなにも持っていなかった。
つまり、真昼間から勝手知ったる東方司令部の一室に閉じ込められてしまったわけである。
ロイはすっかり諦めモードに入ってしまったのか、埃っぽいのも気にせず床にどさりと腰を下ろした。
「もうちょっと努力しましょうよ」
「これ以上無駄な労力は使いたくない」
しれっと答えるがロイに付き合わされてとばっちりを喰らっているハボックは納得いかないものを感じながらも、諦めきれないのかおーい、誰かいないのかーと外に向かって呼びかけてみる。しかし最上階の外れにある部屋なので殆ど人も通らない。もともと空き部屋だったのをロイが赴任してから研究や調査に使うものをあれこれと運び込んだ部屋なのでそれも仕方ない。
内開きの扉なので蹴破ることも不可能だ。もっともいくら力に自信があるとは言え、こんな頑丈な扉が果たして生身の人間に蹴破れるのかはいささか疑問だが。
悪態をつきながら扉をにらむが、それで扉が怯むはずもない。引き換えロイは壁にもたれかかりながら呑気なものだ。
「心配しなくても、もう一時間もすれば中尉が気付くだろう」
「中尉は今日出張で朝出かけたでしょうが」
「ならブレダ少尉かファルマン准尉あたりが・・・」
「ブレダは今日は訓練で現場指揮だからそのまま直帰します。ファルマンは夜勤明けで休みですね」
「・・・フュリー曹長は」
「先日のテロの復旧作業で午後から技術部のほうに行ってます」
「・・・・・・」
「ようするに今日は司令部には俺とあんたしかいないんです」
そしてその二人も現在行方不明になっているので、司令部はがら空き。何かあったらたいそうまずいことになるなとあくまでハボックは現実主義だ。こりずに叩いたり叫んだりしている。
しかし五分もすれば、この閉鎖空間の打開策がいまのところないことを認めざるを得なくなった。ようやく諦めたのかロイの隣にどさっと腰を下ろすハボックを見上げながら、ロイは自分の言い分が正しかったのが嬉しいのかにこにことしている。
「そんなに不貞腐れるな、少尉。営倉とさして変わらんだろうが」
「まさかあんた、サボリの口実にここ使ったんじゃないでしょうね」
「いくら何でもそこまで悪趣味じゃない」
どうだかと半信半疑の様子だったが、この場で喧嘩をしたって状況が悪化こそすれ好転することはない。
どうせ数時間のことだろうと高をくくって大人しく救助を待つことにした。
最初は仕事のことや世間で話題になっていることなど極力プライベートには触れないように会話をしていたが、女性相手にはいくらでも気の利いた会話術を駆使してみせるロイだが、基本的に彼の興味は錬金術にしか向いていないので自然と会話も途切れがちになる。
予想通りというか、予想に反してというか、かれこれ三時間以上はここに閉じ込められているのだが、誰一人として異常に気付くものはいないようだった。
昼間はまだ大丈夫だったが、時計の針が夕方をさす頃になって急に冷え込んできた。無意識のうちに腕を擦っていたのか、ハボックが軍服の上着を脱いで差し出してきた。
「大佐、これ着てください」
「別に平気だ。普段使わないような気を使うな」
「あんたに風邪なんか引かれたら俺は自分を許せない。俺は大丈夫ですから」
ね、と納得させるように言いながら上着をロイの肩にかける。
黒いTシャツ一枚だとハボックの鍛えられた体のラインが酷く際立って見えた。袖から覗く腕はロイよりも随分太く引き締まっていて、何となく引け目を感じながらも大人しく上着を重ねる。
こんなときに思い知らされる。
決して押し付けがましくなくそれとすら分からないような細やかさで、ハボックはロイを大事にしている。数え上げればきりがないのだろうし、ロイが気付いてすらいないものも多いのだろうが、優しさというにはとても荒削りだけれどもそれは胸が詰まるほどの強い輝きを持った意志だった。
ヒューズやホークアイなど自分にとって唯一無二の大事な人たちが持っているものとは違う種類の。
多分お互いに気付いているけれど、それは酷く核心に近く、また認めたくないものであった。
ロイはそれを確信する瞬間が嫌いだ。
こわいくらいの笑顔やまっすぐな眼差しを向けられるたびに、自分たちの間にあるものは果たしてそんなに崇高なものだろうかと。多分ハボックはまったく無意識のうちにそれをしていて、ロイの戸惑いなどおかまいなしに、一身に心を傾けてくる。逃げたとしても離れたとしても、再び引き合えるのほどの強靭な繋がりだろうか。
静まりきった部屋で、昼か夜かも分からない空間で、寄り添うふたりが。
「・・・あっためるならもっといい方法があるぞ」
とても素晴らしいことを思いついたかのように、ロイはハボックに向き直って楽しげな表情を浮かべた。
そしてハボックがあ、と思う間もなくその唇を奪う。すこし硬い男の唇は、いつも吸っている煙草のせいか苦い味が混ざっていた。
薄く目を開ければ、同じように青い瞳を向けてくるのに視線が交差する。
「こっちのほうがすぐに暖かくなれるぞ」
「ちょっ・・・ちょっと待って・・・くださいってば」
普通なら同姓からキスされれば驚くだろうし、嫌悪すら抱くかもしれないし、ロイはハボックを試した。
抵抗はなかった。それどころか突然視界が入れ替わり、金髪が視界一杯に広がったかと思うと床に手首を縫いとめられる。思っていたよりも巧みなキスで舌を絡めとられ、押さえつけられる腕が動かせなかった。情熱的な深いキスは易々とロイの快楽を引き出す。
「ふあっ・・・ん・・・」
一瞬唇が離れた隙に、酸欠寸前だったロイは酸素を肺一杯に取り込む。喘ぐ声にハボックは慌てて我を取り戻したようだった。
「すっ・・・スミマセン!!!!!!!」
生娘相手でもないのに、とんでもなく悪いことをしたかのようにハボックは焦ってロイの上から飛びのく。
しかしロイは離さない。その首筋に腕を巻きつけて、とびきり艶っぽい声で耳元に囁いた。
「男は初めてか?なら覚えておけ。お前はイシュヴァールに行ってないから知らないだろうが、戦時中は男しか相手にするものがないからな」
そう言ってハボックの雄の部分に手を伸ばす。びくっと身体が強張る様子が新鮮だった。からかうようにシャツをたくし上げて、鎖骨を舐めた。少し男くさい汗のにおいがして、息がかかって髪がふわりとゆれることにすら歓喜にも似た感情を抱く。
そして自分のどこかが名状しがたいほどハボックで満たされたがっていることを知った。それは本当は身体を重ねることでなくてもよかった。しかしロイにはそれ以上のことなど分からなかったのだ。ともすれば牙をむくしかないほどに。
「お前もイシュヴァールの頃の私の噂を知っているのだろう?すべてが本当だとは言わないが、火のないところに煙は立たないということだ」
セックスなどただの性欲処理だ。ましてやこの場では無意味に不安に駆られるよりも、単なる退屈しのぎと変わらない。寒さや恐怖を感じるよりも、楽で飽きない。
どうせ一晩閉じ込められるなら、部下を懐柔しておくのも悪くない。それはイシュヴァールでの経験からロイが学んだことの一つだった。
仕事だと割り切ってしまえば、男好きするように馴らされた身体は非常に役に立つ。
「もうやめてください。そんな風に自分で自分を傷つけるのは」
ハボックにしたってそれほど品行方正な訳でもなく、誘われたらそれを無碍にすることもない。与えられた据え膳を有り難く頂くくらいには普通の男だ。しかしロイには理解できない領域で、通すべき一本の意志を通そうとするかのようだった。
がしっと肩を掴んでうつむいたまま、ロイを頑なに拒む。思いもがけない強い反発にあって、一瞬にして意識が現実のものになった。
「・・・傷付くって何?」
嫌悪や同情に満ちた視線なら知っているが、ハボックはそのどれとも違う。
哀れむのでもなく、蔑むのでもなく、けれど確実にロイの望まないものだった。吐き出すようにはっきりと響いた。
「あんたは可哀相だ」
誰にも自分を傷つけることなど出来ない。身体を自由にされることも、権力で押さえ込まれることも。それだけがロイの自信であり誇りだった。
それを踏みにじったのだこの男は。
許せないと思った、憎かった。もしもこの時、手に発火布を嵌めていたら確実に殺していたと思う。
頭に血が上り咄嗟に手を振り上げた。軍でいちばん分かりやすく上下関係をしめすのは暴力だからだ。
けれど長らく実地訓練など積んでいないロイと違って、何かあってもすぐに動けるように日々訓練をしているのだから避けようと思えば避けられたはずなのに、ハボックは大人しく殴られた。
ハボックなどに比べればまだまだだが、ロイもいっぱしの男であるので力を込めた一撃はそれなりに威力があったらしく、一回り大きな身体が壁に打ち付けられた。
しかし殴られた頬が痛むのか押さえてはいるものの、その表情はまるで自分とは別の場所で何かが起こっているかのように無表情だった。
馬鹿だと思った。ぼーっとしているようでいて、理不尽なことには決して屈さない人間なのをもう自分は知っている。
あの太陽のような笑みの中に、時折不思議な孤独がひっそりと存在していることも。だからこれまでの上官のように殴り返せばよかったのだ。
気に入らなかった。この男の何もかもが。
文句だけは立派な綺麗ごとや、押し付けがましい善意や、そんなものをせせら笑って捨てる一方で、見返りを求めない優しさなどロイには薄ら寒いことにしか思えない。
それを愛などと認めてしまうことを。
まだ握りこぶしを解けないまま、見下ろしてにらみつけた。殴った手がじんじんと痛む。焔を操る殺人兵器ではあるが、喧嘩はあまり得意なほうではなかった。
「・・・私はお前みたいな人間が一番嫌いだ」
怒りと憎しみに満ちて、自分でもぞっとするほどの声だった。きっと声以上に醜い顔をしている。
ハボックは目をそらさない。息を呑むほどの、濃く青い瞳で。
「それでも俺は、あんたが好きなんです」
決然とした言葉だった。
ただ確実にそれはもうロイには手の届かない場所で決められていることなのだ。ハボックの中の、いちばん揺るがしがたい場所で。
眩暈を覚えそうだった。知れば知るほど遠くなるような気がする。
どうしてこんなまっすぐな目が出来るのだろう。確証もないことに自信が持てるのだろう。
圧倒的で純粋で、少しだけ切ない少年の頃のように。
こんな人間を見たことがない。

 

そうと意識はしてなかったのですが、「あらしもやまない」の前設定みたいな話になりました。
年代はまちまちですがオフィシャル設定が不明なので、基本的に年齢対比をハボはロイより4歳年下という設定で書いてます。この話ではロイ26歳、ハボック22歳です。エドが国家試験を受けるちょっと前。他のキャラも適当に考えているのですが、ファルマンだけまったく見当付きません・・・あれはやせてるだけなのか?年なのか?ヒューズが正真正銘ロイと同い年でびっくり(失礼)
(04/10/30)
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