あとになって、軍の規律外の私的な喧嘩に口頭での注意だけですんだのは、ロイが司令官に頭を下げてくれたからなのだと知ったが、彼が何も言わなかったのでハボックも知らないふりをした。 たかが一週間の俄か護衛のためにあのプライドの高い人がそこまでしたということに、本当の優しさがどういうものなのかと思い知らされる。 ロイの優しさというのは自然で見栄がなかった。 誰かによく思われたいとか、恩を売りつけようとかそういう浅ましさがない。普段は人一倍に自己主張が激しいくせに、ロイにはこういうところで妙な潔さがある。 喉元に刃をつきたてられたとしてもそれが曲げられることはないのだろう。 不思議だった。我を通す強さと誰かを思いやる優しさがその内側に同居し、時折ひそやかに己に向けられていること。それに自分はちゃんと応えられてきただろうか。 それからも親しげに言葉を交わすこともないまま、短い日程の視察はすべて終わった。 明日は司令部で挨拶を済ませてから昼前には北部を発つ予定なので、今日中に片付けなければならない仕事をぎりぎりまで溜め込んだロイのせいで定時はとっくに過ぎていた。 通いなれたホテルまでの道を運転しながら、これから改めて外に出て何か食べたり料理をするのも面倒くさいし、どこかで弁当でも買って帰ろうなどと思っていると、疲れで眠っていると思っていたロイが口を開いた。 「ハボック、お前今晩は暇か?」 「中佐をホテルに送り届けたらね」 「丁度いい」 最後の一日ということもあり、ささやかな打ち上げのつもりなのかロイは自分の泊まっているホテルで食事を奢ると言い出した。ホテルのディナーなんて居心地が悪そうだと辞退したら、じゃあ部屋で飲もうと言い出す。 普通の板飯屋で腹いっぱい食べさせてもらえるほうがいいと主張したら、それだから恋人のひとりもできないんだと皮肉で返され、結局ロイの言うとおりすることになった。 あのやりとりに拘っていたのは自分だけなのだろうかと思うほどロイは普通だった。 それとも、と嫌な想像をすればきりはなく、あの下卑た噂は本当なのだろうかと。 ルームサービスというものがいくらぐらいするものなのか知らないが、ワインとビールとかるい食事がワゴンに乗って運ばれてくる。 「この一週間ご苦労だったな。お前のおかげで楽ができたよ」 「不謹慎かもしれませんけど、俺も中佐の護衛楽しかったですよ」 当り障りのない挨拶をしながらグラスを鳴らす。 はじめはまっぴらだと思っていた護衛だったが、終わってみればそれなりにやりがいも学ぶことも多かった。 ロイ自身の度量の広さもあっただろうし、タイミングの良し悪しもあったのだろうが統括してみれば悪くはなかった。 いつしか酔いがまわってきたのかロイは饒舌になり、その中には聞きなれない名前も何度か出てきた。 基本的に人嫌いの気がある彼がその名前を呼ぶとき、ふと表情が柔らかくなるのはきっと信頼している大切な人なのだろう。 ザルのハボックとは違ってロイは一時間もすれば酔いが回ってきたのか、目元がとろんと緩んで話し声が拙くなってきた。時計もそろそろいい時間を告げていて、ハボックは腰を浮かして目の前にいるロイの元へ歩み寄る。 「中佐、こんなところで寝ないでくださいよ。風邪引いても知りませんよ」 ぐにゃぐにゃと芯を持たなくなったように肘掛にもたれかかって、今にも椅子からずり落ちそうになっているロイを起こそうと肩を抱いたそのときだった。 「……知ってるよ、ハボック。一年前、あの時の暗殺者はお前だろう?」 不意打ちのように、ロイはハボックに語りかけた。 かなり酔っていたはずだが、その目は思いのほかしっかりと見つめてきて、ついに来るときが来たのだと直感した。 この一週間ずっと、消え残りの煙草から立ち上がる煙のようにどこかで気にかけていた。 そのためにロイは自分と落ち着いてふたりきりになる機会を見計らっていたのだ。そして半ば強引ではあったけれども彼にとってその機会は訪れた。 思い返せばホークアイの言うとおり、若くして佐官となった彼は当然周囲に対する警戒心の強いはずだし、そのことを責める理由もない。それなのに自分にははじめから妙に親しげで甘えてきた。 この時のために最初から謀られていたのだと思うと、怒りよりも落胆のようなものが湧き上がる。裏切られたような気がした。 ―――もとから自分たちは味方でもなかったのに。 「何のことですか?」 とりあえずシラをきるつもりで返せば、先ほどまでの傍若無人で人見知りが激しいくせに時々臆病で甘えたがりだった青年とは打って変わって、中央司令部のエリート軍人の顔をしていた。 「ロレンス将軍は公的には心臓麻痺ということになっているが、国葬の際その亡骸は棺に入ったまま公開されなかった。遺族の意向と言葉を濁していても、普通最後は勲章をぶらさげて盛大に着飾った故人の功績をたたえ、見せびらかしたいと考えるものじゃないのだろうか」 「………」 「顔も身体も綺麗なものだった。他の部分は傷つけず首の動脈だけが見事に切断されていて、医者の仕業じゃないのかという人間までいたくらいだ」 「まるで見たかのような言い草ですね」 「見たよ。将軍の死体と、その暗殺者をな」 こんな時でもハボックはロイのその、嘘も躊躇いもない、時に残酷だとすら思えるほどのまっすぐさをうつくしいと思った。 とても尊いものだと、理由や理屈ではなく、直感で。 「覆面をしてはいたがあの目を見間違えるはずがない。一年たってこんな場所でもう一度会うなんてさすがに私も驚いたが。お前だって気付いたはずだ」 これはもう腹をくくるしかないと観念した。腹の探り合いも猿芝居も苦手だ。 その焔に断罪されてみるのも悪くはないだろう。 「……その男とよく一週間も行動を共にできましたね」 遠回りな肯定のセリフにも、ロイは微かにも動じなかった。それどころかいつ寝首をかきにくるかと思っていたとまで言い出す始末で、ハボックは冷めた苦笑を返した。 「特殊部隊の任務はたとえ中央の将軍クラスでも知りえない最上級の機密事項だ。ましてや仲間内の暗殺など漏れれば醜聞でしかない」 「そうですね。でもその秘密をばらしたところで、あんたには何の徳もないはずだ。俺を消して、あんたも消される。特殊部隊のルールは知っているんでしょう?」 「勿論」 ロイの目が心までを射抜く。その触れることのできる距離に恐れを消せない。 尊敬できる上官だと思う中にノイズのように混じって、用心深く距離を見計らうことを忘れてしまいそうになる。 本当は多分、最初から自分は。 「秘密を知った者には死を。それがお前たちのすべてで唯一のルールだったはずだ……さあ、どうする?ジャン・ハボック軍曹」 かたちのよい唇をゆがめて尋ねる。 その声音はうっとりするほど魅惑的で、そういえばこの声に自分は、魂とも心ともつかない、どこかで己を立たせるための支柱のようなものを揺り動かされたのだと思い出す。 素面だったら確実にロイのほうが強いだろうが、恐らく今ならロイを殺してそのまま逃げることができる。 但しそれは、生きるという欲望が、彼の命よりも勝っているときだけ。 深く息を吸ってゆっくりと声を出す。 「あんたを殺すって選択肢はなしですね」 「何故?私がそれを知る限り、お前にだって危険があるということじゃないのか。それとも私が絶対に言わないお人よしだと思っているのか」 まさか、と苦笑が漏れた。 「何ででしょうね。別に進んで死にたくはないですけど、あんたを殺してまで生きたいって気がしないんですよ。中佐には生きて夢を叶えて欲しい」 死にたくないから殺してきた。人形のように全く胸が痛まなかったわけじゃないけれど、その罪の意識も引き金を引く感触にもいつしか慣れてしまった。それは事実だ。 だけどそれとは違うところで、か細く訴えている声がある。未熟で行き先の分からない不安を抱えている、祖父と夕日を見ていた自分が。 でも野生の獣は決して人には馴れない。一度飼われた獣が野生では生きていけないのと同じで。 「ひとつだけ教えてください」 「何だ?」 「どうしてあの時、俺を殺さなかったんですか?あんたは俺を始末しようと思えば出来たはずだ」 ずっと気になっていたことだった。あの時自分を殺していればそれはロイの手柄になったはずだ。 自分の存在はそのままテロリストか何かとして消されて、二度と出会うこともなく。 一緒に死線を共にしてきながら、次々と上書きされてもう名前も思い出せない人たちがいる一方で、あのたった一度視線を交わしただけのロイのことは、消えない傷のようにどこかに住み着いていた。 「どうしてだろうな」 ロイは今まで見せたこともないような、大人びた表情で自分自身に問いかけるように遠くを見た。 「多分、もう一回お前と会いたかったんだろうな。殺しあうのではなく、ちゃんと向き合って」 まるで口説かれているような台詞だと思った。微妙に天然で、純粋なだけに性質が悪い。 「それで、何か納得いく答えは見つかりましたか」 「分からないな。期待か失望くらいすると思っていたのだが、お前はよく分からない」 「よく言われます。何を考えてるのか分からないって。おかげで彼女にも振られっぱなしです」 おどけた風に言えばくすりと笑みを返す。 「見る目がないんだな。お前ほどまめで他人の気持ちに敏感な男もいないだろうに」 「中佐?」 「味方だと思っていた人間ですら戦後には敵になっていた。イシュヴァールの民よりも、私こそが化け物だとね」 自嘲するような声音に、自分だけじゃなくてこの人にも恐れがあったのだと気が付いた。 自分たちはこの地上ではじめて言葉を得た生き物だった。 ずっと昔には触れ合うだけで充分だったはずなのに、今は言葉を交わしても触れ合ってもそれぞれの胸のうちなど知るはずもなく、理解しあえることなど皆無だ。 それでもただ素朴な愛情を囁くことくらい許されてもいいだろうか。 不自由な僕らに。 「はじめてあんたの火を見たとき、俺凄くどきどきしたんです。あの頃がいちばん酷かったから」 「この件に関して今更お前を追い詰める気も、困らせるつもりもなかったんだ。信じてくれとは言わないが」 やや伏目がちに、どこか遠くを見るような眼差しでロイはテーブルの上の空のワインボトルを見ていた。 ハボックは殆ど口をつけていないのでロイひとりであけたことになる。 彼と飲んだのが初めてなので普段の酒量がどれほどのものか分からないが、目元まで紅く染まった顔にしどけなく椅子にもたれる様子から彼にとっては過剰摂取だったのだろう。 問い詰めるだけならいくらでもチャンスはあったのだ。でもロイはそうはしなかった。理由は分からない。 だけど、この負けず嫌いなロイが、負けのゲームをちらつかせるほどの気持ちでいてくれるのなら。 自分と同じように、ロイの心のどこかにもあの時のことが消えずに刻み込まれていたのだろうか。 ひととひとの間に横たわる年月が重みならば、出会いは強さだ。 引き合ったのならば、ここで有耶無耶にしてしまってもきっとまた何度でも、自分たちは。 「信じますよ。言葉にすると陳腐だけど、俺はあなたに会えて良かったって思ってます」 「……そうか」 「俺の銃を否定してくれたのは中佐だけでした。あのままだったら俺は、多分、大事なものをなくしていた」 もう少し冷静でいられると思っていたのに、ハボックは思ったよりも必死な自分に気がついた。口の中がからからに乾いている。 「俺には何にもないんです。夢も希望も誰かを思いやることも目的のために引き金を引く強さも」 そんなハボックに気付いているのかいないのか、ワインにほろ酔い気分だったときのような甘い声で、ロイは囁いた。 「お前は優しいな」 とんだ買いかぶりだと首を振る。けれどロイは甘ったるく目を細めたままだ。 「優しくない人間が悩んだりしない。何かたいそうな目的を掲げて生きていないと他人よりも劣っている気がする?そんなことあるわけない。誰にもお前を馬鹿にすることなんてできやしないのに」 自分にないものを知り、手に入らないことに苦しんで、こんなことをずっと続けていかなければならないのかと思うと、憧れというものはなんて残酷なのだろう。 外側の痛みには耐えられるようになっても胸の重荷は増える一方だ。成長する身体とともに自分はどこへも行けないのだと。 「おいで、ハボック」 手を伸ばすロイに誘われるままその目の前に行けば、足元に座るように促され大人しく従う。 いったい何をするのだろうと考えた瞬間、頭ごと抱きしめられ、子供にいいこいいこするみたいに金髪をかき回された。 柔らかい膨らみも、繊細で優しい手もなかったけれど、その暖かさにじわりと何かが融けていくような感触を抱く。 「どうして敵かもしれない俺を、護衛としてつかってくれたんですか?もしかして、あんたを消す機会を伺ってたかも知れないのに」 こんなことしか言えないハボックにもロイは優しかった。 「危ない暗殺者が、あんな風にボタンをつけたりするものか。この手になら護られてやってもいいと思ったんだ」 ざわざわと鼓膜が震える。己の内側から突き上げられる衝動ではなく、ロイから放たれる凶暴なほどの振動に共鳴しあうみたいに。 「……はは、凄い口説き文句っスね。中佐」 「惚れるだろ?」 期待することを諦めたふりで、本当はずっと欲しかったのかもしれない。 必要とすること、そして必要とされること。 夢とか希望とか耳障りのいい言葉じゃなくてもいい。 ただ誰かを想う気持ちの交歓の中で築かれてゆくもの。他人にあって自分にない何かを手に入れるためのもの。 |
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