一日だけの短い滞在を済ませ、翌日の朝にはもう家を出た。 家族も友人も残念がってくれる様子に名残惜しい気もしたが、一度立ち止まってしまったら、後戻りができるという甘えに慣れてしまいそうだった。 自分は後戻りの出来ない場所まで行く覚悟なのだ。もうはじめにこの村を出たときの、何も知らないただの田舎者ではない。 人を守ることも、人を殺すことも知った軍人なのだから。後悔はしていない。 家を出てから手渡された資料で目的の場所を確認し、鞄にしまっておいた銃を取り出す。 四十五口径のオート・ピストル一挺とリボルバー一挺。昨今では装弾数が少なくかさ張るリボルバーを好んで使う人間は珍しいが、マメな手入れが必要なく万が一ジャミングが起きても問題ないので、ハボックは必ず携帯していた。 威力の高いマグナム弾を撃てるところも気に入っている。弾倉を装填してすぐに撃てる状態にしてから、安全装置をかけてジャケットの内側と腰の後ろのホルスターにそれぞれ身につける。 この引き金がロイへの忠誠であり、信頼であり、後悔をしない証なのだと強く握り締めた。 あとはナイフを四本、身体のあちこちに隠しておく。できればこれらの装備が必要にならないことを祈るが、もしもの事態を想定しておくに越したことはない。 ロイに言い渡された雑用とは、ある人物の消息を確かめることだった。元・国家錬金術師であった男だ。 その頃はまだ訓練中で正式に軍には入っていなかったためハボックは戦争を経験しなかったが、男はイシュヴァール殲滅戦で人間兵器として駆り出された一人だった。 そして、戦争ともいえない虐殺に耐えかね資格を返上した今はもう軍属ではない人間。 しかし一度でも軍の片鱗に組み込まれてしまった人間は、もう二度と完全に軍と離れて生きていくことは出来ない。特に一般兵ではない国家錬金術師は、こうやってたまに極秘で調査をされるのだ。 居住地や現在の職業や家族構成はもちろん、特殊文献の秘密を漏らしていないか、軍に反逆の意志を抱いていないか、その行動や意志に渡るまで軍に監視される。 スパイのようで気分のいい仕事ではないが、それには仕事だからと折り合いをつける。 「随分さびれた街だなあ」 目的地には故郷の村を出てから半日ほどで辿り着いた。 特に変装などはしていないが、軍服を着ていなければただの旅人にしか見えないであろう姿のハボックが街に入った感想がそれだった。 自分の故郷に比べればまだ随分と街らしいし、街頭や石の舗装もちゃんとされているが、活気に飢えた感じに取り巻かれていた。 とりあえずは資料に載っていた家を訪ねて本人が住んでいれば良し。あとは二、三日家を監視。 住んでいなければ消息を追わなければならない。どうか早く済んでイーストシティに帰れますようにと祈りながら、一人暮らしをしているという町外れの家へ足を向けた。 しかし、早くもハボックはその祈りがむなしかったことを知る。 「……ない?」 資料が示していた場所は、家どころか草木も無いだだっぴろい空き地になっていたのだ。 男は健在であれば四十歳のはずだが、病気か事故でもう死んで、親族が家を処分したのだろうか? 考えをめぐらすが、推理力自慢の探偵でもないので地道に捜査するしかなさそうだった。 何か事件が起きているのならば正体を明かして憲兵を頼ってもいいだろうが、今のところまだ事件とは言えない。ハボックは辺りを見回して一軒の飯屋に目をつけた。 捜査の基本は、聞き込みだ。 「あー、あそこねえ。半月くらい前に火事が起こって家全部焼けちゃったんだよ」 余所者だと少しくらい渋られるかもと思ったのだが、特に観光名所もない街には珍しい旅人に、話し相手に不足していたらしい飯屋の主人は気前よく話してくれた。 「へえ、家の人は無事逃げられたんですか?」 愛想よく相槌を打ちながら、もっと何か有益な情報が出ないかと話を続けさせる。 「それが妙な話でさ、火事が起こってすぐに近所の人間が駆けつけたんだけど、驚くほど火の回りが速くて、結局人も出てこなかったから犠牲になったんだと思ったんだけど、家からは死体が出なくってねえ」 「死体が出なかった?じゃあ逃げたんですかね」 「まあそうだとうと思うんだが、そのまま煙のように姿を消しちまって、それ以来ここには帰ってきてないんだ」 宿をとって今日聞いた話を頭で整理してみたが、さっぱり意味が分からなかった。 火事でなくなった家、消えた錬金術師。 煙草をふかしながらその二語を反芻していると、夜逃げという言葉が脳をよぎった。自分をこの街から抹殺してしまいたかったとしか考えられない。 だとしたら何のために? 立派な家があったらしいので、金に困っていたわけではなかったようだし、借金取りはないだろう。 嫌な相手に迫られていたとか。それにしては家を焼くというのは大げさすぎる。 軍に監視されているのに気付いたから。逃げるタイミングが随分と良いように思う。それにそんなことをすれば、疚しいことがあるのを肯定しているようなものだろう。 そもそも家を焼くというのは、帰る場所を失うという行為だ。思いつきや生半可な覚悟でできることではない。 「大佐ー、早速躓きそうですよ……」 思考のまとまらない頭で、今は遠いところにいる人へ呼びかけてみる。 勿論返事があるはずもなく、ばたんと背中からベッドに倒れこむ。 安物のスプリングが軋んで、大げさな音を鳴らした。 「よく降りますねえ」 窓の外を見てフュリーがつぶやく。 今日のイーストシティは久しぶりの雨で、街全体が灰色に染め上げられていた。 大雨が地面を叩きつけるその飛沫で、外は深い海の底のように視界がきかなくなる。 相変わらず東方司令部は忙しく、有能な補佐官は一人分の穴を埋めるべく休日返上で今日も司令部に詰めていた。ハボックが有休をとってから三日になる。 「ああよく降るな」 書類へのサインもそこそこに無感動にロイがつぶやく。 その様子はいかにも憂鬱だとでも言いたげで、これ以上話すのは躊躇われたのかまた皆が黙々とデスクワークを続けた。 雨の日は無能だとか言われるが、実はロイ自身はそんなに雨が嫌いでもない。 雨の日だけは、あの戦場でもロイは人を殺さずにすんだ。 それに打ち付ける雨の音に神経を寄せていれば、ほかのことを一切考えなくてもすむ。 寧ろこの憂鬱な気分は、あの金髪の部下のことでしかありえなかった。 あれからずっと別れ際に交わしたやりとりが頭をちらついて放れない。 ハボックが何を考えて、自分とセックスしたくないと言い張るのか分からない。 確かに特定の恋人を持たずに気が向いたときに適当に相手を見繕っている自分の生活が、良識あるという触れ込みの世間一般の大人から見れば、モラルがあるとは言い難いことくらい理解しているが、社会が結婚や法律で縛っているだけのことで、愛と欲望とは本来別のもののはずだ。 セックスをすることと愛が同じだなんて思わなかったし、逆に信頼をもって繋がっていられるヒューズやホークアイとは、セックスをしようとは思わなかった。 所詮人間も多少賢いだけの動物なのだから、剥きだしの本能で分かることだってあるのだ。 結局ひとは誰しもが、ひとりだと言うこと。 ひとときの温もりを共有して離れるとき、その瞬間までどれだけ愛を囁かれようとも目の前で優しく微笑まれようとも、すっと自分の輪郭が明確になり、ああこれがロイ・マスタングという個体だと強烈に認識する。 安心も依存もそこには存在しない。 大丈夫だ、自分はまだ、大丈夫。 「大佐、そちらの書類はもう済みましたか」 「ああ……」 大切な書類でもおかまいなしにぞんざいに掴み取ると、行儀悪く肘を突いたままホークアイに手渡した。 司令部の模範とならねばならない司令官がこんな態度では、周りのものに示しがつかないと説教するのはとうに放棄した。 ここにいるのは気心の知れた直属の部下ばかりであるし、年齢に反比例して気分屋で子供っぽいところのある人間なので、今更いちいち咎めたりしても無駄だ。 そんな労力があるなら一枚でも書類にサインをさせるほうがよほど有意義である。 だがたびたびぼんやりと考え事をしたり、仕事をする手が止まったりするのは考えものだった。 「大佐。お疲れでしたら、一時間ほど仮眠をとってこられては如何ですか」 「いや、平気だ」 「そういう顔をされていません」 ぴしゃりと言われてロイは席を立った。 ひとりで歩く廊下はやけに寒々しく感じられて、発火布をコートに入れっぱなしだったことを思い出したが、取りに帰るのも億劫で、万が一ここで死ぬならそこまでの男だったのだと諦めることにした。 自分らしくない投げやりな思考に、立ち上る湯気のようにかすかなため息が漏れる。 やはり雨とは相性が悪いのかもしれない。 普段は滅多に使うことのない、佐官以上の役職者のために用意されている個室の仮眠ベッドに横になって目を閉じれば、雨音と自分の心臓の音だけがやたらに大きく響く。 本来ロイは極度の面倒くさがりだ。 今までも私生活は士官学校に入る前は家政婦に、学生時代や中央にいた頃はヒューズに、ヒューズが結婚した後はホークアイに、東方司令部に異動後はハボックに面倒を見てもらっていたと言っても過言ではない。 やればできないこともないのだろうが、家事なんてまともにしたこともないし、放って置かれれば家を一週間で廃墟にしてしまうかもという仮定も、笑いごとではなさそうだ。 たったひとつ確かなのは、大総統になるという野望が本物であるということだ。 だからそのための面倒ならばいかなることも厭わない。 目的を持っている人間とはそういうものだ。 伝説の代物でしかない賢者の石を捜し求めている兄弟だって、本来なら田舎の家で平和に暮らしていてもいい年頃なのに、親を失い家まで捨てて、外から見れば過酷でしかない道をひたすらに進んでいる。 同じように大総統になって軍事の全権を握ることが、自分の意志であり目的であり、そのためならどんなことでも遣り遂げる覚悟をしているし、決して綺麗事ではすまないことに手を染めもした。 普通でも軍人として軍にいればそれなりに出世はする。 一兵卒で入軍しても定年まで勤め上げれば曹長くらいにはなるし、活躍次第で佐官位は無理だろうが、尉官位をもらえることもあるだろう。 ましてや士官学校を出たものなら、さすがにロイの若さは異例中の異例だが、大佐はいずれやってくるポストだ。 だが、最高地位でしかなしえないことがこの軍事国家ではあまりに多いことを戦争で痛感した。 それならば自分がなるまでだと決意したのだ。 大総統になるという夢を最初に語ったのはヒューズだ。次にホークアイ。そしてハボック。あとはブレダ・ファルマン・フュリーの三人で他の人間に言ったことはない。聡い鋼の錬金術師はうすうす気付いているかもしれないが。 他者が聞けば大それた夢でしかないが、誰もロイの夢を笑ったり嘲ったりしなかった。 そのことに心から感謝している。 敵を作ることばかりが上手いと、学生時代からさんざん親友には言われ続け、自分でも多少の自覚はあるが本人に罪のないただの妬み嫉みも多いので仕方ない。 大切なのはそんなものに屈さないだけの心だ。 まだ数は少ないけれど、世界にたった二人しかいなかった本当の味方が増えた。 ここから頂上を目指すのだと確信した。 けれど知らなかった。ヒューズが家族を大事にするのと同じようにするには、身近な愛情を知らずに育ったロイは自分の感情に対して幼すぎた。 ハボックに好きだと言われて、どうすればいいのか分からなくなってしまった。近付くことも突き放すこともできないまま。 そして唐突に気が付いた。 ヒューズは自分を理解して支えてくれる人間を多く作れという。 確かに敵の多さを考えるとその通りなのだが、でもこれ以上抱えていくことは無理なのだ。 階級が上がって年を重ねて、いつの間にか自分には持ちきれないほどのものを背負ってしまっていることに、はじめて気がついた。 部下も、金も、名声も、噂も。 自分で手に入れようとしたものではなくても、望みを追う内に沢山抱えんでいた。 そして両手に持ちきれなくなったならばそこから先は、手に入れた分だけ捨てていくしかなかった。 そうして捨てたものが、本当に等価だったかどうかなんて考えることもできないくらい、見ないふりをしていかなければならないのだ。 ロイが特定の恋人を持てない一番の理由はそれだった。 自分の身の周りですら持て余しがちなのに、他人の感情まで責任を負えるはずもないのだ。 結局死ぬときはひとりなのに、生きている間だけ依存し繋がりを求めるなんて、窮屈で傲慢でうすら寒いことにしか思えなかった。その分手軽な恋ならいくらでも用意されていた。 職場の可愛い受付嬢。行きつけの喫茶店で働いている看板娘。喫茶店で知り合った美しい未亡人。 彼女たちの全てがロイに愛情を注ぎ、温める術を教えてくれた。傷つけられることなどひとつもなかった。それは彼女たち自身も傷つきたくなかったからだろう。 リスクを負う恋を求めない代わりに、求められたくもなかった。 それこそがこの世の原則である等価交換だと、数あまたの女性経験からロイが学んだことだ。 それなのに、あの男だけがリスクも責任も覚悟で近づいてきた。何を代価に差し出せとも言わずに、まるでヒューズが家族に愛を注ぐのと同じように。 きっと彼は、何かを渇望したことなんてないのだろう。 ただ背中に残された腕の感触だけが、その不在を証明する。 |
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