あらしもやまない/7
だんだん街から離れて、都会の喧騒とは無縁の大自然が広がってくる。
ここ数年で慣れ親しんだ空気が身体から抜けていって、懐かしさがこみ上げてきた。
一日目は電車に乗りっぱなしで、二日目はバスや牛に引かれたキャリーを乗り継いで、あとは山道をひたすら歩く。
それも日頃から軍人として鍛えており、体力だけが取り得と上司に称されるハボックだからその行程が可能なのであって、普通の人間なら三日はかかる距離だ。
ハボックの故郷は、都会では当たり前の電話や街灯すら無い、今なおあまり電気化の進んでいないような田舎にある。
生活は自給自足が殆どで、たまに街まで出稼ぎに出る人間がいたり、村で細々と栽培された植物や動物を売りに出たりするくらいだ。
そこはハボックのように村を完全に離れる人間は少ない、閉鎖された社会だった。
たまたま肌の色と目の色が同じで、信じる神の名も一緒だったために諍いも無く、ハボックが生まれるずっと前に国の傘下に入ったのだと聞いている。
だが、田舎というこの独特の閉鎖社会はもう長くは持たないだろうと思っている。
これから国によって故郷もどんどん近代化されていくだろう。それが受け入れられないのなら第二のイシュヴァールになるしかないのだから。
もしもそういうことが起こらなかったとしても、時代が変わっているのであれば、このままではいられない。
そのことを淋しいとも、仕方ないとも思う。
ただ、誰にとっての何が幸せなのか、そんなことはそれこそ神さまにしか分からない。
否、神さまだって分からないかもしれない。
便利で綺麗で余所余所しい、外で見たのはそういう世界だ。
久しぶりの帰郷のせいなのか、ふと自分が感傷的になっていることに気付き、気分を平常に戻そうと煙草を取り出した。これも都会で覚えたことだ。
紫煙を吐き出すとすっと気持ちが落ち着く。規律と文明で整頓された世界など忘れそうになるくらいに。
それなのに思い出すのは故郷の風景や家族のことではなく、青い制服や書類の乗ったデスクや黒い瞳の上司のことばかりだ。
もう丸一日以上会ってない。でもきっとあの人は淋しがってなんかいないのだろうな。
悶々と自問自答を繰り返す自分の女々しさに、うんざりしないでもない。
ハボックのこの感情に戸惑っているのは、何もロイだけではなかった。ハボック自身、決着の付け方も分からないでいる。
ロイがこころから自分のことを好きになってくれるなんて甘い考えは持ってなかったが、身体だけ投げ出してくるのはもうやめて欲しかった。
自分の理性だって無限ではない。いつ何が引き金になって、ことに及ぶか分からない時だってある。
心の部分が分からないから、身体で理解するというのがロイの持論だったが、それがロイ自身を傷つけるものにも成り得るのだとは彼はこれっぽっちも疑っていない。
辛いことを見ないふりをするのは、人間なら誰しもとることのある自衛手段だが、ロイのそれは過剰すぎる。
だがそれは戦争を知らない自分が踏み込むべき領域ではないと、責められているような気がした。
お前は私の何を知っているとその言葉が、今更のように頭の中で繰り返される。
何を好み、何を疎い、何を求め、何を捨て、何に何に。
何に?
知らないという事実が、こんなにも人を苦しめるということを知らなかった。
知らずに傷つける、知らずに苦しめる、知らないことが苦しめる。
ロイの描いている幸福の輪郭に、誰かを愛し愛されるということは含まれていないという事実の確認。
与えられる幸福の象徴であるはずのものが、彼にとって不要なものでしかないという事実。
ロイが必要としているものだけ与えられる人間だったら、もっと信頼してもらえるのかもしれない。
けれどロイが自分に与えてくれる全てに対して、期待と落胆とをひとつのコップにまとめていれて、どちらかを取り出すことはもうできない。
ただ都合の良い人間になってあの人の側にいて、自分は何を手に入れたつもりになるというのだろう。
生身の身体を失った鋼の錬金術師の兄弟にだって、血の通わない身体に暖かく痛烈な魂が宿っている。
失った全てを取り戻すために。
それなのに生きて生身の身体を持って目の前にあるものから逃げ出すような真似をするのは、全てを捨てて生きているのも同然だ。彼らが失ったもの以上に。
失うことの痛みすら、手に入れる努力をした人間にしか与えられない。
努力しないで放棄するのは、最初から持っていないことと同じだ。
諦めるために、欲しがったわけじゃない。
大事にしたいとか守りたいとか、そういう感情がロイにとって本当に不要のものなら、軍を離れる覚悟はできている。
今更ロイ以外の人間の下に付く気などない。
きっぱり軍籍を返上して田舎に引っ込んで、誰か女性と結婚して普通の家庭を築いて戦と関係ない場所で死ぬのだ。
多分、最期の最期まであの人のことを想いながら。
ロイよりも優しい人間なら沢山いる。
ロイよりも尊敬に値する人間だって探せばいるだろう。
それでもこれから先どんなに素晴らしい人間にあったとしても、それを探すために生まれてきたわけではないのだ。
言葉にすれば陳腐だが、そう思うくらい本質的で強烈な運命だった。
二十数年でただこれに出会うために生まれてきたのではないかと錯覚するくらいに。
自分の手で選んだものなら、どんなに辛い運命だとしても愛せるだろう。
いらないと切り捨てられたとしても。




五年ぶりになる帰郷だったが、故郷の様子は殆ど変わっていなかった。道と家と畑と、自然以外相変わらず何も無い田舎だ。
「あっ、兄貴!」
「ジャンお兄ちゃん!!」
大雨で家が壊れたと聞いていたが、どうやら離れの一部が崩れただけで大した被害もなかったらしい。
これも職業病とでも言うのか、家族に会うよりもまず家の被害を確認してしまう自分に苦笑が漏れた。
だが家の周りを長身の男がうろうろしていて目立たないはずが無い。
早々と兄弟に発見されるとその日は、家族はもとより近所の人間だの幼馴染だの賑やかで手荒い歓迎を受けた。
父は足を怪我したせいでしばらくは不自由を強いられそうだが、体力は有り余っているようで放っておいてもあと二十年は平然と生きているだろう。
兄弟も記憶よりもそれぞれ五年分成長していて、一番小さかった妹も自分の足で立ってちゃんと言葉を話せるようになっている。幼馴染みたちはもう半分くらいは結婚して家庭を持っていた。
だが弱ったのは母親に彼女くらいいるのかと問い詰められたことで、まさか上司(しかも男で悪名名高いイシュヴァール殲滅戦の功労者だなんて)に片思い中ですとは言えずに適当に言葉を濁す。
今回は大事に至らなかったが、父にもしものことがあった時、長男の不在が彼女の中で不安になったのだろう。
だから本心では家に帰って、落ち着いて家庭を持って欲しいに違いない。
そして、それに応えられないことに少しだけ罪悪感を覚えた。
ロイを愛している限り、自分に子供ができることは百パーセントない。
勿論適当な女性を掴まえて事実だけをでっちあげることは可能だが、そんな無責任をできるはずもない。
散々騒いだ夕食の後、村がすっかり寝静まった夜中にハボックは家を抜け出して、村外れにある小高い丘まで足を運んだ。
ここは高い建造物の存在しないこの村で一番高い場所で、かつて少年だったハボックにとって、一番お気に入りだった場所である。
たびたび今日と同じように抜け出してはひとりで星空を眺めていた、ここが世界の果てだと信じて疑っていなかった頃。
地面は夜露でしっとりとしていたが、気にせず寝そべった。
今日は薄雲ひとつない晴れた夜空で、見上げれば零れ落ちるほどに星が瞬いていて、記憶している星座を指でゆっくり辿ってみる。
動物のかたち、人間のかたち、道具のかたち。
鳥や蛇などはまだ分かるが、人間となるとどうやってそう見たてたのか不思議だ。昔の人間は随分と想像力が豊だったらしい。
ハボックに星座を教えてくれたのは、両親でも祖父母でもなく、随分前に亡くなった近所に住んでいた老人だった。
生涯独身を通したその人は変わり者として通っていたが、彼はハボックが子どもだからと言って適当にあしらうということがなく、いつも真面目に話をしてくれた。
顔や他にどんな話をしたかなどは一切思い出せないが、教えてもらった星の記憶はしっかりとした手触りを持って残っている。
懐かしいというより、目が覚めるような感覚だった。
あれだけ偉そうなことを言っておきながら、ロイに対して少しばかり不実な自分にばつの悪さを覚えながらも、軍にいた自分のほうがまるで夢の中にいたのではないかと錯覚しそうになって、あの時ロイが言っていたのはこのことだったのかと合点がいった。
ひとの気持ちには鈍いくせに、時折核心を突いていて後になって驚かされる。
十年前には一緒に笑いあって、そして今日も一緒に笑いあった幼馴染みたちは、ハボックが東方司令部で何をしているか、何をしてきたかなど知らない。
必要とあれば人の命だって奪ってきたし、目の前にいながら助けられなかった命だってあった。
それをなかったことにはできない。
なかったことにして、温かく少しばかり退屈なこの場所に戻ってこられるのだろうか。
できるわけがないのだ。
星を眺めながら、ロイのことを思い出した。
誰かを好きになるということは、嬉しくて温かくて、それと同じくらい不安でせつない。
身体の中に余計な空洞ができてしまったようで、か細くそれを訴える声が自分にだけ聞こえてくることがある。
いつもは雑多な忙しさに紛らわしてしまうが、今日はそれが上手く行かなかった。
駄目だな。感傷的になっている。
ハボックは靴底に隠していたナイフを取り出してみた。
手のひらに収まってしまいそうなほどに小振りのものだが、正確に刺せば人一人くらい殺すことが出来る凶器。
空の光を反射して幽遠に蒼白に光る。
こんなものを見て安心してしまう自分は、家族の知っている優しくて少しぼんやりしているジャンではなく、東方司令部の少尉だ。
だけど、ふたつは同じものではないけれど、別のものでもない。それが嘘偽りない気持ちで、望みだった。
夢じゃない。明日になれば、全部が現実だ。
だから、今だけは。
今だけは東方司令部の大佐と少尉ではなく、ひとりの男としてロイのことを想ってもいいだろうか。
「……ロイ」
はじめて口にした名前は、なんだか照れくさくてひどく甘い響きをしていた。
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