出勤時間の司令部ではロイとハボックふたりして机に突っ伏して寝ていた。 本日一番乗りだったのはフュリーだったが、階級が下なので起こしていいのかどうか迷っているうちに、大佐の右腕が出勤してきた。 「ホークアイ中尉、お早うございます」 「お早う、フュリー曹長……あら、大佐とハボック少尉?」 寝汚いロイはよく司令室でも個人の執務室でも、下手すれば外でも寝ているが、ハボックが寝ているのははじめて見た。 「朝来て見たらこうだったんですけど……」 「仕方ないわね」 東方司令部最恐と称される女士官は、佐官に対しても全く臆することなくつかつかと歩み寄る。 昨日自分が置いていった残業に埋もれて惰眠を貪っているその顔は、まるで子供のようだった。 もともと大佐としての威厳にかける容姿だが、部下に嘗められていると感じるのは、本人の言動にも大分問題がある気がしてならない。 それでも皆ロイを慕っているというのには、鈍い彼はまだ気付いていないだろうが。 最初は左遷同然で飛ばされた東部で、寝顔を許せるような心強い味方ができたのだ。 「大佐、起きてください」 ゆるやかに呼吸するのに合わせて背中が上下する以外は、その華奢な指先すらぴくりとも動かない。 軍人として一通りの訓練は施されているはずだが、焔の錬金術師という二つ名を持つ彼はせいぜい威嚇発砲する程度で銃を殆ど扱わない。 外では手袋を嵌めているその手は、女のものと間違えそうなくらい白い。 でもこの手がきっと世界を変える。 そのためなら、自分はいくらでも己の指を傷つけ引き金を引くだろう。 今は安心して寝ているこの背中を守るために。 いつか多くのことに傷つき、それでも前を向かなくてはならない人のために。 「大佐、朝です」 もう一度今度は先程より強く呼びかけてみるが、全く反応なし。 一瞬死んでいるのではないかと思うくらいよく寝ている。一つ息を吐いてから彼女のとった行動はフュリーをぎょっとさせた。 迷うことなく腰のホルスターに手を伸ばし、がしゃんと音をさせる。 「大佐、あと一分です」 冷ややかに放たれた声は静かであったのに、ロイの本能を呼び覚ますのには十分だったらしい。 長年の教育の賜物で、この後何が起こるか染み付いているのである。 びくっと肩を震わせてのそりと頭があがった。黒髪がさらりと額におちる。 「お早うございます」 「……やあ、お早う。ホークアイ中尉、フュリー曹長」 「昨日あれから家に帰られてないのですね?」 予想以上に片付いている書類の山と、ろくに睡眠をとってないらしいロイが証拠だ。 こまごまと小言と言い訳のやりとりの中でハボックもようやく目を覚ました。 昨日はあれから有耶無耶のうちにロイの仕事を片付けるのを手伝わされ、そのまま寝入ってしまったせいでまだ私服だ。 「お早うございます、ハボック少尉」 ホークアイのモーニングコールを聞けるのが、ラッキーなのかアンラッキーなのか。 多分後者だと背中に冷たいものを感じる。何故銃を握っているのかは突っ込まない。 「とりあえず制服に着替えてらっしゃい」 泊まりのための予備の軍服を置いているので、さっさと着替える。 昨日脱ぎ捨てた服の中に愛用のライターが入っているので、今日は机の中のマッチで我慢しなければならない。 司令室に戻るとホークアイがコーヒーを煎れてくれた。猫舌のロイは淹れたてのコーヒーとにらめっこしている。 「大佐、昨日中にとお願いした資料を」 「ああ。どこだったか……あっ!」 短く不穏な声が漏れたので振り向くと、ばさりと書類の山が派手に崩れてロイの机の周りを白く埋めた。 ロイのうっかり具合にか、崩れるほどの山になった書類にかホークアイがため息をつくと拾い始める。 椅子に座ろうと思っていた矢先のできごとだったので、中途半端に腰を落としかけた体勢からハボックが呟いた。 「あー、やっちゃいましたね」 「うるさい!お前も手伝え!」 四人でやればそれほどの量でもない。朝から東方司令部の頭脳が床に這いつくばって情けないが、片付け始める。 たまに張本人のロイが文句を言う以外は大方滞りなく作業は進み、ようやく終わりの見えた頃。 「大佐、そちらの資料を渡してもらえますか。片付きませんので」 「ああ、わかっ…」 立ち上がろうとして机にぶつかったロイのせいで、ばさーっと派手な音がしてもう二山が崩れた。 ハボックは頭から書類のシャワーをかぶる。ホークアイが本日二度目のため息をついた。 「もうあんたはそこで大人しくしててください!!」 一連の騒動が終わった頃にファルマンがやってきた。 ロイが机の上に座ってコーヒーを啜っているのは、仮にも東方司令部ナンバー2として相応しい行為には見えないが、ロイの奇行はいまに始まったことでもない。 現にホークアイとハボックとフュリーは何も言わずにもくもくと机の下に氾濫した資料を拾っている。今日は夜勤明けで午前いっぱい非番になるブレダはいない。 とばっちりを食らっては敵わないので、何も聞かないでおこうとファルマンはそそくさとその日の業務を確認して、ブラックハヤテ号にやる水を汲みに部屋を出る。 背後で今度は何か食器が割れるような音がしたが、振り返りはしない。 まさか、ロイがマグカップを落としたなんてことはないだろうと信じたい。 朝からにぎやかな東方司令部である。 「あー…やっと終わった」 ロイが崩した書類を拾って仕分けて、ついでにひっくり返されたマグカップを片付けて、もう一日分は働いたような気になる。 それだけの資料をとりあえず外へ運び出すだけで人手が要ったので、ホークアイがファルマンとフュリーを連れて出て行ってしまった。出る前に逃亡を図られないようロイに釘をさすのも忘れない。 「大佐、そろそろニューオプティンまでお出かけになる時間ですので支度をしてください。ハボック少尉は車の準備を」 面倒だがさすがのロイも上官の命令をそうそう蔑ろにはできない。 出かける前最後の仕事に、運転役を仰せつかったハボックはロイにコートを着せて、コートのポケットから引っ張り出した普通の白い手袋も嵌めさせる。 ロイはサボり癖を除けば仕事や緊急時に関しては相当キレるが、普段は誰かが世話を焼かないと本当に何もしない。 困るのは本人のはずなのに、放っておけば雨でも大ボケをかまして傘も差さずに出るような人だ。出かけにコートを着せるのもホークアイが決めたことだった。 「大佐、車に移動してください」 「……おい」 「はい?」 唐突すぎてにらまれる理由が全く見えずに間抜けな返事を返すと、明らかに機嫌の悪い表情を向けてくるだけで、口が開かれる気配はない。 俺、何かしたっけ?と記憶を探るが、今日はキスもしていないし触ってもない。 何が気に入らないのか真意を確かめようとするが、イライラが頂点に達したようでもういいと廊下へ続く扉へ手をかけようとする。 冗談ではない。数日のこととはいえ、明日からしばらく会えないというのに喧嘩別れしてたまるか。 慌ててその手を留めて、ついでにこれくらい許されるよなとロイの身体を胸に抱きこんだ。 すると腕の中のロイが一瞬だけ肩をゆらしたが、すぐさま納得したように背中を預けてくる。 もしかしてこの人、俺が別れ際いつも抱きしめようとするのを、覚えていたんだろうか。 錬金術師と聞くとさぞかし複雑な思考回路をしているような気がするが、この人の思考回路は他の人より簡潔すぎる気がしてならない。 そしてそのことが返って他人に真意を伝わりにくくしているのだと果たして吉か凶か。 「大佐は、あったかいですね」 背中からだと表情が見えないが、ハボックの言葉に反応するように小さく揺れる。 小さくて華奢な女性も好きだが、自分は世間一般に比べれば長身な部類に入るので、ロイくらいの背の高さが一番腕に馴染む。 そこには柔らかい抱き心地も女性特有の甘い匂いもないけれど、腕の中だけは満ち足りた気分になるのだ。 こうやって抱きしめた時は、普段自分の気持ちにも人の気持ちにも鈍いくせに、ハボックが手放したくなくなる瞬間を見計らったかのようにいつもロイから離れる。 「いい加減離せ」 自分から振ったくせにこれだから。そう考える頭とは裏腹に、気持ちは妙に浮かれていた。 やっと離れたハボックに背を向けて、車へ移動すべく早足で廊下を歩いた。 運転役のはずのハボックはのんびりと後からついてくる。 普段なら上司のために扉くらい開けろというところだが、今は自分の後ろにいるのが有難かった。 頬が熱くて、とても顔を向けられない。こんなのは初めてだった。 体中の血がざわざわと集まっているような顔も、別の器官と繋がっているのではないかと思うくらい早く強く鼓動を打つ心臓も、たかがハボックごときに触られたくらいでこんなことがあっていいはずがない。 昨日までは触られてもなんとも無かったはずだ。 自分は実は不感症ではないかと疑いたくなるくらい、体は全く反応しなかった。それなのに。 「大佐、そっちに行ったら裏庭に出ますよ」 歩きなれたはずの東方司令部で、こんなミスをおかすほど動揺している。 しょうがないですねと言いながらハボックは、ロイの手をひいてさっさと正面玄関に歩き出した。 さっきと同じように落ち着かない感じが嵐のようにやってくる。 おかしい。大体こいつが私を好きで、私はこいつを好きではないのに動揺するのが私なのがおかしい。 「あの状況でキスの一つもできないなんて、案外臆病なんだな」 ぐるぐると駆け巡る動揺を悟られないために憎まれ口を叩くのも性分。 ただヒューズやホークアイはそれを見抜くが、それを見抜けないのがまだハボックの付き合いの短さだ。 「そう取ってもらっても間違いじゃないですけど、できないんじゃなくてしたくないんです」 照れ隠しでも強がりでもなんでもなく、ハボックが言い放つ。昨日の不毛なやり取りから何を見つけてしまったのか、そこには凛としていて頑固なものがある。 草木一本ない大地の上にくっきりと影を落とす鳥みたいに。 部下としての忠誠以外はいらない。ましてや、ひとりの男としての顔なんて。 好きだなんて言って、一体私にどうしろというんだ。 「俺はもう決めました」 そんな一人前の男みたいな顔をして、私に何を求めるつもりなんだ。 「アンタが俺に答えを出すまでは付いて行くって。それまで絶対に抱かないし、キスもしません」 これだから嫌だったんだ。身体目当てだとか、金品や出世の要求ならまだ応じられる。 しかし心というのは、自分のものであっても自分のものでなくなる時がある。 形だけすきだと言ってみせても、意外に人の心に聡いこの部下はそんな嘘は簡単に見抜くだろう。 ああ面倒くさい。 恋愛するように生命に仕組まれている男女の仲なら手馴れたもので、女を上手に振る方法は知っている。 しかし男の扱い方なんて知らない。 まだこれが酸いも甘いも嘗め尽くした精神的に余裕のある大人の男ならいざ知らず、世界の醜い部分なんか一握りしか知らない若い田舎者なんて、自分の許容範囲を超えている。 嫌いだと言えるなら、簡単なのに。 嫌いじゃない、でも好きでもない。 私は科学者だから、正解の無いことは専門外だ。 「無欲で結構なことだな。それならついでに軍でもただ働きすればどうだ」 嫌味のつもりだったが、大真面目にそれじゃ生活できないし煙草も吸えないっしょと返された。 更に嫌味返しをしてやろうと考えていると、思いついたようにハボックは条件を持ち出す。 「そんなに等価交換が好きなら、ひとつだけお願いしてもいいですか」 「なんだ」 「いってらっしゃいのキス」 ここに、と言って頬を指差す。 子供かお前はと言いたくなったが、それだけハボックは平凡な家庭で幸せな環境に育ってきたのだいうことを、思い知らされた。 そして、それを奪うのはきっと自分だろうという予感も。 悔しいが背が届かないので肩に手をかけて屈ませてから、少し背伸びをして唇で軽く触れた。 これがさよならになるなんて、思っていなかった。 |
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