あらしもやまない/5
取るものもとりあえず家を飛び出してきたが、たどり着いたロイの家には明かりは点いていなかった。
仕事に対しては不真面目に見える部分も多いが、錬金術師としては真面目で研究熱心なロイは、いつも夜遅くまで自分には到底理解できないような難しい錬金術の本を読んでいるのを知っている。
その彼の家がこの時間にもう暗いということは。
一瞬どこぞでご婦人とデート中かもという考えも脳をよぎったが、ここしばらく仕事を溜め込んでいたはずなので、残業でもさせられている可能性のほうが高い。
逡巡したのは一瞬で、少しでも会えそうな可能性の高いほうに賭けることにした。
ふと、今日が満月だったのかと空を仰いで気付く。
私服のまま来てしまったが、東方司令部の入り口にいる衛兵はたまたま顔見知りだったので、用事を思い出したと告げれば通してもらえた。
「大佐!」
「……ハボック?」
いるかもと思った人は本当にそこにいた。司令室の椅子にふんぞり返って眠りこけている人が。
手元には読みかけの新聞と、コーヒーの入ったマグカップが残されている。
息を整えながら声をかければ、ぴくっと肩が揺れて漆黒の瞳が開かれる。
一瞬だけ寝ぼけながら状況が把握できていないようだった。
軍人としては問題があるような気がするが、それは信頼できる部下だから安心しているのだろうと、都合よく解釈しておく。
「俺、軍を辞めませんから」
慎重に言葉を選んだら、語るほどの言葉でもなかったけれど。でもどうしてもいま伝えなきゃいけなかった。
「……わざわざそんなこと言いに来たのか?」
呆れたとでもいうように、かたちの良い眉をひそめてロイが呟く。
「そうです」
「馬鹿だな」
「馬鹿ですよ」
あんたのためなら、いくらでも馬鹿にも愚かにもなるよ。
椅子に身を沈めたままのロイの傍によって、まだ半分夢の世界に未練を残しているその人の髪に触れ、そのまま頬に指を滑らせれば、猫がのどを鳴らすように気持ちよさそうに目を細める。口では何だかんだと文句を言うが、スキンシップは嫌いではないのだろう。
男同士の固い身体でも、隣にいれば温かいのは生きている証だから。
軽い接触の合間に、ためらう理由もないからすんなりと言葉が出てくる。
「好きです。それがここに戻ってくるただひとつの理由だ」
それまで大人しくされるようにされていたロイが、ようやく身を起こした。
「お前が好きだって、私は好きではないぞ」
これまで何度も聞かされたセリフがレコードのように繰り返される。
錬金術師というのも厄介なものだと思う。
世の中には絶対音感というものを持っている人間がいて、聞こえてくる全ての音に対して音符をつけてしまうそうだが、錬金術師も似たようなものだ。
この世の全てにわざわざ理由をつけて考えなければ気がすまない。
何でも理論的に考えて、結果を必要としている。
「好きじゃなくてもいいです」
「じゃあどうしてセックスはしないんだ。男と寝る趣味はないが、お前の気が済むならしてやっても構わんと言っただろう」
「そんなの決まってるでしょう?あんたが俺のことを好きじゃないからだ」
堂々巡り。もとから同じレベルで会話していないのですれ違ってばかりだ。
お互い、相手の考えていることが分からない。まだ正面からぶつかれるほうがマシだった。
じっとその瞳を見つめると、見つめ返すその眼光の強さに射抜かれてしまうかと思った。漆黒が白い肌に映える。
真の美しさは狂気を含んでいるというが、美しく、恐ろしく、全ての決意が詰め込まれたロイの目。
「お前は愛とセックスを同等だと思っているのか」
真っ直ぐな目とかすかに震える睫毛。ハボックはそれで突然、理解した。理解できない理由を。
ロイは自分のことを人間だと思っていないのだ。
あのおぞましいイシュヴァールの戦争では人間兵器などと呼ばれていたらしいが、今もってなお人間とは別の生き物だと心のどこかで思っている。
柔らかい場所に刻み込まれた傷は癒えることなく膿んで、もう痛みすら自分のものになってしまっている。
癒してあげたいなどと思うのは傲慢だ。この人は戦っているのだから。
戦う人に必要なのは傷を癒すことではなく、援護射撃をする人間だ。それでも。
「そりゃ俺もただの男だから欲望はあります。行きずりの女と寝たことがないとは言いません。でもね、大佐」
綺麗なものしか認めたくないほど潔癖でもなく、全てを諦めきれるほど覚悟ができている訳でもない。
それでも、肺の奥でずっとこの気持ちが息をしている。
乱暴に吹き荒れる風にも倒れず、踏み潰されてもしぶとく根付く雑草のように。
理由なんかなく、ただそこに存在しているものが。
「愛は等価交換じゃないんですよ」
「非科学的だな」
そっけなくロイは言った。
一般人から見れば普通でも、ハボックのように体格に恵まれた者の多い軍人としては小さい部類に入るであろうロイだが、態度の大きさだけは他の軍人に引けを取らない。
足を組んで偉そうに椅子に座る様子は、とても三十路前には見えない童顔とちぐはぐで、初めて会ったときも少しだけおかしかった。
けれど、それが妙にはまって見えてくるのが時間の不思議というものだ。
錬金術の理論が分からない者には謎でしかない焔も、今では何ものにも変えがたい道しるべになる。頑なな錬金術馬鹿も不思議に愛しい。
「何でも科学的に測れると思ってるなら、大間違いです」
「確かに愛とやらは何とも等価交換できないがな」
だから人体錬成は不可能なのだし、他人を意のままに操る錬金術も存在しない。
等価に交換するものがなければ、それはそこに存在してはならないものだからだ。
しかしハボックはロイの理論など半分も分かってないだろうが、きっぱりと言い放った。
「そこが間違いなんだ。愛は等価交換で得るもんじゃない」
「なら、お前の言う愛は何を代価に得る?」
「どこにもなかったものが、生まれるのが愛です」
自分も錬金術師でなければ、ハボックやあの親友のように素直に愛を信じることが出来ただろうか。
否。多分錬金術師でなくても自分は愛を信じなかっただろう。軍人にはならなかったかもしれないが。
そしてここには多分は存在しない。
「あんたに会うまで何もなかった。でもあんたに会ったからそこに何かが生まれたんだ。見えなくても触れなくても、俺の中に存在する」
だからそれを俺は愛ってことにしてますけど。
少しはにかんだような口元は、健康的というのが相応しい真昼のような笑みの形で。
普段はやる気のなさそうな印象が強いだけに、このように返されると困惑してしまう。
そこには嘘も誤魔化しもなくて、逃げ場もなかった。
マイナス査定をつけて付き返せないのが悔しい。これが自分以外の人間に向けられたものなら、どれだけ楽で幸せなことだったか。
「お前は馬鹿だ。私には軍もお前の事情も知ったことじゃない。私は、私の意志で決める。その覚悟もないくせに」
公私混同、目茶苦茶だと自分でも思った。
でもどんな大義名分をもっていようが結局すべて誰かの意志で始まり、誰かの意志で終わる。
それが神の名を借りた空っぽなものだとしても。
それならば、自分のなすべきこともひとつだ。
イシュヴァール殲滅戦の後ただひたすらにそこだけを見据えている。
「だから、覚悟しに来たんです」
あなたに付いていく事を。
「地獄の底でもいい。あんたの焔を俺は見ていたい」




言わなきゃいけないことがある。けれど、どうやって伝えたらいいのか分からない。
確かめたいことはひとつなのに。
馬鹿だ、お前は。できもしないやせ我慢とか、しなくていい苦労とか、そんなものを引き受ける覚悟とか。
ただどうしようもなく、泣きたいような気持ちになった。
ほんの短い時間だったかもしれないが二人には長い沈黙の後、ロイはゆっくりと椅子から立ち上がって自分の側にぼけっと発っている男に腕を伸ばした。
首筋にするりと腕を回して、自分よりも背の高い頭を抱え込むようにぎゅっと自分に寄せる。金髪は思ったよりも柔らかくて手に馴染む感じが心地よい。
すると突然、指が食い込むんじゃないかと思うくらい強く背を抱かれた。
いつも壊れ物でも扱うように優しく触れてきたのに、自分以外の男という生き物の荒々しさを感じる。
固い指の感触が確かな意志を持って触れてくることに、込める力の分だけどれだけハボックが自分を大切にしていたのか、ようやく思い知らされた気がした。
だからできるだけ強く抱き締めてやろうと思った。
そこに愛なんかなくても、自分たちにはこれが必要なのだと。強く。
どれくらいそうしていたのか、首筋に回っていたロイの腕が緩んだ。
ハボックも名残惜しさを感じつつも体を離す。
「………」
少しだけ本心に触れてしまった後の距離感はなんとなく照れくさくて、お互い次の言葉が言えないまま、息をすることも忘れたように立ち尽くしていた。
うつむき加減のロイに目をやると、気のせいか心なし目元が赤い気がする。それは、泣き出す直前のような。
まずいまずいまずい。
健康な成年男子。無防備に好きな相手のこんな姿を見せられてその気にならないほうが異常だ。
しかしハボックはなけなしの理性を総動員して耐える。
やりたいかやりたくないかなどと聞かれれば、それはやりたいに決まっているのだ。
年若い娘じゃあるまいし、行為そのものを怖がっているわけでもなければ、愛あるセックスというものにそんなに夢を抱いているわけでもない。
ただ本心を隠して身体だけの関係を作ることが怖かった。最初に間違えてしまったら、もうずっとそこから抜け出せなくなるような気がしていたから。
打算計算込みで、ハボックはロイにとってそれだけの人間でいたくなかったのだ。
貧乏くじといえば貧乏くじだ。もっと素直に愛に対して従順で、貪欲な人間ならいくらでもいる。多分、目の前の上司以外の人間なら大抵。
そんな人間と楽しく恋愛をするのが自分にはあっていると思っていたし、振られる回数が多いということは、それだけ沢山の女の子と付き合ってきたということでもある。
本人は気付いていないが、だらしない咥え煙草と猫背を除けばハボックもそこそこハンサムなので、異性の目をひかないこともない。
女の子と付き合えば大概は夢中になったし、結婚という単語はまだ現実味が薄かったがあと2、3年もすればロイの親友であるあの男みたいに家庭をもつかもしれないとは思っていた。
けれどそんな常識の範疇で恋愛をしていたはずが、ここにきて今までのどの女の子よりも一番はまってしまったのがどうして男で、年上で、上司で、常識知らずで、あまのじゃくで、長所の三倍は欠点のありそうなこの人なのか。
最初はただの好奇心。出会った頃の警戒心だらけな部分が、親しくなればなるだけころころと表情を変えた。
次も見たい、もっと見たい。
まるで新しい生き物に出会ったみたいで、ロイにしてみれば随分失礼な動機だとも言える。
それが気がつけば恋みたいな気持ちになっていて、男に惚れる趣味なんかなかったから焦りもした。彼女を作ろうと躍起にもなった。
だが、どの女の子と付き合ってみても結局はロイとの違いを探すばかりで、意味がないことに気がつくのにそれほど時間はかからなかった。
完璧な欲求の行き着く先がそこにあるのに、それの模倣を手に入れても喜ぶことなんか出来るはずがない。
いつからそんなに贅沢が言える身になったのかと自分に呆れ半分、未知への期待半分。
予想と違ったのは、未知の部分が大きかったことだろう。
ロイの派手な女関係は噂どおり。仕事の合間を縫ってはデートを繰り返し、連れているのはいつも良識ある美しい婦人ばかりで、さぞかし素晴らしい夜を過ごしているのだろう。
なのにキスもセックスも一人の夜も知りながら、恋だけを知らない。
どれだけ懇切丁寧に愛を語ってみたところで彼の頭上を素通り。
肉体関係は明け透けなのに、メンタル面は思いのほかガードが固かった。
普通房事のことは墓まで持っていくが、愛を語ることは惜しまない人間が多いというのに。
ここまで逆だとロイが大胆なのか臆病なのか測りかねる。
きっかけはままごとみたいな一度のキスだ。
持て余しがちな上司への恋心などという厄介な荷物を抱えたハボックは、その日もまた仕事を放り出して逃亡したロイを探していた。
数日前からホークアイが出張で出かけていて、最初は怒られるのが怖かったのか真面目に仕事をしていたが、すぐに肘を突いてぼーっとしだし、気がつけば窓から消えていた。
出かける前に副官がみっちり仕事をさせていたので仕事はそんなに溜まっていなかったが、仮にも大佐がふらふら外を出歩かれるとこちらの心臓にも悪い。
捜索開始十分程度で発見されたロイは、捨てられた猫のように不貞寝していた。
「大佐ー、何してんですか」
声をかけても一度こちらに視線を寄越したきりで、すぐにそっぽを向く。
ホークアイ以外の言うことなんか聞きやしないので、怠けていようとも誰も文句も言わなかったのに、何がそんなに気に食わないのか。
「た、い、さ。子供みたいな真似してないで執務室に戻ってください。風邪引きますよ」
無視。そうくるならこちらも実力行使。
がばり、と荷物でも抱えるように肩に担ぎ上げた。はじめてロイがまともに反応を返す。
「おい!上官侮辱罪で訴えるぞ?!」
「それは困ります。でもあんたに風邪なんか引かれて中尉に撃たれるよりはまだマシっス」
その後もぎゃーぎゃーと喚かれ暴れられたが、結局体勢も悪く発火布も持っていなかったため、体格差勝ちで執務室の椅子に戻すことに成功した。
まだ不貞腐れている表情をしていたが、最初の冷たい目線はすっかり和らいでいて顔だけ不機嫌を演じているようだった。
構ってもらえなくて淋しかったのか。
ヒューズとホークアイには懐いているが、そのふたりのどちらもがいないとどこへ自分の感情を預けたらよいのか戸惑い、それで不機嫌になっていたのだ。
いい年をしてそんな子供じみたところが無性に可愛く、ハボックの心に動物的な衝動を呼び覚ました。
ロイ本人は気にしている童顔の白い頬に手を当て、文句を言われる前に唇を押し当てた。
試しにキスなんかしてはいけなかった。
挨拶程度の軽いものだったが、いきなり部下にされれば誰だって驚くだろう。
てっきり怒鳴られるか殴られるかするかと思ったのに、無意識のうちの淋しさを埋めるように、夢中で応えてくるなんて思わなかったから。時々好きだと告げて、その温もりを確かめて、それだけで良かったのに。
キスをしたのは後にも先にもそれ一度きり。
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