あらしもやまない/4
美人の上司には旅の準備と言われたが、実際のところいくらも用意するものがあるわけじゃなかった。
賢者の石を探す兄弟のように見知らぬ土地へ行くわけでもなければ、いくら田舎といっても砂漠やジャングルに行くわけでもない。
半日歩きっぱなしになるだろうから多少の食料と水と、これまでの親不孝代も兼ねた幾許かの給料を詰め込んだ封筒と、ロイに押し付けられた仕事の資料と銃。
これくらいかと適当にバックパックに詰め込んだら終いだ。
時計を見るとまだ七時。普段ならまだ残業しているか、仕事を切り上げて同僚と飲みにいくなりするか、一番多いパターンとしてはロイの仕事の手伝いをしている頃。
大佐はどうしているだろう。
ふと間が開くとそのことばかり気になった。
昼間あんな話を突きつけられて、鉛を飲み込んだような重たい気持ちがよみがえる。
軍人に向いてないとか、田舎に帰れとか。人の気も知らずによく好き勝手言ってくれるものだ。
そう出来ない理由こそがあの人なのに。
自分が必要とされる人間かそうでない人間かなど、これまで考えたこともなかった。執着心というものと無縁に生きてきた証でもある。
良くも悪くも、故郷にあっては執着するものはなかったのだ。
土地も家も食べ物もすべて、生きとし生けるすべてのものだった。人も犬も鳥も虫も木も全てが土を必要とし、全てが生きるために必要だった。
その習慣は都会に出てからもなかなか直らなくて、沢山失敗した。
女の子と付き合っても振られること自体にはショックも受けたし未練も感じたが、それは淋しいとか残念だとか自分から発するものだ。
恋をしていると感じた時は本当に相手のことが好きだった。
彼女を守りたいと、笑顔でいて欲しいといつも思っていた。
けれど今になってみれば、自分は彼女でなければ駄目だという何かを求めていたわけじゃなかった気がする。
彼女に何かを求められたいとも思わなかったのだから。
多少甲斐性なしだとはいえこうも毎回振られるのは、そんな部分を敏感に感じ取られていたのかもしれなかった。女は男には分からない波長で会話をしている生き物だから。
だけどロイに対しては違う。他の誰かではなく、誰でもない自分を必要としてほしいと思う。
自分が相手を必要としているのと同じように、相手にも必要とされたい。
嵐の中で寒さと孤独から守るために、身を寄せ合う生き物のように。
気を紛らわすために、念のため旅先に持っていく武器のクリーニングでもしようと、愛用の銃と道具をテーブルに並べる。
使い終わった後に一通りの手入れはしているが、使わない時でも錆びないようにマメに手入れをしてやらねばならない。
使うことがないに越したことはないのかもしれないが、東部周辺はまだそれほど安全な地域ではなく、一ヶ月実弾が必要ないということは殆どなかった。
つい一週間ほど前にも郊外で起きた事件の鎮圧のために向かった先で、一戦やらかしたばかりである。
ハボックが愛用しているのは、軍から支給されている普通の銃だが、更にそれを自分用にカスタマイズしたものだ。派手に動き回ることが多いので、銃身が安定しやすいようにスライドを交換して、わざと少し重くしている。
他はさすが軍事国家アメストリスで正式に採用されているだけあって、動作不良を起こしにくい逸品。
慣れた手つきで分解し、小さな埃に至るまでブラシで丁寧に落とす。続いてクリーニング用のオイルを染みこませた布で銃口や薬室を掃除し、最後に乾いた布で拭いておしまい。
面倒な作業だが、これを怠るととんでもないところで己の身を危うくする。分かっていてもなかなか実行できず、戦闘中にジャミングを起こして冷や汗をかいたことも何度かあるのだが。
その辺り、銃のスペシャリストと呼ばれるホークアイなどは、その手の動作不良を起こしたところは殆ど見たことがない。
一通りの作業を終え、再び組み立ててから弾倉をつける前に両手で構えて、空撃ちをしてみた。
特に問題なし。ついでにもう一挺携帯しているリボルバーも問題がないか、空撃ちして感触を確かめてみる。
こちらも大丈夫そうだ。
銃の整備を終えてしまうと、適度に空腹にもなってきたので適当に夕飯を済ませ、することもなく時間だけが過ぎてゆく。
あと一日。あと一日たつと自分は家に帰る。「行く」のではなく、「帰る」のだ。
さほど変わらないようにも思えるが、このふたつの言葉の間にある違いは明確で、大きい。
従軍して以来、何年も家に帰らず、たまに思い出したように短い電話をよこすだけの息子でも、故郷の自然も家族も温かく迎えてくれるだろう。そこには自分が帰る場所なのだと思わせるものが沢山ある。
おもちゃのような木造の家、身長を測っていた柱、村の片隅にある何でも屋な雑貨店、その店の奥にある村にひとつだけの電話。
都会にいれば一瞬のうちに見落として忘れてしまう、そんなものばかりだけれど、ひとつひとつ手にとって見れば、何年立っても忘れることない大切なものばかりだ。
自分は確かにあの家を愛しているのだと思う。
生まれて初めて息を肺に吸い込んだときに手に入れた感動と同じくらい。
でも呼吸の仕方なんて、誰も教えてくれなくてもできるようになっている。それくらい当たり前のこととして、ずっと意識することもなくこの身体に染み付いている。
きっと自分は今、改めて意識してみれば得難く尊い、そんなものに感動している。
むずむずと急かされるみたいな落ち着かない気分。呼吸の仕方を考えて返って息苦しくなったり、瞬きの瞬間を考えてやりにくくなってしまうのに似ている。
こんな風に客観的に愛しさが胸を押しかえすのは、あの黒曜石の瞳と絹糸のような漆黒の髪を持った天邪鬼な上司に感化されてしまったからだろうか。
そう思うと、いてもたってもいられたくなった。上着をつかんで夜の街へ掛け出る。
空気が夜の静謐さを孕んで冷たく吹き荒ぶ。
憲兵から逃げる窃盗犯じゃあるまいしと、自分でも苦笑したくなるくらい必死に走った。
肺と心臓が限界まで張り詰めて、針で突付けば破れそうになっても。
一分も惜しい、一秒も惜しい。
会って触れて見つめて、ここにいる証を刻ませてくれ。
どうか。




よくもこれだけ溜め込むことができたな。
思わず嘆息が漏れる。これから家に戻って寝ても面倒なだけなので、ロイは居残りを続けて仕事を全て片付けることにした。
自分の所業とはいえ、ホークアイが冷ややかな目で怒るのも納得の量だ。
不器用な割にはなかなか達筆な文字で一枚、また一枚と山を減らすべくペンを動かす。
新たに開発された武器の導入、各司令部合同訓練への申請、先日発生したテロ未遂事件の顛末の報告、イーストシティ近辺で起きている行方不明事件特設部隊の編成。
ロイがこなさなければならない仕事は膨大で多岐に渡る。どれ一つとっても気を抜いていいものではない。
静かな部屋でペンの動く音だけ聞いていると、毎日ちゃんとすればこんなことにならないんですとハボックの小言でも聞こえてきそうだった。
塵も積もれば山となるという田舎の格言だそうだ。だとすればこれは塵か。
もとからたいしてなかったやる気が、更になくなる。何故塵に私がこんな労力を払わねばならんのだ。
ロイは基本的に生産性のない仕事が嫌いだ。掃除や片付けといった言葉は彼のボキャブラリーにはない。
そういえば明日は朝からハクロ少将のところに行かなければならない。
猫かぶりもお世辞も頭を下げるのも必要ならばいくらでもするが、嫌味を言われるためだけの出張なのが目に見えているので、あの嫌みったらしい顔を思い出すだけでうんざりする。
どうせならあんな小者ではなく、大総統でも出てくればいい。
ああ面倒だ。書類にサインする仕事も邪魔な人間も。
しまいにはペンを投げ出してしまい、気分転換でもしようとコーヒーを入れるべく椅子から立ち上がる。
東方司令部名物のまずいコーヒーだが、このまま書類とにらめっこする気にもなれない。
誰が持ち込んだのか知らないが、クマのイラストの付いた愛用のマグカップ(一度に沢山飲めるので多少間抜けだろうと具合がいいのだ)とインスタントコーヒーを取り出した。
そしてここまで来て肝心なことが分からない。コーヒーをスプーン何杯入れて、クリームと砂糖をどれくらい入れるのか。
以前一度沸騰したお湯の蒸気で手を火傷してからは、いつも世話焼きな誰かが煎れてくれたから。
焔の錬金術師でも火傷をするんですね、と驚いた顔がよみがえる。
人間兵器だの悪魔だのと言われることには慣れていたし、腹も立たなかったが、嫌味のひとつくらい言ってやろうと思ったのに、皮肉ではなく純粋に驚いていたことにすっかり毒気を抜かれてしまった。
せめてもの虚勢で、お前は私を何だと思ってるんだと文句を付ければ、人間だってわかって実はちょっとほっとしましたとあっけらかんと答えてから、他意もなく笑った。
そこで引き下がるのも癪だったので、まだ分からんぞ、悪魔かもしれんと意地悪く言ってみたら、火傷するような悪魔なら可愛いモンですよと、ますますロイの負けず嫌いに火をつけるような軽口を返してきた。
だが不思議と腹はたたなかった。
それが出会ったばかりの頃。扱いにくい上司の番犬として、ホークアイが護衛にと言い出したのはそれから少しの話。
自分で適当に淹れた、飲むに耐えないコーヒーを思わず吐き出しながら思い出すと、それがもう思い出にカテゴライズされるような出来事なのだと気付いた。
ヒューズや他の名前も覚えていないような人間と過ごした士官学校も、理想に燃えて国家錬金術師を志したときも、あのイシュヴァール殲滅戦も、その時は楽しかったり辛かったりリアルな感触がそこにあったのに、いつの間にか昔になってしまって、糸が擦り切れるように都合よくどんどん忘れていく。
だから、ロイは感情や記憶というものを信じない。
だから、地位が好きだ、お金が好きだ、身体で確かめるのが好きだ。
他人に何と言われようが不確かなものに縛られるより、そこにあるものなら安心できる。
それは自分を裏切らないし、迷わせないから。
軍に誓う忠誠と引き換えに地位が付く。払うお金の代価に何かを手に入れる。他人の身体で快楽を共有しあう。
人体錬成が出来ないのは、人の精神と等価のものが存在しないからだとロイは思っている。
喜怒哀楽と単純に言ってみても、喜一つの中にもどれ一つとしてこの世に同じ感情は存在しないだろう。
愛は何とも等価交換できない。
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