あらしもやまない/3
年とともに身体を温かくする術は覚えた。触れる、抱きしめる、一つになる。
それなのに、身体以外の場所を温める方法は今でも分からなかった。
抱きしめたロイの体温はこんなに温かいのに、心の中はしんしんと冷たくなってくるのが肌越しにも分かった。
まるで溶けない氷の下で、生命の終わりを待つ生き物のように。
ただ、自分を温めるように強く抱擁した。
「ハボック少尉」
調子に乗りすぎたのか、最終的にロイに跳ねつけられた。
そのまま少し休んでくると別方向へと向かったロイと別れ、再び司令室でのデスクワークに戻ると、ロイの腹心である美女に呼び止められた。
くっきりとした目鼻立ちに見事な金髪で、美人なのは美人なのだが、いつ見ても何と言うか教師のような雰囲気をまとった女性である。
過去の自分の素行を思い出して、女性ならば割合ストライクゾーンは広いと思っているハボックでも、恋愛対象として見るなら苦手な部類に入る。
「何スか、中尉」
「大佐はどちらへ行かれたのかしら?」
一緒に出て行った自分たちが、一人だけ帰ってきたのを訝しがっているのだろう。
「気分が悪いから、少し仮眠室で休憩してくるって言ってました」
「そう、ならいいのだけれど」
本当は仕事もまだあるし、夜勤があるわけでもないし、サボり同然の行為だったが、伊達に長年側近を務めているわけじゃない。ホークアイはロイ・マスタングという人間をきちんと把握していた。
一度やりだしたことなら些細な横槍などには目もくれず、昼寝だろうが軍の全権を握ることだろうが、同一ラインの情熱をもって成し遂げる男だ。ちょっとやそっとでは起きてこないだろう。
銃で脅すなり何なり手段はないことはないが、あまり頻繁に使うと効果が薄れる。あくまで最終手段ということで残しておきたい。
そしていくらロイでも、理由なく書類の締め切りを破ることは滅多にない。
手に用意していた書類はどうしようかと思い、とりあえず残業分に追加しておくことにする。
その気になれば一日で片付くだろう。そう結論付けて、机の片隅にある箱に容赦なく書類を積み上げた。
「中尉も大変ですね、大佐のお守り」
見るともなくその動作を追いかけていたハボックが、何気なくそう口にすると、普段あまり見せることのない微笑が返って来た。
「ええ、大変だわ」
本当はこんなところで銃を握るべき人間ではないのだ。
ホークアイの腕前や性格を知っていても、そう思わせるほど綺麗な表情だった。
それはすべてを信じ、すべてを諦めた人がする顔だ。
彼女はその手で奪った人の命の重みを、痛いほどに知っている。それでも奪うことを受け入れている。生半可な覚悟ではなくて。
ここに来るまで二人の過去に何があったのかは知らない。ただ男と女というだけで勘違いをしそうになるようなことは、二人の間にはないことだけははっきりと感じ取れた。
恋とか愛とかそれよりももっと深く、固い絆がある。
ロイが彼女を信頼している理由が、分かった気がした。
「任務が辛いとか思ったことないんですか」
「あるわよ」
迷った素振りもない、ストレートな答えに実際少し面食らってしまう。
いつでも涼しい顔をしてどんな事態にも冷静で、機械のように正確に任務をこなしているイメージがあった。
白鳥が水面下で足をもがいているような雰囲気はなかったのだ。
それなのに、そんなことは弱みでも何でもないという風に平然と答える。信じるものがそうさせるのだろうか。
「中尉の口から聞くなんて、意外でした」
「そうかしら。私だってできることなら、他人を傷つけたくはないし、嘘だってつきたくはない。でもそれが必要ならばやる。それだけのことよ」
「軍を辞めようと思ったこともないんですか」
「ないわ」
「辛いと思ったことがあるのに、一度も?」
「一度も」
「何故と聞いてもいいですか」
肯定してほしいのか、否定してほしいのか、とにかく何か答えがほしくてハボックは畳み掛けるように問い続ける。
ホークアイは書類を置いて空いた手を、握るようにしてからしっかりと迷いのない声が返ってきた。
「守るべきひとがいるから」
誰のことかは聞くまでもない。
自分は何故もっと早くロイに会えなかったのか、何故もっと理解しあえる存在になれないのか、焦れったい想いばかりが強くなる。
自分はこんな絶対的な何かを、ロイに対して抱いているだろうか。
そう問いかけること自体が、否定しているも同然だ。
「辛いことがあったのは本当。だけど、自分で決めたことだから、辞めようと思ったことはないわ」
「中尉は大佐を信頼してるんですね」
「信頼というのかは分からないけれど、マスタング大佐がもう決めたことなら、私は黙って付いていく」
「一人でふらふらさせるなんて、危なっかしいですもんね。雨の日とか」
冗談めかして言ったつもりが、酷く恐ろしい真実を含んでいる気がした。
おとぎ話に出てくる最強の龍の背にひっそりと隠された、逆鱗のようなものをロイは持っている。
そこに触れられるとおしまい、みたいな脆くて儚い部分。
「大佐は本当に強い。けれど、あの人はひとが弱いことを知らない」
自分に分かるくらいだから、ホークアイも当然気付いている。知らないのは本人だけかもしれない。
まっすぐな目と、ロイと積み重ねてきた時を思う。
美しいばかりでなく醜くて、正しくもないものだったかもしれないが、そこは清らかで強い、世界のはじまりの瞬間のようなエネルギーに溢れていたのだ。
「だから私が守るの。あの人も、その周りの全ても。くだらないことであの人の手を汚させたりしないわ。汚れるのは私がやればいいんだもの」
それは決して綺麗な言葉ではなかったけれど、それよりもずっと真摯な響きを帯びていて、魂の原型のようにハボックには響いた。
ほこり高く伸びた背筋も、銃のせいで胼胝の出来た指も、同じように美しいもの。
「……俺には無理っスねえ」
ため息と一緒に、敗北感とも諦めとも似つかないような感情を吐きだす。
ホークアイはちらりとこちらを見てから、きちんと正面を向きなおして、まるで最後の審判のように言い放った。
「私は、あなたにもできると信じている。そうでなければ、あの人は側になんか置かないわ」
甘く、そして残酷に、世界の終わりを突きつけられた。




うつ伏せに眠るようになったのがいつからだったのか、もう思い出せない。
すぐに起き上がれるように。いつでも逃げ出せるように。
まだ日も高いうちから、補佐官の小言も承知の上で仮眠室の布団に潜り込んだのに、ロイは全く寝付けなかった。
夜勤に備えて眠る人間に夜を錯覚させるべく演出された部屋は、暗闇に限りなく近くなるように作られており、死とはこのようなものだろうかと、眠れない身体を持て余したロイには意味のない思考だけが残された。
こんな昼間では部屋の中には他に人気もなく、たまに外の音が聞こえてくる以外は、自分の吐息と心臓の音だけがやたらに響く。心臓の上に手を置くと、ゆっくりと上下しているのが分かる。
考えてみればこの心臓だって時限爆弾だ。
たかが百年ほどの期限付きでしか生を許されていない人間は、誰もが致死率百パーセントの生き物なのだから。
けれどどんなに世界に害をなそうが、不必要と言われる人間であろうが、人一人がいなくなれば確実に世界はそれまでとは違う世界になる。
それが縁を結ぶということ。愛したり愛されたりするということ。憎んだり憎まれたりするということ。
誰かと繋がってゆくということ。生きるということ。
仮定は無意味だと分かっていても、もしもを考えずにいられないのが人間の性だ。
たとえば、ロイ・マスタングのいなくなった世界。大佐のポストが一つ空く。
東方司令部には現在中佐の肩書きの人間はいないが、中央でヒューズあたりが昇進するかもしれない。
本人はそれほど出世に興味はないようだが、一見ちゃらんぽらんに見える性格を除けば、有能な人材である。
そのヒューズやホークアイや、殊の外自分をかってくれている東方司令部の将軍などはきっと自分の死を惜しんでくれるだろう。ハボックも彼らと同じように悲しむだろうか。
でも、死んだらそこでおしまいだ。
軍人なのだからベッドの上で大往生しようなどとは考えていないし、これまでの人生を振り返ってもきっと自分はろくな死に方をしないだろうとも思うが、二十九歳で死にたくはないし、何よりまだ死ぬわけにはいかない。
望みを叶え、自分のそれが正しかったことを証明するまでは死ねない。
志半ばで倒れ、大切な人たちに余計な重荷を背負わせるわけにはいかない。
そして何よりも、道が断たれてこの思いがどこかへ行ってしまうのが、怖い。
私は死そのものを恐れるのではなく、死んだ後の世界を恐れるのか。
普通より死が近い職業につきながら、死について考えることはそう多くはない。
まだイシュヴァール以前ならば、士官学校での同期が殉職したと聞けば複雑な気持ちにかられたものだが、最近ではすっかりそんな感覚も麻痺してしまったらしい。
生き残ったほうの勝ちだ。だから自らの死についても、一歩間違えれば死んでいたかもしれない状況にあっても、助かれば忘れてしまう。
知っている。自分が死んだって何も変わらない。でも何かが変わってしまう。
そのことの不安も、安堵も。
本当は知っている。人一人の力でできることなど知れている。
たとえ自分が大総統になってこの軍を変えたとしても、失われたものが戻ってくることはなく、そのことで何かが失われるのだということも。
ロイは知っている。自分たちが、イシュヴァール内乱の鎮圧という名の虐殺に関わった国家錬金術師たちが、とっくに人間ではなくなっていることも。
それでも人間でありたいと作り物の後悔を抱え込んでいることも。
自分を苦しめているのは殲滅の事実ではなく、そのことを後ろ暗く思う心を失ってしまうこと。
それは唐突に頭の中でシャボン玉のように浮かんで、すぐさまざわりと押しつぶされ、歪められたような感覚が体中に広がる。知ってはいけないことを知ってしまった子供みたいだと思った。
初めて身体を重ねることを覚えたときですら、恐怖も感動もなかったというのに。
自分が人間として欠落して乾いた部分を持っているのをはっきりと自覚するようになったのは、ハボックにあんなことを言われたからだ。
『好きです』
ハボックに好きだなんて言われるまでは、乾いていることにすら気付かなかった。
それでも大方問題なく生きてこられたし、また満たされることがあるとも思えなかった。
所詮人間はどこまでも欲深い生き物だからだ。
けれど、失われた部分は一体どこに行ったのだろうと不可解な疑問だけは記憶の隅っこに置かれて、たまに思い出したりした。
錬金術師は科学者だ。科学者は世界を物差しで計ろうとする生き物だと、言い訳のようにこっそり胸の内で呟いた。
結局その後うとうと眠りついてしまったらしく、夕方過ぎに部下のブレダが起こしにきた。
執務室に戻ると明らかに部屋を出たよりも書類の山が高くなっている。
本当は帰宅したかったがホークアイの無言の重圧に耐えられなくて、昼間サボった分は残業することになる。
デスクに座って可、不可の作業を続けていると、明日にはこの二文字以外忘れてしまいそうだ。
自分と入れ違いに夜勤のために仮眠室に行ったブレダを除いて、もう一人執務室の人間が足りなかった。
あの、月の光を反射した金髪が。
「中尉。ハボック少尉がいないが」
「ハボック少尉は準備することもあるでしょうから、今日はもう上がらせました。仕事も明日半日で片付くようなものばかりですし」
「……そうか」
少しだけ安堵した。自分から切り捨てたはずなのに、再び突きつけられると揺らぐかもしれないから。
軍から離れるのがお互いのために一番いい選択肢のはずだ。
今はロイを媒介として軍への未練を引っ張っていたとしても、多分家に帰ればそんな気も失せるだろう。
家族とはそのようなものだとヒューズが言っていた。
そう遠くない過去に交わした会話が脳裏で目を覚ます。


「ロイ。俺は軍人であることを後悔したこともないし、辞めようとも思わない。少しでもお前の助けになりたいと思っている。だけどな、白状するとグレイシアと結婚するとき一瞬だけ迷った。田舎に引っ込んで家族とひっそり暮らすほうが幸せなんじゃないかってな」
「別に私は構わないぞ。お前がいなくなるのは残念だが、私にどうこうする権利もないし」
「そう言うと思ったぜ。だから辞めなかったんだよ。お前みたいな敵ばっかり作るのが上手くて友達一人ろくに出来ない奴じゃ、放っておけないだろう」
「悪かったな」
「悪くないさ。だけど心配だろう。いつもお前の側にいてやれるわけじゃない」
「ふん、子供扱いするな」
「意地っ張りで気難しい中身は子供そのまんまだけどな。……だから俺は思うわけだ。俺がいなくてもお前を守ってくれる奴ができるまでは俺が守ってやろうって」
「じゃあそんな奴が現れたとしたら、お前は用済みとばかりにいなくなるわけか」
「さあ。だけどロイ、お前がひとこと行くなって言ってくれれば俺は絶対に行かない」
「絶対などよく軽々しく言えるな」
「お前が思ってるよりは難しくないと思うけどな」


何かを考えることですら煩わしくて、夕暮れに思いをはせる暇も無く仕事に没頭していると、一人減り二人減り部屋にはロイ一人だけが残された。
今日はどうしても都合が付かず護衛を付けられないから、九時には帰宅するようにとホークアイに言いつけられていたのも忘れ、気が付けば時計は十二時を回っていた。
ハボックが出発するのはもう明日に迫っていた。
行くな、なんて言えるはずがない。側にいて欲しいのかも分からないのに。
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