資料室の前で、鍵を取り出すために軍服のポケットに手を伸ばすと、ふいに腕をつかまれた。 それまで黙っていたハボックが搾り出すように声を出す。 「言ってくれなきゃ分かりません。俺は超能力者じゃないし、ヒューズ中佐みたいに頭もよくないですから」 どうしてヒューズが出てくるんだと思ったが、それは口にはしなかった。 確かに自分はヒューズほどにはハボックを信用していないと思ったからだ。 ハボックが信用に足る人間じゃないという意味ではない。ただそうとしか言えない。 東方司令部に来てからそれなりの付き合いではあるけれど、イシュヴァール殲滅戦の時の苦しさと悲しみに満ちた 濃密な空気は、体験したものにしか分からない。だからそこには何人たりとも理解できない絆が生まれるのだ。 自分にヒューズのような友人が出来たこと自体、あの戦いの副産物なのだと思えなくもない。 「言ったって分からないだろう」 「でも分かるように努力は出来るでしょう」 ハボックはあくまで退かない。その実直さがいつか身を滅ぼすだろうとは思っていても、数ある彼のいい所の中でも、 ロイはハボックのそこを一番好ましく思っていた。 愛情を十分にもらって育ってきたことが分かる、自然で力強いひたむきさだ。 誰かを大事にしたいと心から思う気持ちは努力では身に付かない。 けれど優しくされたら、それと同じ分だけの代価を払わなくてはいけないような気がする。 ハボックがそんなものを求めていなかったとしても、信じてもいない神様かもっと違う何者かが、 ちゃんといつか取立てに来る。 等価交換。真実に一番近い、この世の原則だからだ。 自分はもう決めた。何を手放すことになっても、自分の目的を達成する。 この世の全てを敵に回すことになっても、自分を理解しないものに理解してもらえなくても、この魂の行き着く先には、 命に代えてでもなさなければならないことがある。そこに行き着くまで悪意や嫉妬や言われのない批判や、 沢山のものが自分に向けられるだろう。ヒューズやホークアイはそんな自分の目的を理解し、 作るべき未来と等価交換に盾になり、また剣になり自分を守ってくれている。そのことに感謝している。 それならば、自分を理解していないハボックに向けられる感情に、何を代価に出せばいいのだろう。 その真摯さに値するものなんかこの手にはないのに。 ただ血に汚れた思い出と、そして血の雨を降らせるであろう未来だけなのに。 「仮に、だ。お前に私の気持ちがすべて分かったとして、お前にはどうすることもできない。違うか」 「それは、そうですけど」 少しばかり言いよどむ様子に、ロイは口の端を引き上げた。 「故郷に足を運ぶのは久しぶりだそうだな」 「ええ。士官学校を卒業したときに一度帰ったきりです」 「そのまま永遠に帰省していてもいいぞ」 「どういう意味ですか?」 「そのまんまだ」 「それは、俺に軍を去れと言いたい訳ですか」 ずるい方法で、追い詰めようとしている。逃げ場をなくして自分から捨てさせようとしている。 「お前は軍人向きじゃないよ」 ぽろりと、手のひらからボールが転げ落ちるように呟いた。すぐさま言わなければ良かったとも思った。 けれど口にしてしまったものはもう戻らない。この世に生を受けてしまった言葉は、今は刃だった。 穏やかな清流に石を投げ込んだように、一瞬ずつ姿を変えさざめききながら、波状に揺らぐ落ち着かない胸のうちは、 果たして自分の言葉に対する後悔だったのだろうか。 ほんの少しだけ目を見張るように言葉を失ったハボックは、傷ついたような顔をしていた。 当然だ。傷つけようとしたのだから。 ハボックは感情が表に出にくい。激高することは滅多にないが、よく笑ったり驚いたりするので無表情という訳ではないし、 それらが意識的な作り物だとも思わない。 だが、それらが無意識だからこそ、意識的に負の感情を押さえ込んでいるような一面が垣間見えることがある。 それは彼の中にある紛れもない優しさと、優しいがゆえの冷たさだった。 その彼が、ほんの一瞬ではあったが呆然としていた。 自分が口にしたことはきっとハボック自身も気付いていて、誰よりも自分に言われたくなかったはずだ。 それでもまったく良心が痛まない自分は、人間としてどこかおかしいのだろう。 「俺も、そう思います」 酷く遠くで聞こえたような気がした。目の前にいる男は、こんな声を出すはずがない。 その言葉は最後通牒のように突き刺さった。 これ以上は入ってくるな。 同情や哀れみをこの人が一番嫌うことは知っている。 自分が必要としたものなら、施しなど待たずに何でも手に入れる。そしてそのための努力も手段も選ばない。 だから他人の身勝手な善意などで与えられるものを、それを誠実などという言葉で飾ることが許せないのだ。 鋳型に嵌められない破天荒な性格で、大人しくその他大勢に甘んじていればいくらでも平穏な人生が 送られるはずなのに、自分が望まない権利なら享受できる全てを放り出してもいいと思う潔ぎよさには、 生まれてくる場所や時代を間違えたんじゃないかと思う。 憎みあって争いあって戦争をして、それが社会を動かす根底にある世界など、本当は窮屈で仕方がないだろう。 ロイの側近をしていると、人よりは図太い神経をしているであろうハボックでも肝を冷やされることが多い。 ホークアイ曰く不穏当な発言など、どこで何を聞かれているのか分からないというのに、彼は他人に言われて 考えを改めるということを絶対にしない。それは頑固だとか我侭だとかより一線を画した何か強い力があって、 ホークアイも諦め顔だ。 ロイは軍という巨大なシステムの一部にあって、ひっそりと息を潜めている爆弾だ。 その手の甲に描かれている焔の宿命通り。 きっと自分のように軍にいることに必要を迫られていない人間などには、知られたくない沢山のことをその背に抱えている。 きっと自分なんかには想像も付かない未来をその手に持っている。 そんなことは知っている。知っているのに。 ―――淋しいのは何故? 何ものにも埋められない、人と人との距離をこんなに疎ましく思ったことはなかった。 沈黙を振り払うように、扉に向かって発せられた声が耳に反射する。 「ならどうしていつまでもここにいるんだ。お前みたいなのは、田舎で平和に暮らすほうがいいのは分かっているんだろう」 聞いたことがないくらい無感情なその声に、ただごとじゃない強さが込められていた。 ほんの十分前までと世界が何か違うような、ちぐはぐに絡まりあってもう動くことのない歯車を連想させる。 どちらかというと自分のほうがもっと感情的になってもいいはずなのに、どうしてロイのほうが動揺しているのか さっぱり掴めない。気まぐれなのは今に始まったことではないが、こんなのは初めてだ。 「お前が帰る場所には、守るものがあるんだろう」 「………」 「ここにはお前に守りきれるものなんてない。お前だけじゃない、誰にも守りきれるはずがない。 人は争いをやめられない。それでも泥を飲んででも前に進まないといけない」 ぬいぐるみだったり、家族だったり、国だったり大きさはそれぞれだけれど、人には誰でもその手で守るものがある。 それが人より大きいのが軍人というもので、ロイのように特別な意志を持って仕事をしなくてもそれなりに出世はするし (何せ上司に尽く嫌われたハボックでも士官になれたのだから)、それに付随して守るべきものも多くなる。 だが与えられたものに責任を持つのは個人に委ねられている。 戦いの中で部下を見捨てて、助かろうとする人間というのは多いものだ。 命が惜しいのは誰だって同じだが、人の上に立つということは、その人の命を預かるということ。 甘いといわれようが偽善だろうが、ハボックはそのような人間にだけはなりたくなかったし、 そうならないように努力してきたつもりだ。たとえ自分が切り捨てたものだとしても、 きっと誰かにとっては守るべきものだから。 争いの上にある安寧など砂上の城の様なものだ。イシュヴァール殲滅戦でよくなったことなんか何もない。 お互いの溝は深まり、憎しみは新たな憎しみを呼ぶ。 ロイの目指すものが、そのようなものだとしてもハボックはそれだけは譲れないと思っていた。 だけど、この人がひとりきりで手を汚すようなことだけは、もっとさせたくないと思っている。 「俺は、そんなに頼りになりませんか。確かに俺はまだ力不足で、あんたには足手まといかもしれない。 でも、あんたの盾になるくらいはさせて欲しい。どうしても駄目だと思ったら、その時は迷わず田舎に帰ります」 「違うよ。私は、お前がいつか私みたいになってしまうのは嫌なんだ。他人の血を見ても なんとも思わなくなってしまうのが嫌なんだ」 鼓膜に響いた言葉が、幻ではないことを確かめるために目の前の人物を見返す。 考えてもみなかった。ロイが自分のことをそんな風に思ってくれていたなんて、想像したこともなかった。 それは純粋に優しさ呼べるものではなかったかもしれないが、確かにハボックのためだけに向けられた言葉だった。 でもそれならす尚のこと、隣で血まみれになることが愛だと嘯いても、血の河の上にかかる欠けた月の闇から、 一縷の光を探ことくらい許されてもいいかい。 「俺は……貴方を守りたい」 片田舎の平和よりも、誰かの大切な未来を守ることよりも、ただそのひとつの運命がこの命に刻み込まれたのだ。 手も届かない深い場所で眠る嵐の錬成陣が、全てをなぎ倒した跡に何を残すのかを知らなかったとしても。 「私には守るものなんてない」 それでもこの人はこんなにも、分かり合うことを必要としていない。 振り向かないこと、立ち止まらないこと、真っ直ぐに進むこと。それで正しいんだと思っていた。 ロイはこれ以上ハボックと何かを話す気もなく、扉を開けた。肩に触れようとする手にもう一度引き止められかけたが、 強引に振り払って逃げ込むように部屋に入った。扉に背をつけて、無機質な冷たさが少しだけ気持ちを静めてくれる。 最初から自分は間違っていたのだ。 ハボックは確かに役に立つ男だった。大きな身体は伊達ではなく多少無茶な労働をさせても平気だったし、 ホークアイほどではなくとも銃の腕もそれなりにいい。これでいて脳みそ筋肉というわけでもなく デスクワークもきちんとこなす。 そして何より人というものを理解していた。軍で部下を動かせないものはそれだけで用なしといってもいい。 上官の命令は絶対という組織であるから、肩書きだけでもある程度は動かせる。しかし本当に背中を預け、 どんな状況でも使える部下というのはほんの一握りで、そんな信頼関係を築くのは難しい。 その難しいことを、自分で言うのも何だが特に難しい偏屈な上司と築き上げてしまったのは、 才能だけでは片付けられない天性のもの。 でも、駄目だ。駄目だ。こんなのは駄目だ。 理由は分からなかったけれど、ハボックとそこに信頼以外の形を築くことは、自分の中でとてもいけないことだと 本能が警報を鳴らすように告げている。 それまでは無くても良かったものなのに、一度手に入れたら手放せなくなるようなものは手に入れてはならない。 無くしたときに、取替え可能なものでなくてはいけない。 強く自分に言い聞かせた。一体何のためにか、それは考えないようにした。 本棚から資料を取り出して扉の外に出ると、ハボックはやり場なく煙草をふかしていた。 「廊下は火気厳禁だろう」 スミマセンと言いながら、煙草を携帯灰皿に押し付ける。 煙草がなくなった手に資料を押し付けて、本当に事務的な確認だけして用件を押し付ける。 「長引きそうだったら連絡をしろ」 「あー、ハイ。適当に休みつつ」 「馬鹿言え。忙しいのだから、軍人ならちゃんとさっさと片付けて仕事にもどれ」 「大佐がお望みなら」 先ほどのやりとりなどなかったかのように、しっかりとした返事が返ってきた。 軍人というのを強調したのにはきっと気付いたのだろう。がちり、と部屋の扉に鍵をかける。 錠の落ちる音が、何かの合図のように響く。 歩き出そうと足を出す直前、タイミングを見計らったかのようにそっと背中から腕が回された。 いつも何か、とても大切なもののように優しく触れられる。 歩き出すと止まれないから、振り返れないから。それを、知っている。 家族というものを知らないロイにとってハボックの腕の中は、暖かな幸福をひとつずつ分類して詰め込んだ サンプル・ケースのようだった。 誰もが持っていて、でも誰にでも等分には与えられない。 狭い腕の中にはひとつの完璧な世界があるのだ。 そこでは空を飛ぶことも、海を泳ぐことも、土の中で眠ることも思いのままで、ありとあらゆるものが 自分とひとつになって満たされる。 混乱した。自分の中に欠けたものが、温かなもので埋められようとしている。 ここにあるべきピースは、本当にこれでいいのか? 息が詰まる。心臓が震える。 「――やめろっ!」 |
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