あらしもやまない/14
日勤の人間が殆ど帰宅し、夜勤にあたっているものが仕事を始めた頃、溜まりに溜まった書類をどうにか三分の一ほど片付けたところで、ロイが帰ると一言告げた。
「里帰りはどうだった?」
帰りの車中で、随分と意外なことを聞かれた。
「ああ。皆元気でしたよ。お袋も大げさです。親父が怪我したって言っても片足骨折したくらいで、後はぴんぴんしてました。きっともう今頃、杖を突きながら歩きまわってるんじゃないですかね」
「何よりじゃないか。せっかくあそこまで行ったのだから、私も有休が溜まっていることだし、お前の故郷まで足を伸ばしてくればよかったかな」
「あんたのことだから、きっと一日で退屈で死にそうになりますよ」
「何を言うか。私にだって人並みに怠惰と暇を愛する気持ちくらいあるぞ」
実際はハボックのことでそれどころではなかったのだが、喉元過ぎれば熱さも忘れるとはよく言ったもので、こうして日常が戻ってきてしまえば、その程度の軽口はたたけるくらいに二人とも精神はタフである。
というか、タフでなければ軍人などやっていられない。
それにしても、ロイは自分の故郷や家族のことなんてまったく興味がないと思っていただけに、どういう心境の変化なのだろうか。
本当は、ハボックが故郷のことを口にするときに見せる知らない表情に、嫉妬や羨望にも似た感情をロイが抱いていたなんて、勿論知る由もない。
「すぐ下の弟が、今年二十歳になるんですけど、町に働きに出るって言っていました。指先が器用な奴だから、工場で働きながら金属細工師に弟子入りするんだそうです」
「ご両親は反対しなかったのか?」
「最初から諸手をあげて賛成って訳にはいかんでしょうが、まだ手のかかるのが五人も残ってますし、心配ばかりもしていられねえでしょう。雑貨屋は継ぐほど儲かってる訳じゃないですしね」
「でもお前は猛反対されたと言っていただろう」
「俺のときとは違いますよ。俺の住んでる村には軍人なんていなかったし、そもそも軍人を見たことのある人間だって殆どいなかったんですから」
それに、と口にはしなかったが、司令部や軍事施設がある街以外で一般人が軍人を目にすることがあるとすれば、それは何かの事件が起きたときに限られる。
災害時の復旧作業ならいいが、戦闘となればそれが仮に正義のために行われていたとしても、気分よく見られる人間はそう多くはいない。士官学校でもハボックは実施訓練で芽が出たタイプだが、逆に実施訓練に入ると駄目になって、辞めていく人間も毎年何人かは出るものだ。
「一番下のちびもすっかり口達者になってましたよ。ガキでも女には口では敵いません」
共に女好きを自認していながら、これまでの女遍歴を顧みて結果が正反対になっている二人だ。ハボックの口ぶりには本心からの嘆きが含まれている。
「お前が女性の扱いが下手な理由が、分かった気がするな」
「え。何ですか?」
「教えない」
くすくすと彼にしては珍しく無邪気な笑いが零れた。
唐突に戻ってきた日常に、急速に慣れていく感覚。東方司令部を離れるときになくしたくないと願ったもの。
あの時と同じではないと肌で感じながらも、ハンドルを握る手に力がこもり、バックミラー越しに見えるロイの黒髪に温度が高くなるのを押さえられない。
フロントガラスの前に夜が広がる。濃紺に染め抜かれた世界にばら撒かれた星は、故郷よりも少ない。
存在している数は同じはずなのに、街を照らす灯りのせいで小さな星はここからは見えない。
ここにいるよ。そう呼びかけても誰も応えてくれない。返らない想いはどこへ行くのだろうか。
いつか、想像もしていなかった誰かに届くのかも知れないけれど、それはその瞬間、自分が心の底から欲しいと望んだものではない。
ロイに対する自分の想いも似たようなものだ。
大通りを外れた住宅街に入り、いつものように家の周囲に危険がないことを確かめてから、ロイが降りるために扉を開ける。
最初彼はひどくこれを煩わしがったが、護衛官として訓練をしてきた自分に言えることといえば、もし自分がテロリストならこれ以上狙いやすい瞬間はないということだけだ。しつこく押し問答をしているうちに、最近では抵抗するのも面倒になったのか大人しく車の中で待っている。
「寄っていくか?」
扉の中に入るまで見届けるつもりでいたが、門の内側へ身体を潜らせたところで、ロイはこちらを見ないままふいにそう切り出した。ハボックは少しだけ身構える。
しかしどうにかそれを悟られないようなタイミングで、平静な声で返事をする。こういうとき、感情の起伏が声や表情に出にくい体質をありがたいと思う。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
招かれるまま久しぶりに家に上がりこみ、リビングに置かれている棚からウィスキーとグラスを取り出そうとする背中を、突っ立って見つめる。
上着を脱いで無造作にソファに投げ出しているので、ワイシャツ越しに身体のラインがはっきりと分かった。自分のように体格の優れた軍人の中にあっては、あまり頑丈そうだとも思えないが決して華奢には見えない。
だがうなじは白い。なんだか妙なことを考えてしまいそうで、ハボックはソファに座らずに意識を別のところに向けようとした。
「夕飯、デスクでサンドイッチを食べただけでしょう。何か腹にいれるものでも作りますよ。保存のきく食料だけは床下に入れておきましたから」
「もらおう」
この雰囲気ではいらないと断られるかなとも思っていたが、あっさり頷いたロイのために、じゃがいもがごろごろ入った野菜スープを手早く準備する。
おそらくロイは、自分の家のキッチンの床下に食料の保存庫があることすら知らないだろう。
十分で出来上がった温かいスープを、ふたりとも殆ど口を開くことなく胃袋に治めた。一旦お預けになったウィスキーを淡い水色のグラスに注ぐと、舐めるように舌をつけただけでロイはおもむろに口を開いた。
「目の前で部下が死んでいくのを見るのは、割り切ったつもりでも気持ちがいいものじゃない。私は自分の手で殺したイシュヴァール人を見るよりも、すぐ傍で流れ弾に当たって死んでゆく部下を見たときのほうが衝撃が強かったよ」
「あんたは好き好んで人を殺した訳じゃないでしょう。そりゃ罪悪感をまったく抱くなってのは無理かもしれませんが、生き物ってそういうもんでしょう。狼の縄張り争いだって本質は一緒ですよ」
だからと言って、彼がイシュヴァール人の命を軽く考えている訳ではないと言うことは、痛いほどに分かった。
ロイは確かに人間らしくない一面もあるが、根っこの部分は非常に真っ当な考え方の持ち主だ。
精巧な作り物みたいな微笑を浮かべて、ロイは語る。そこには己を貶めるような自虐的な響きは見当たらず、それがよりいっそう彼を美しく、そして不気味に見せていた。
何者とも相容れず、自分ですらまったく信用していない。彼がたいせつにしているのは目的を果たすための執着だけだ。
彼の内側に口をあけている暗闇は、自分には手の負えないような代物らしい。
そんな心のうちを読んだわけではないだろうが、不愉快そうに寄せられた眉に何かを感じ取ったのか、ロイは微笑を浮かべたままに口調を少し甘くして続ける。
「私にだって大義名分くらいある。大総統になったからといって、そう簡単に上手く行くとも思えない。だが、人が義務で簡単に人を殺せるようになってしまうのは許せない。誰も殺さずに、殺されずに済むものならば、殺したり殺されたりするよりもずっといい。せめて、私達が渡った血の河の深さだけでも減るようにはな。だから自分の命も大切にできないような奴が、他人の命を守れるなんて思うな」
他者を圧倒するような瞳を煌かせて、自分の手の内を晒すことでハボックの中にある何かを剥ぎ落とそうとしているように見えた。
「私はね、自分で言うのもなんだが非常に心が狭いんだ。自分のものは他人には譲りたくないし、自分の利益をとるためなら他人の不利益などどうでもいい。お前が命を預けるということは、お前は死ぬことさえも私の許可を仰がねばならないということだ。判るか」
「どうしてそう大げさな話になるんですか。あんたの話は回りくどくて分かり辛いけど、本気で付いていく気なら途中離脱は許さねえってだけの話でしょ?」
自分がさんざん悩んでようやく口にしたことを、こともなげに言い切ったハボックにロイは信じられない思いで口を噤んだ。
陽気で大らかで誠実で、夜の暗がりの中でもただ一人なんでもない顔で月のように輝く男。故郷を愛していて家族を愛していて、小さな幸せをたいせつにする男。
それを知っているから必死でこちら側には来させたくないと思っていたのに、彼の中ではそれは明確に分断されたものではない。
善が善たり得るには当然悪が必要になるし、その逆もまた然り。本人にそんな哲学的な思想はまったくないのだろうが、本能で考えているだけに本質的で、淀みがない。
本当に獣みたいだ。
あまりに単純すぎる言葉に、呆れたのか馬鹿馬鹿しくなったのか感心したのか、おそらくそのどれもが少しずつ正解な感情に、ロイが詰めた息をゆっくり吐き出した。
その間に独特の嗅覚のよさで滑り込むように、ハボックはロイの身体に腕を回す。
「好きですよ、大佐」
ロイはこの言葉を告げると、少しばかり体を固くする。ずっと前から気が付いていたが、気が付いていないふりをしていた。それは賭けだった。
ロイが折れるのが早いか、自分が諦めるのが早いか。
本来ハボックはその手の駆け引きが苦手だ。だが事態が事態だけに結果は振り子のように揺れ続けていて、最後まで勝ちを渡すつもりは微塵もなかった。
「お前は、馬鹿のひとつ覚えみたいにそればかりだな」
「うん。それ以上、あんたに伝えたい言葉がない。それ以外、あんたに知っておいて欲しい言葉がないんだ」
「それなら、私も同じことを繰り返すよ。私はお前のことを好きじゃない」
「それも知っています。でも大佐が俺のことを好きじゃないからって、大佐が俺のことを嫌いってわけじゃないのも知ってるから」
「……勘違いするなよ。そのことに関して私はお前に嘘をつきたくないだけだ」
それが、ロイなりの誠実さの証明なのだ。割れた鏡の破片のように鋭く、うかつに手を出せばすぐさま血を見ることになるだろうけれど、嘘をつくことに何の罪悪感も抱かないロイが、そうしなかっただけでもハボックに対して心を開きかけている証拠だ。
「それでも俺は、嬉しいよ」
「選んだのはお前だ。後でどれだけ文句をたれようが、私はもう一切関知しないからな。せいぜい覚悟しておけ」
「だから、覚悟なんて大げさだっていうんです。俺はね、故郷にいる間は何の不満もなくて幸せだったけれど、あんたと出会ってこうしたいと思ったからしてるだけで、そのことであんたが責任を感じることなんて最初からないんだよ」
「お前はいつか必ず後悔する」
厳しい目つきで、予言者のように告げられる。そうかもしれない。だがそれは今この手を放したって、きっと自分に付きまとう感情だ。
それならば放さない。抗い続けたい。未来への予防線を張るという考えは彼の中にはなかった。
「後悔したっていいんだ。後悔なんか、何回だってすればいい。死んだら後悔だってできない」
「極論だな。だが、正論だ。お前はいつも、正しいことしか言わないから、それをたまに憎らしく思うよ」
言いながらロイの白い手が首筋にまわり、丁度首を絞めるようなかたちで止められた。
さすがに自分の首の骨をへし折るほどの力はないだろうが、このまま力を入れ続ければ窒息死する。だがまったく抵抗する気配のないハボックに興味を失ったのか、ロイはすぐに手を離した。
「お前は誰よりも生命力に溢れているくせに、死ぬことが怖くないみたいだ」
「怖くないってことはないんでしょうけど、あんたになら首に刃を突き立てられても俺は平然としていると思いますよ」
「何故」
「あんたになら殺されてもいいから」
それは偽らざる本心だ。それでロイがどれほど後悔しようとも、ハボックはその決断を自分でしてやるつもりはなかった。
結局彼が怖がっているのは自分じゃない。彼自身だ。それはロイが解決しなくてはいけない問題であって、自分が口を出したところ彼の気分を損ねるのがせいぜいだろう。
「やっぱりお前、見た目よりもずっと酷い男だな」
微笑が苦笑に変わる。そこに含みのようなものは見当たらず、悪戯を仕掛けるときのような調子で返事する。
「今更気が付いたんですか?」
「……私は、お前とあのまま離れてしまうのかと思ったら、急にお前と離れることが怖くなった。できるだけ見ないように、そう思って今まで生きてきたけれど、血まみれになって倒れたお前を見たとき、急にそのことを後悔した。それなのにお前は、最後の最後で私に選ばせるんだ」
淡々と紡ぎだされる言葉が、かえって彼の中にある葛藤をまざまざと見せ付けるようだった。
公式どおりの答えなんかでなくたって構わない。人間の心は科学の実験じゃない。もっと不安定で薄気味悪くて痛くて、綺麗なものだ。
「あんたは今でも、俺が軍人に向いていないと思いますか」
「ああ」
「実は、俺もです」
重大な秘密でもばらすかのように深刻な声を出せば、ロイは小さく笑った。
死ななくてよかったと思う。生きていて、よかった。
生きることと、生きていることは似ているが違う。意思を殺して栄養を摂取して呼吸だけしていても、それでは生きているとは呼べない。
話すことができる、触れることができる。それを嬉しいと思う。それだけで生きていてよかったと思える。
したり顔で命のたいせつさを説くつもりなんてさらさらない。生と死の境界はいつだって残酷なまでに明確だ。
ただ、死んだらこんなこともできないのだと思ったら、それは残念だと思っただけだ。それだけの話。
たとえ傷つき傷つけても、それを恐れずに。
どれだけ人が進化して、社会が複雑になったところで、生きるというのは本当は単純なものなのかもしれない。
「あんたに、会いたかったよ」
月が柔らかい白さを讃えていて、空が雲ひとつなく晴れていて、世界は静かで、ふたりきりだった。
悪いことが起こるはずなんてない。今だけはそう思ってもいいだろうか。
きっと今この瞬間にも、どこかで誰かが悲しみに胸が潰れそうになったり、孤独を抱えたり、命を失ったりしている。それなのに、世界中が幸福に包まれているような気持ち。
「もう二度と帰ることができなくても?」
頷くことで肯定の意を表す。自分の胸の内をすべて言葉にするなんて不可能だけれど、不自由な自分たちにはそれしか術がない。
「帰る場所なんて、とっくになくなってた。そりゃ俺が帰るっていえば、親父もお袋も喜んで迎えてくれるでしょう。でもいくら田舎者だからって、軍人がどういうものかくらいは知ってます。俺が人を殺してきたってことにもいつかは気付くでしょう。でも、そんなことは口にするはずがない。彼らの中では俺はいつまでたっても、くそ生意気で可愛い息子ですから。だから俺は余計に、何も知らないふりして暮らすなんてできない」
これは諦めじゃない。妥協でもない。
言葉にすれば随分と安っぽいが、ロイと出会ったあの日に、自分の人生は変わった。
風もなく、波もたたず、たまに通り雨が過ぎる程度だった自分の道が突如途切れた。
そう。まるで嵐のようにこの胸を吹き荒らして、ここではないどこかへと連れてゆく。
過去はどこまでいっても、影のように纏わりついては不意に視界を曇らせる。だが、それを恐れていたって何も変わらない。
光がある限り影が生まれ続けるのなら、無理やり拭い去るのではなく、共に生きよう。影があることを知っていれば、上手にそれを避けることだってできる。もしも行く手を遮られたとしてもきっと進み続けることができる。
遅いことなんてない。間に合わないなんてことはない。
信じなくちゃいけないのは、誰よりも自分。大切にしなくちゃいけないのは過去よりも、未来だ。
それさえ見失わなければ、自分はどこにいたって何をしたって、自分であり続けられる。きっとロイも。
「後悔してもいい。それは俺が一生背負っていく。だからあんたの傍に置いてください。死ぬまでだ」
ロイは目を見張った。
そのときにハボックが見せた表情を、どう表現すればいちばん正しいのか分からなかった。まるで炎が揺らめくように痺れてしまいそうな情熱と、氷のように芯まで侵すような冷徹さがはっきりと混在している。
出会った頃には見せなかった顔だ。自分が変わったようにハボックも変わった。
時間ばかりは錬金術師である自分でもどうにもできない。過去に戻ることも、いつまでも同じ場所に止まることも、未来を知ることも。
それに、もし仮に時間を操る方法が存在したとしても、今よりもいい人生が待っているとは限らない。楽な人生なら選べるかもしれないが、そんなことには興味ない。
「分かった。お前の命、私が預かる。決して私よりも先に死なせやしない」
「それは俺のセリフです。絶対に貴方を俺より先に、死なせたりしない」
それは、同時には果たされることのない約束。
ロイを残して逝くなんてできるだけしたくはないが、自分が死ぬのはそれほど怖くない。彼のために死を選べるのなら本望かもしれない。
今は突然、ロイが目の前からいなくなってしまうことを考えるほうが、よほど怖い。刺青のように消えることも薄れることもなく、ただそこにあるだけで、自分に傷の在り処を教えて、痛みをもたらす。
それでも、そんな約束を交わすことが出来る人がいるのは、とても幸福なことだろう。その深く残酷な矛盾ですら狂おしいほどに愛おしい。
自分以外のたいせつな誰かを失うリスクを背負ってでも、ただこの人と生きたいと思った。
いつかこの身が朽ちて灰になってしまうまでの短い時間だけなら、そんなことは苦でも何でもない。
無力さに打ちひしがれ、二度と明けることのない夜をこの身のうちに抱え込むことになっても、その翳りすら望むものをより輝かす。
自分は、その焔を追い続ける。そして。
いつかこの命が消えてなくなる、その日まで。



あらしもやまない。
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