あらしもやまない/13
草一つない荒野に立ちつくしていた。他には何もない、誰もいない。
足元に落ちる影は自分のものだけだ。世界でたったひとりぼっちになってしまった。
影を作る太陽はとてつもなく大きく見えるのに、手足は泥に浸かっているかのように重くて酷く寒い。
俺は一体いつからここにいるんだろう?
ずっとのような気もするし、ついさっきのような気もする。
頭は霞がかかったように思考することを拒否していて、とにかく早く楽になりたかった。
どこへ行こうとしているのかも分からず歩き続ける足を止めて、このまま倒れこんだら楽になれる。
そう分かっているのに自分の意思とは裏腹に、身体は少しもいうことをきいてくれない。
もう、いいじゃないか。
自分らしくない投げやりな気持ちが、強烈な誘惑となって歩みの速度を遅くする。
いつだって風を切るように生きてきたハボックにとって、免疫がないだけに光に群れる羽虫のようにそちら側に引き摺られていきそうになる。
いま膝を突いたらもう戻ることは出来ない。
はっきりとした言葉としては認識できなかったが、それがどういうことなのかは分かった。
あの人は泣くのかな。
泣いた顔なんて想像がつかない。俺ならきっと泣く。
あの人がいなくなったら、守れなかったことを後悔して泣いて、先に逝ったことを罵って泣いて、ひとりが淋しくて泣く。
ああでも、このままここにいてもひとりぼっちだ。
―――帰っておいで、ハボック。
突如流れ込んできた声に辺りを見渡すが、相変わらず自分以外に人がいる気配はない。
けれど、確かにあれは自分を呼ぶ声だった。
そうだ、帰らなくちゃ。
どこへ?
あの人のところへ。




傷もすっかり完治し、ハボックがようやく退院したときには、事件はすべて片付いた後だった。
生体系の錬金術は苦手だと言っていた通り、ロイの止血はかなり荒っぽいものだったようだが、それでも助けられたのだから文句は言えない。
腹部を切り裂かれた時の傷跡は残ってしまったが、あと半年もすれば殆ど目立たないほどに薄くなるということだった。男だし、軍人だし、身体に傷のひとつやふたつ気にもしないのでそれは一向に構わないのだが、一番辟易してしまったのは意識を取り戻して面会が許されるなり、ロイが病室に怒鳴り込んできたことだった。
部下の癖に私の許可なく死にかけるなとか、かなり理不尽な責め方をされたのだが、努めて好意的に解釈すればそれだけ心配してくれたのだろう。素直じゃないのはロイだからと納得するしかない。
怪我人相手にいい加減にしてくださいと、ホークアイが止めに入ってようやく、ことの顛末をロイは語りだした。
結果として、ロイは軍に真実は告げなかった。
調査対象となっていた男に関しては、彼は失った肉体を再生させるために生体に関する違法の研究をしており、その研究に失敗して爆発が起こったと報告し、ハボックはそれに巻き込まれたことになっていた。
あの大量の死体に関しても、相手が死体とあればもうどうしようもないということで、上層部は詳しく捜査もせずにすべてをひとりの元国家錬金術師に被せて闇に葬られることとなった。
同情してやる余地はないにせよ、まったく杜撰なことである。
ハボックが手に入れた賢者の石のことを聞いてみると、治療のために使ったら壊れたとだけ答えが返ってきた。
後で探ってみたら、あれはオリジナルではなく昔、軍で作られた賢者の石のようなものということだった。
それがどれほど魅力的なものなのか、錬金術師ではないハボックにはぴんと来ないが、人が手に入れてはならない力なのだとしたら、そんなものはなくなってよかったのだろう。
「ここに来るのも、一ヶ月ぶりだな」
青い軍服に身を包んで東方司令部の前にたつと、一ヶ月前の事件がなんだか遠い昔のできごとのように思えた。
いつもはろくに休みをくれないくせに、意外なことにロイまでもがゆっくり休めと言うので、ここ数年分の休みを一度に使ってしまったような気分だ。
一ヶ月前に死にかけたというのに、傷口が塞がった途端に退院しようとするのを医者は最後まで渋ったが、最終的には押し切るかたちで病院を後にした。
もともとじっとしているのは苦手なのだ。少しくらい身体を動かすようにしておかないと、なまった勘を取り戻すために余計に復帰が遅れてしまう。
入院中はさすがに止められていた煙草も、一歩病院を出た瞬間から銜えている。
玄関で見張りに立っていた顔見知りの兵士が、挨拶をしてくるのに片手をあげて返した。
軍人局に顔を出しておくようにと復帰を報告した際にロイには言われていたのを思い出し、いくつかの書類にサインを済ませてから、ようやく司令室へと辿り着いた。
だが今日が復帰初日であることは知っていただろうに、誰もいないがらんとした司令室に、まあこんなことだろうとは思ってたけど、とひとりごちりながらわずかばかり落胆していると、金髪の補佐官が書類を抱えて戻ってきた。朝から皆が出払っている理由を、ハボックの休職中に発生した連続殺人事件の犯人グループが逮捕されたのだと説明する。
「復帰して早々だけれど、午後からの取調べには少尉にもお願いするわ」
「了解です。長らく留守にして、ご迷惑おかけしました」
「いいのよ。その分これからきっちり働いてもらいますから。一ヶ月は休みなしだと思ってね」
「力の限り、働かせてもらいますよ」
肩をすくめながらおどけて言えば、ホークアイは唇だけで小さく笑みを返した。
決して表情豊かではない彼女だが、作り物めいた冷たさを感じさせないのは、上辺だけの作り物ではない内面の優しさのおかげなのだろう。
それからいくつか、一ヶ月分の穴埋めとこれからのスケジュールについて確認し、早速自分の机の上に詰まれている未決裁の書類にうんざりしていると、ホークアイから口を開く。
「大佐がお待ちよ」
促されて執務室へ向う。まさか上司に挨拶もなしという訳にいかないのは分かっていたが、意識を取り戻したときに無茶苦茶に捲くし立てられて以来、ロイは一度も病院には来なかったので、どんな顔をして会えばいいのか。
昨晩からずっと考えていたのだが、実はまだ決めかねている。
もう関わるなという制止も聞かずに無茶をした自覚はある。ロイが来なければ死んでいただろうということも分かる。だが自分の行動を反省するつもりはなかった。
使わない頭を下手に使って身動き取れなくなるよりかは、無謀でも愚かでも動かないと自分はきっと迷子になってしまう。勿論、それがロイのお気に召すはずもないことは百も承知だが。
なかなか言葉にも態度にも現れないが、ロイは非常に部下を大切にする。
部下の手柄は本人に与え、部下の過ちはロイ自身が責任をとる。本心を隠して皮肉や嫌味や嘘を平然と口にするあたり、およそ人徳者とも言いがたいのに、相反するように見えるこの性質のどちらもが紛れもなくロイで、そんな彼のことをやはり愛しいと思ってしまう自分は、愚か者以外の何者でもないだろう。
ロイの司令室を前にすると、柄にもなく少しだけ緊張した。初めてここに来たときだって緊張なんかしなかったのに、一体どういう訳か。その理由に、ハボックはもう気付いていた。
人は必ず、弱くなる。
他人と関わることで傷つき、感情を覚えることで心は脆くなり、経験を重ねることでタブーが増えていく。
けれど、弱くなった分だけ、人は優しくなる。
普段はノックなどしないのだが、これもけじめだと木の扉をたたけば、短い返事が返ってきた。
「入れ」
室内は相変わらず殺風景で、机の上に山のように積み上げられた書類だけが妙に存在感を放っている。
書類で顔が半分隠れているが、主は他人が部屋に入ってきたのにも気付いていないかのように、黙々と書類にサインをしていた。
「大佐」
「ああ、ハボックか。どうした」
まるで平坦な昨日の延長であるかのように平然とした口調に、肩に入っていた力が急速に抜けていく。
「今日から復帰なので、一応その挨拶に」
「分かった。じゃあ用事は済んだな」
「……まあ確かにそうなんですけど」
にこりともしない可愛げのなさは、確かに自分の上司である。ロイだから、と言い聞かせてハボックはそのまま言葉を繋いだ。
「とりあえず、今日からまたお世話になります」
「死ぬほどの目にあっても、まだここに未練があるのか?」
「死にそうな目にあったからこそ、まだ俺、あんたに未練たらたらです」
「私は、お前が死ぬところは見たくないよ」
相変わらず視線はあげないままだが、もっと散々罵られるものだと覚悟していただけに、ハボックは思いがけない台詞に何を返すべきなのか固まってしまった。
一方のロイは、安堵とも苛立ちとも言えない微妙な気持ちになっていて、顔があげられなかった。
ハボックが無事に帰ってきたことは純粋に嬉しい。しかし、それは同時に彼が故郷を捨て、自分と同じ修羅の道を歩むことも意味していた。あれが最後のチャンスだった。多分もう、引き返すことは出来ない。
その歓喜にも似た薄暗い感情を、自分はもう随分と長い間抱え込んでいた。真っ白いものを汚すときの背徳的な快楽は、どんな善人の心にもどこかに潜んでいる。
自分とは異なる種類のものだが、ハボックにはハボックの綺麗じゃない過去がある。何も知らない純真無垢な存在をどうこうするような気分という訳じゃない。
だがロイは自分の内側に潜む昏さを誰かに分かち合ってほしいだなんて、一度も思ったことがないのだ。そして、そこに無意識に入り込もうとしてきた人間もいなかった。彼を除いては。
そして好き勝手しておきながら、ぱっと身を翻してしまえるような屈託のなさみたいなものがハボックにはある。
自分のことを大切にしたいと告げた気持ちまで嘘だとは思わないが、同時に彼は、自分を手酷く傷つける方法も知っている。おそらくハボック自身も自覚がないだろう。
ハボックに好きだと言われる度に感じていた違和感の正体は、それだ。
まだ悪意があって傷つけられるならばいい。他人の負の感情には敏感にできているし、耐性はあるほうだ。
正直に言えば、他人に自分がどう思われていようが興味がない。出世に響くものであれば完璧に取り繕うが、腹の底で何を考えていようと自分はこれっぽっちもダメージを受けない。
人間のこころに絶対など望んではいけないのだから。
しかしハボックは自分がロイを傷つけることができるなんて、まったく思ってもいないはずだ。ロイだって瀕死のハボックを目の前にしたときにようやく気がついたくらいで。
手放したいと思ったときには、もうすでに手遅れだった。
自分の鈍感さに呆れてものも言えない。気付かぬうちに深く内側まで入り込んで剣を手に入れた男は、まだそのことを知らない。だから傍にいるのならば、それを隠し続けなくてはならない。
自分は、彼を愛してなどいない。
「俺だって、死ぬつもりなんかなかったですよ。ただ、予想外のことが起こりすぎて芋蔓式にあんなことになりましたけど」
少しも悪びれた様子もなく返される。
思考は論理的なのに行動は感覚的で、単純なように見えて非常に複雑だ。扱いにくいことにかけてはこの上ない。しかし彼には自分に対しても他人に対しても嘘がない。それだけは分かる。
「まあいい。今更ではあるが、先日の一件にあたって調べられた限りの犯人たちの資料だ。もう中央では終わったことになっているが、近いうちに軍法会議所の人間がお前のところにも調書を取りに来るだろうから、ぼろを出さないように最低限のことは頭に叩き込んでおけよ」
ロイはため息を付きながら、新聞の切り抜きやら調査報告書が束になったファイルを引き出しの中から取り出し、机に投げ出す。入院中も簡単な取調べは受けたが、司令部が何か圧力をかけたのか形式的な質問だけでその時は解放された。
立ったまま中を捲ると、自分が最後にやりあった赤い髪の青年もいた。もっとも、どこから集めてきた写真か知らないが、青年の髪は赤く染められておらず年齢も少しばかり若いように見えた。
「彼らは何者かの依頼で、いなくなったとしても簡単には気付かれないような人間を選んで、行方不明事件を起こしていた。誘拐だったのか上手い言葉で誘ったのか、姿を消した人間はこの一ヶ月で二十人ほど。しかしあの場に残されていた死体の数を考えれば――ああ、お前が殺した分は除くが――まだ出てくるだろう。どこで調達してきたのかはあの状態ではもう判別も不可能だったが」
「それを、元国家錬金術師殿が賢者の石にしていたという訳ですね」
「おそらくな。状況証拠だけの推理でしかないが、大きくは間違っていないだろう。お前をやったという何らかの関与が考えられる少年も、結局見つけられなかった」
失踪事件は真実の姿を隠したまま、幕が引かれた。
もしかするとこれは、何かもっと恐ろしい大きな渦の一辺なのかもしれないという疑念はつきなかったが、ロイが手の限りを尽くしても分からないというのだから、今はまだその時ではないのだろう。
もしも次があればその時にきっちりと落とし前を付ければいい。
死にかけたというのに、終わったことをいつまでも考えない楽天的なところのあるハボックは、周囲の人間が呆れるくらいの切り替えの早さで事件のことを頭から追い出した。
「帰りには迎えに来い」
そこではじめて視線を合わせたロイに、言外の何かを感じ取って、まだ聞きたい色々なことを飲み下して、大人しく頷いた。
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