「もうすぐ満月ですよ」 朗らかな声が人気のない部屋に響く。 振り向いた金髪が光に照らされて月と同じ色で輝く様子が、このうだつの上がらない田舎者の男には似合わないな。 などと失礼なことをロイは考えていた。 べっとりとインクを零したような闇に縁取られた淡く光る星は、地上をはるか遠くに見下ろしているはずなのに、 手を伸ばせば届くような錯覚さえ起こさせる。 決して手に入ることはないくせに、突き放す冷淡さを持たないのはかえって残酷だと忌々しく窓の外を見る。 ハボックが月の光なら、ロイは空の闇だ。 漆黒の髪の毛も瞳もこの国には珍しくはないけれど、どうせなら夜の闇の中でも目立つ明るい金色のほうがいい。 さすがに丸二日間寝ていないので、眠気でぼやける頭にそんな子供じみた考えが浮かんだ。 「寒いから締めろ」 窓を開けて外を見上げるハボックに、ロイは不機嫌さを隠さず声をかけた。 焔の二つ名を持つ国家錬金術師ではあるが、熱いにしろ寒いにしろ温度変化は苦手だ。 大体、月に一度はやってくる満月を今更、嬉しそうに報告してくるその神経が理解できない。 「帰るぞ」 時計の針は十二時をまわっており、ようやく片付いた残業をホークアイの机に置いて声をかけると、 本日の護衛係は窓を下ろして鍵をかけてから、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。 まだ多くのアメストリス人の記憶にも新しいイシュヴァール内乱の終結からすでに四年がたつが、 戦場に近かったイーストシティではまだ物騒なことも多く、東方司令部のお偉い方は職務で夜間遅くなるときには 護衛をつける決まりになっている。 戦時中は最前線で戦った現役の軍人であり、優秀な錬金術師であるロイに限って滅多なことはないと思われたが、 ホークアイが許さなかったので大人しく護衛をつけている。 基本的に当番制で、ロイ直属の部下の中から夜勤に当たっていない者が行うが、最近はハボックが進んで 志願することが多かった。職務のひとつとはいえ、特別手当などは出ないのでボランティアに近い。 何故ハボックが面倒を買ってでるのか、その理由を本人は下心と言うが、ロイにはそうは思えなかった。 コートを手渡されて袖を通すと、安物の煙草の香りと一緒にぎゅっと腕の中に押し込められる。 落ち着いたテナーボイスが耳元に聴きなれた言葉を囁いた。 「好きです」 なんでこいつは、こんなことを言うのだろう。 これまでの人生を振り返ってみて、行きずりで一夜を共にした女性たちにも何度も同じようなことを言われた。 けれどそれはあくまで挨拶みたいなもののはずだった。 快楽と、等価交換の。 言葉一つで得られるのならばこれほど安いものはない。心はそんなことに罪悪感を抱いたりはしない。 ハボックにも「私を抱きたいのか、それとも私に抱かれたいのか」と聞いたことがある。 だが「愛したいんです」と良く分からない答えが返ってきて、それ以来この言葉にはアレルギー反応が 出るようになってしまった。 しばらく大人しく抱きしめられていたものの、沈黙に耐えがたくなって、自分よりも厚い胸板を 発火布をつけていない左手で押し返すとすんなりと身体が離れる。 「大佐充電完了」 茶化した様子で軽口を叩くけれど、本当はその高い空のような深い海のような、 多分この世の美しいもの全てが持っている色をした瞳の奥に、何ものにも計り知れない激しい感情を持っている。 媚びるのでもなく恐れるのでもなく、初めて会った時ただ真っ直ぐに見返してきた視線のまま。 「これだけで完了とはお手軽な奴だな」 じゃあキスしてもいいですか、とすかさず返してきたのには、有無を言わさず右手を突き出して脅した。 別に減るものじゃないしキスの一回や二回、それどころかセックスだってしたって構わないのだ。本当は。 けれど肯定してしまえば、ハボックの愛とやらを認めてしまうことになりそうで、それはできなかった。 ハボックと二人でいるのは嫌いじゃない。 ヒューズやホークアイとは違うけれど、この軍の中では常に気を張り詰めているロイにとって、一緒にいて安心できる。 多少礼儀がなっていないところだって、能力と差し引きして考えるならば許容範囲だ。 見つけたときは掘り出し物だと思ったし、その考えは今でも変わっていない。 変わってしまったのはハボックだ。ロイのことを好きなのだという。 いつからだったのだろう。彼が自分を見つめる青い瞳の中に、温度にも似た色が混じるようになっていたのは。 今ならまだ冗談で済ましてしまえる。 あの日、ロイはハボックに告げられた言葉から逃げた。そしてハボックもそれ以上は追ってこなかった。 時折、遊びの延長のように好きだと囁くだけで、それ以上踏み込んでくるわけでもない。 遊びなら、いつか終わりにしなければならない。 あがりを告げるのは自分か、それとも相手か。 そうどこかで漠然と意識しながら、それには気付かないふりで他愛もない会話をしながら車に乗ると、 ハボックがまた女に振られたと愚痴をこぼす。 そういえば一ヶ月ほど前に、新しい恋人ができたと言っていたような気がする。 原因は太古から囁かれ続け、未だに正解のでない仕事と女との天秤話だった。 軍人という職業はひとたび事件が起これば、残業や泊まりも珍しくないので生活も不規則になりやすく、 それは私生活においても例外ではない。 せっかくできた恋人とのデートも仕事でキャンセル続きで、遂に、仕事と私どっちが大事なの!? と詰め寄られてお終いとのことだった。頭が悪いわけではないのに、学習しない男だ。 「お前は変なところで要領が悪いというか、馬鹿正直すぎるんだよ」 「でも仕事と彼女と、どっちが大切かなんて選べるもんじゃないっしょ」 「彼女達はなにもお前に、未来永劫の保証を求めている訳じゃない。その時だけ本当にたいせつにすれば、 後で嘘になってもいいんだよ」 未来のことを先回りして心配するのは無意味なことだし、過去のことを掘り返して後悔するのも、また同じだ。 ロイにとって大切なのは今だけ。だが、ハボックは火のついていない煙草をかるく揺らしながら、 視線をバックミラー越しにロイに向けて、はっきりとこう口にした。 「俺は、なかなかそうは割り切れません」 ああそうだったと思い出す。自分の鈍い勘違いを。 ロイはハボックのことを何も知らないし、ハボックはロイのことを何も知らない。 つづら折りになっている坂道をゆっくりと登るように積み重ねてきた時間とは別に、 もっと根本的にふたりの間には決して埋められない溝があった。 生い立ちとか境遇とか性格とか、それだけでは現しきれない深い何か。 ロイはそれを、虚ろのようなものだと思っている。 たとえば鋼の錬金術師との間には、その虚ろは存在していない。 ハボックより共に過ごした時間は俄然短く、顔を合わせれば皮肉と嫌味の応酬になってしまうが、 本気で憎く思っている訳ではない相手。 子供であることを差し引いたとしても何となく、彼がこれをしたら喜ぶ、これをしたら怒るというのは理解できた。 勿論立場の違いだってあるし、ひとりの人間としてハボックとエドワードを同一ラインに考えることは不可能だが、 どれだけ一緒にいてもロイはハボックを理解することができない。 それでいて二人でいることが苦痛ではないのだから、余計にそれを強く感じてしまう。 エンジンの音以外に何も聞こえてこない車内は、酷く自分たちに似ていると思った。 熱くもないのに手のひらにじんわりと汗が滲む。 沈黙のまま十分もすると、市街地から少し離れた閑静な住宅街の一角にあるロイの家が見えてきた。 玄関の前に車を止めると、先に降りたハボックが慣れた様子で周囲に何か不審な人影や物がないかを確かめて、 ようやく後部座席の扉が開けられる。 最初は面倒だと嫌がっていたのだが、それじゃ護衛の意味がないと押し切られる形で今に至る。 門をくぐろうと背を向けたところで、ただの思いつきだったが、自分が家の中に入るまで見届けるつもりでいる ハボックを振り返る。 「もうこんな時間だし、ソファに雑魚寝でいいなら泊まっていくか?」 「いえ。明日は遅番なんで、この車返してボロアパートに帰りますよ」 「そうか。じゃあな」 普段は何かに付けて一緒にいようとするので、二つ返事で受けるだろうと思っていたのに拍子抜けだ。 まさか失恋を引きずっている訳ではあるまい。 内心の驚きを表に出さないようにしながら、再び背を向ければ突然腕を捉まれた。 「おやすみなさい、大佐」 幾分普段よりも低く声が、背中を包んだ。 「ああ、おやすみ」 「……お互い、淋しい夜になりそうッスね」 断ったのは自分のくせに、わけが分からない。 「生憎、私はお前と違って相手には不足してないのでね」 そう答えながら離した左手が、しばらく震えていた。 『やってみないと分からないことがある』 これはロイの持論だ。 自他共に認める女好きでいつも違う女性と歩いているのに、周りからすればどう上手く渡り歩いているのか 女関係で痛い目にあったことは全くない。そろそろ身を固めろという親友の忠告も綺麗さっぱり無視して、 独身生活を満喫している。 実のところ、ロイ自身、愛だの恋だのというものがよく分かっていないのだ。 セックスをするのは気持ちいい。その前の駆け引きや睦言を囁く時間も楽しい。 けれど自分が相手を好きだとは微塵も思わなかった。終わって、相手を家まで送り届けたらそこでもうおしまい。 会う回数が増えれば、肌を重ねる回数が増えれば、期待するのは当然だ。 相手をそういう雰囲気に持っていかせないためにも、一度きりの関係のほうが居心地よかった。 確かに一人や二人、一度きりの逢瀬ではなく気に入った女性もいたが、家庭を築いて一生共に歩いていくという イメージは湧かなかった。きっと彼女はセックスが他人より上手かったのだろうとか、即物的な考えしか浮かばなかった。 大体恋愛と欲望を同一ラインで考えるほうがおかしい。 ―――淋しいって、何? 突然ハボックは休暇願いを提出した。 丁度三日前に東方司令部に視察に訪れた中央の高官を狙ったテロ事件。 司令部直属部隊の活躍のおかげで未遂に防ぐことはできたものの、起こらなかった事件にまで 報告書を作らなければならないというのは、軍というのは本当に煩わしい組織である。 そんなただでさえ猫の手も借りたいほど忙しい東方司令部で、ロイの側近ともあろう人間が やすやすと休暇を取れるはずもない。それは日頃残業続きで有休も溜まる一方なハボックも、 嫌というほど承知しているはずだった。 ロイは手渡された書類を見るなり片眉を吊り上げる。 発火布を嵌めた手で、すぐにでも紙切れを燃やせるよう準備しながら理由を尋ねれば、至極簡単な答えが返ってきた。 「昨日の夜実家から電話があったんスけど、この間の大雨で家がちょっと崩れたみたいなんですよ。 それで親父が下敷きになったらしいから、様子見に行こうかと」 「大丈夫なのか、父君は」 「ええ。命に別状はないし、ベッドの上でぴんぴんしてるって話でした」 そもそも危篤だったりしたら、いくら親不孝でも悠長に有給なんかとってませんよ、と軽い調子で返す。 たびたび田舎者とからかわれることはあったが、ハボックは自分の故郷の空気も時間も人も愛していた。 どこを見ても山と川と畑しかなくて、こじんまりと皆が寄り添って暮らしている。 鋼の錬金術師兄弟の故郷であるリゼンブールのように、戦争で街になりそこなった村というより、 最初から国に忘れられたような田舎の村といったほうが正しい。 家は決して裕福とは言えなかったが、自給自足を基本としている暮らしの中で食べるものには困らなかったし、 気候も砂漠地帯のように苛烈でもなく、自然に守られた過ごしやすい場所だったので、 一生戦いとは無縁に暮らすことも出来るはずだった。 イシュヴァールでさえ、世界から隔離されたあの村では対岸の出来事だった。 守る地位や養うべき家族もいない気楽な身分で、人よりも頑丈に育ったから物見がてら街に出てきて、 そのまま軍人になってしまっただけだ。まさかこんなに長く居つくことになるとは当時は予想していなかったが。 権力に媚びない飄々とした態度が気に入らないのか上司には尽く嫌われ、東方司令部に流されたときは ここで最後だろうと思ったのだ。 ところが東方司令部のナンバー2で実質的な指導者は、こともあろうに自分を側近として実にこき使ってくれている。 煙草に文句も言わないし、堅苦しい敬語もいらない。 それだけでハボックの中では上司としてできすぎなくらいだと思うが、逆に欠点をひとつずつ数えてみれば、 女好きでサボり魔で野心家で雨の日は無能。 でもその人に、これまでどんな上司に何の感情も抱かなかったハボックは惹きつけられている。 東方司令部に異動が決まった時、やることなすこと全て派手なロイの噂には事欠かなかった。 二十五歳という若さで中佐となり、国家錬金術師でその手はイシュヴァール殲滅戦で全てを燃やし尽くした。 出世するためには手段を選ばず、自分の障害になる人間は容赦なく叩き落す。 悪評ばかり聞かされたのでさすがに気乗りはしなかったが、その頃には軍の醜さも汚さもある程度知っていたハボックは、 どこにいても同じだと思っていたので、異動命令に文句はなかった。 誰かの思惑や己の損得に束縛されず、執着しない。そんな自由こそ、ハボックが愛するもののひとつだった。 そういう風に生きていけるならば、それと引き換えにどんな労苦があろうとも自分は耐えられる。 そういう風に生きて行こうと思った。 その後赴任早々、件の上司のサボりでホークアイのため息に出会い、成り行き上一緒に逃げるハメになった ――その時はてっきり下士官だと思っていたのだが――人がロイ・マスタングその人だった。 「私が東方司令部のロイ・マスタングだ。地位は中佐」 サボったロイと巻き添えを食っただけのハボックはともにホークアイのお説教に会い、その後ようやく自己紹介となった。 形式的に名乗っただけだが、自分よりも小さな背で、細い肩で、こんなにも堂々としている人を見たことがなかった。 数々の恐ろしい風評に似合わない童顔と、その二つ名の通り胸に秘めた焔のような気性に、 はじめて己の心臓が脈打つ音を聞いた気がした。 甘い言葉のひとつをかけるでもなく、全然優しくもなくて我侭で、だけど自分は甘い言葉が欲しいわけでも、 優しくして欲しいわけでもないのだろう。それならばこの人である必要がない。 堂々と名乗り、いつでも胸を張っている。この人がそうしていられる世界なら、この引き金を引く理由になる。 自分はあの時きっと運命に出会ってしまった。 書類をぷらぷらさせながらロイが文句を言う。 「この忙しいときに五日間も休暇をやれると思うか?」 「無理っスね」 動じることなくあっさりと返す。 「でも何せ遠いからここから二日はかかるんです。家に滞在するのが一日でも五日間っス」 ロイも鬼ではないのだから、家族のことを思いやるハボックの気持ちを理解してやりたい。 けれど幼い頃に母親を亡くし、親族と呼べるような人間もなく、長く天涯孤独である彼には、 どうしてもその辺りの感覚は乏しかった。 家族の絆というのはなんなのだろう。 最近子供が出来て娘自慢がうるさくなったヒューズもそうだ。 ひとりひとりが不完全である人間が集まったからといって、完全になるはずがない。それなら人体錬成も可能なはずだ。 だとすれば形のない家族とは、この部下の精神に何をもたらすのだろう。 軍に入ってからは一度も家には帰っていないと聞いたが、そんなにも長い時間会わないでいても、 信じていられる絆など本当にあるのだろうか。 考え込んでしまったロイに、やはり軍務に穴を開けるのはまずいのだろうと思ったハボックは、あっさり引き下がった。 「やっぱ無理っスよね。またの機会にしますよ」 「いや」 ロイの陽に焼けてない白い手から書類を取ろうと腕を伸ばすと、逆に手を出されて押し留められる。 「ちょっとしたつまらん雑用もついでに片付けてきてくれ。本当はふらふらしてる鋼のをそろそろつかまえて やらせようと思っていたが、どうせ行くならお前でも構わん」 「言っておきますけど、俺みたいな一般人に万国ビックリショーは出来ませんよ。やばい用件もパスです」 「お前までヒューズみたいなことを言うな」 うんざりしたような表情でロイは書類にサインをする。 近頃キナ臭い事件が多く、先だっても一悶着あったところだ。 最終的にロイが片付けたが、何度見てもその度に国家錬金術師の力には圧倒されてしまう。 格闘術にしろ銃の腕にしろ、ロイよりも上だという自信はあるが、あの力を目の当たりにしたら とてもじゃないが力で勝てるとは思えない。 錬金術とは本来、物質を細微レベルまで分解し、構築する技術である。 一般的には壊れたものを直したり、逆に混ざり合ったものを分けたりするのに使われる。 だがしかしそれは、使い方によっては人を容易に殺すことも出来る技術だということに軍人は目を付けた。 焔の錬金術師の二つ名を持つロイの得意とする焔の錬成は、中でもより戦闘に特化された錬金術だ。 何もない真空状態から火をおこすことはできないが、どんなに小さなものでも火種と空気中に可燃性物質さえあれば、 彼は人一人くらい簡単に包み込める焔を出すことが出来る。 鋼の錬金術師だって己の右腕を鋭い刃に変えたり、豪腕の錬金術師も分厚い石で固められた地面を 容易く破壊したりできる。 それをロイの親友である中央司令部のヒューズは、万国ビックリショーなどと呼んでいた。 でもそれは決して貶めるのでもからかうのでもなく、彼らのその力が何ものにも変えられないもので、 それぞれの信念のために使われているものだという信頼が込められている。 ロイもそれが分かっているから、口ではあれこれ言って見せても、本気で疎ましく思っていないのは傍目にも分かる。 お互いに親友だと公言する二人の仲に、何となく面白くないと思うこともあるが、彼らの絆の強さをとても眩しく感じる。 臆面もなく大切だと口に出来るのは、そこに一切余計な思惑が入っていないからだ。自分とは違う。 別にヒューズのようになりたい訳じゃない。だが焦燥感は確実にどこかに存在していた。 「それで、どういった用件で?」 「詳細の説明はまた今度にしよう。とりあえず今日はもういい。自分の仕事に戻れ」 司令官直々の命令とあれば拒む余地はないが、結局その雑用の中身を知らされないまま、 ハボックは三日後に発つことになった。 お土産は何がいいだのこれがいいだの、まるで旅行に行く人間を見送るような調子で同僚たちが話しかけてくる。 旅行に行くんじゃないぞ、こら。 片付けられる分は片付けておこうと苦手なデスクワークに励む隣で、いつもながらのやりとり。 部屋の窓際のデスクでは、若干いつもより不機嫌に見える上司が、黙々と書類に目を通してサインをしている。 昨日ロイに有休の申請をしてから、ずっとこんな感じだった。 むっつりと眉間に皺を寄せて、何かを考えあぐねるようなそんな表情。 何となく不自然な空気をそこに読み取りながらも、懸命な皆は触らぬロイに祟りなしとでも言わんばかりに、 そこに自然な空気を作り出そうとしていた。 それが返って歪つになっていようとも、知らぬふりをするくらいには大人なのだ。 そのことを少しだけ切なく感じる。 手足が伸びて見える世界が広くなっただけ、知識をつけ経験を重ね知らないことを知っただけ、 使えるお金のゼロの数が増えただけ、自分たちは確実に何かを失くしているのだと言う事を、 否応なく突きつけられるような。 皆が感情に忠実でいてもいいのは子供のときまでなのだ。誰もがいつかは、大人になってしまう。 ぶつかりあうことでしか分かり合えなかったことを、上手に避けて遠回りして、それで手に入れたものに満足してしまう。 それは世の中には必要なのであって、秩序と道徳に守られた世界でしか自分たちが生きていけないのだと いうことは分かっていても、生身の感情というものに久しく触れていない気がした。 ハボックがロイに惹かれるのは、仮面のような表情で謀略を巡らせていたかと思えば、 ふいに生身の感情を無防備に覗かせてしまう所なのだと思う。 良く言えば自然体、悪く言えば社会不適応。 欲望に忠実なその人は、欲しいものは何でも欲しいと口にするし、食べたいときに食べて寝たいときに寝る。 さすがに詳しい情事内容までは知らなかったが、恥ずかしげもなくキスマークを首筋に付けて出勤してきたことまである。 その場に出くわした親友が、ただでさえ敵が多いのにもうちょっと自粛したらどうだと忠告してみたが、 『何をしていても潰したいものは私を潰すし、私の力になるものはどんな私も見捨てない』 と、こともなげに笑って見せた。 その命の下で確かに息づいている頂上を見据える澄んだ目と、不遜ともいえる激しい感情が同居していること自体が、 奇跡なんじゃないだろうか。 他人に与えられたものに価値なんか付けない。 大事なものは、手に入れたいものは、自分の腕で掴みとるだけの自信と覚悟で、 誰もが幸せを願い甘える神さまの箱庭でただ一人、祝福を笑って手放す。 好きなんだと、そう思う。 男が好きだという趣味は、少なくともこれまではなかったし、ロイにしたって有名な女好きだ。 彼女代わりに欲しいと望んでいるのではない。ただ、好きなのだ。 自分でも呆れてしまうほど純粋に、まるで初恋をもう一度しているような気持ちで。 もともと器用なたちではないし、思い悩むのも性に合わない。 女性的ではないが男くささをあまり感じさせない容姿から、これまでにも何度か同性に愛を告げられては 返り討ちにしてきた上官を見てきたハボックだが、殴られるのも気持ち悪がられるのも覚悟の上で正直に想いを告げた。 しかしロイの反応は、想像していたものとは少し違った。 自分は誰かを好きになるという感覚が分からない。だから応えることは出来ない。 なんだか非常に難しい顔をしながら、そんなことを言われた。 すぐさま拒絶されなかっただけ、自分を憎からず思ってくれているのだろうと、それ以上は踏み込まなかった。 否、踏み込めなかった。 「おいハボック。ちょっと来い」 「はあ、何スか?」 すっかりデスクワークにも飽きて、思わず船を漕ぎそうになってきた頃、ロイが書類をホークアイに渡して立ち上がった。 何だと思いながらも、まともに読んでいない書類にサインだけ書き記して決裁済みの箱に放り込む。 部屋を出ようとしている後姿を追えば、理由が簡潔に述べられた。 「お前の雑用だ」 そうだった。普段と違うロイにすっかり気を取られてしまっていたが、休暇の代わりに雑用という名目の仕事を 言いつけられていたのを思い出した。 連れ立って部屋を出れば、黙々とデスクワークをこなしていたハボックに今日始めてまともな会話を切り出した。 幾分口調が皮肉っぽくなってしまうのは、休みを満喫するつもりだなという少しばかりのやっかみだろうと片付ける。 「嬉しそうだな」 「そりゃ嬉しいっスよ。ちびどももどれくらい大きくなったのか見るのも楽しみですし」 「ちびども?」 「前に言ったことありませんでしたっけ。俺、兄弟多いんですよ。弟が四人に妹が二人、あわせて下に六人いて、 一番小さいのは俺が家を出たとき、まだよちよち歩きだったから」 楽しそうに話しながら、健康的な白い歯を見せる。 いつもは飄々とした隙のない表情をしているが、本当は大人びた外見よりも随分と感情が豊かで、 無防備な笑顔は知らないはずの子供の頃を想像させた。 自分の知らない顔だ。田舎でひっそりとささやかな幸せを育んでいた男の顔だ。 途端にすぐ隣を歩くハボックが遠い人に思えた。 すっと伸びた鼻梁や、規則性があるのかないのか判断付きかねる方向に跳ねた金の髪の毛や、 明るい印象よりもずっと深い青をたたえたまっすぐな目も、今はすべてオブラートみたいな膜を隔てたように霞んで見える。 ぼんやりとして見えて、意外に人の気持ちに聡いハボックは、ロイが一瞬ざらざらとした硬質な表情を誤魔化すように 笑いに変えたのを見逃さなかった。 「どうしたんですか」 咄嗟に答えるべき言葉が見つからなかった。焔の申し子の、氷のように冷たい沈黙。 それは一瞬にも満たない短い時間だったけれども。 「……分からないか?」 「分かりません」 どれほど傍にいたって、こんなにも他人なのだ。 もしも今離れたとしたら、一体何がお前をここに繋ぎとめるのだろう。 彼は家族という信頼を持っているのに、自分達の間には何もない。 ロイには今、家族と呼べる人間は戸籍上にも血縁上にも存在しないが、望んだ、望まないはあれ、 誰もが生まれたときには家族がいる。やがて誰かを愛して新しく家族を作る。そしていつかは失ってしまう。 ハボックが育んでいくであろうその道筋の中に自分はいない。 私はお前のことをこんなにも知らない、お前は私のことをこんなにも知らない。 呪文のように繰り返す言葉。 視線をそらすように窓の外に広がる空を仰いで、無意識のうちに白い月を探していた。 今は赤く光る太陽に隠されて見えるはずもない。空のもっと果てに瞬く輝きはどの星も変わらないはずなのに、 長い旅を経てここまで辿りつく光はほんの一握りだ。 昼間にどうして星が見えないのか、子供の頃に不思議に思っていた。 太陽のひかりのせいだと教えてくれたのは一体誰だったのだろう。 思い出そうとしてみても、その記憶は何かと戦い続けているうちに擦り切れて、今残るのは客観的な事実だけだ。 昼間の地上からは見えない何十何百何千の光の粒子は、一体どこへ行くのだろう。 この目を素通りして。 「そうだろうな」 ため息ともとれるように吐き出す調子で、明確な返答を避けた。そのまま足早にハボックに背を見せて歩きだす。 「ちょ…っ、ちょっと待って下さいよ!」 慌てて追ってくる足音には、足が長い分早く追いつかれた。 ぎゅっと唇を結んで、もう何も語る気はないと意思表示をする。 普段なら他人を怒らせるようなことでも平気で口にできるのに、時々自分でも分からないほど妙なところで 酷く頑なな気持ちになる。 そうして胸の奥に飲み込んだ言葉を、今までいくつも手放してきた。 ハボックは何か言おうと口を開きかける。しかし自分がもう何も言うつもりがないのを察したのか、 横に並んだままそれ以上は追求しようとはしなかった。 何でもない、と言ってやれれば良かった。 それを素直に受け止めるだけの弱さが、お前にも私にもあればきっと言えたのに。 でもそんな嘘は、お互いの意識に何も残さないことが分かっていた。 騙すことにも欺くことにも、今更罪悪感なんか覚えなくなっていた。真実に傷つくことに慣れてしまったのだ。 苛立ちともなんともつかない不可解な感情が、心臓の内側を這いずる。 聞きわけがいいのはこの男の長所の一つだと思うが、時たま全部滅茶苦茶にしてやりたくなることだってある。 このどす黒い凶暴な感情の原点に何があるのか、自分はまだ知らない。 知らないけれど、漠然とした意識の中に、ハボックは決して自分とは相容れない存在であり、 一生を添い遂げるかそれとも完璧な決別を迎えるか、そんなやり方でしか付き合うことは無理なのだろうと思う。 だから決着はつけなければならない。 どんな答えを見つけたとしても、いつか本当に駄目になってしまう前に。 |
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