有邪気/9
つんとした血の臭いが鼻の奥をついた。
その生臭さに目の前に広がる光景が、水の底から浮かび上がるように意識が鮮明になる。
小十郎の足元には男が十人ほど転がっていた。その誰もが打撲や骨折の傷に呻き、さっき伸した男に至っては顔を真正面から殴ったために盛大に鼻血を噴出している。
血塗れの己の手に己の血はなく、すべて他人の血で汚れたものだ。
軽傷とは言えないにしろ、皆で肩を貸し合えば医者のところまで駆け込むくらいはできるだろう。
わざわざ待ち伏せて取り囲んでくるあたり多勢に無勢のつもりだったのだろうが、まったく無意味なことだった。
一対一の真剣勝負も好きだが、喧嘩の本懐は乱闘だ。
抜きん出た反射神経と動体視力を備えた小十郎にとって、素手の殴り合いのほうが本来の力を出しやすい。
左手はまだ殴り足りないと訴えていたが、もはや立ち上がってくる気概のある人間はいなかった。地面に倒れた相手を踏みにじるほど落ちぶれてはいない。
ふうと溜息をつくと憑き物が落ちたように視界が鮮やかになる。
城を出ても朝餉の席での一件は澱のようにどこかに溜まっていて、その鬱憤を吐き出す術を求めた。
波長が同じ人間同士、惹き合うとでも言うのだろうか。
さっぱり覚えはなかったが、理由も定かでない昔の恨みとやらを後生大事に持ってくれていた一行が都合よく自分の前に現れた。口元に帯びた軽薄さと瞳のうすら昏い光は何度も目にしたことがある。
一年程前にはこんな連中としょっちゅう喧嘩をしていた。理由なんてなんでも良かった。
自身の何かを貫くためにではなく、喧嘩をすること自体が目的だったような気もする。
だからいつも向き合っていたのは相手ではなく、己の強さにだった。
取り囲まれて胸倉を掴みあげられたとき、血がざわめいた。正直に言えば、湧き踊った。
隙だらけの大振りな拳をかるい動作で避けると、そのまま左足を振り上げて顔面を蹴りつけ、身体が宙に浮いた相手を追ってそのまま右の肘うちで叩き落した。
わずか数秒の出来事だ。
反撃する間もなく地面に崩れ落ちた仲間を見て一瞬相手は怯んだが、それでもまだ人数で勝る自分たちが優勢だと信じていた。力量の違いすら見極められないなど、本当の戦いなどしたことがないに違いない。
何も考えたくなかった。ただ左手に巣食う熱を散らすためだけに、身体が動くに任せて次々とかかってくる男たちを叩きのめした。
向かい合う相手がいなくなったところで、ようやく小十郎も動きを止めた。
動き回って乱れた前髪以外、かすり傷と呼べるほどの傷すらない。
ちらりとあと一人残っていた相手を横目で睨む。味方がいなくなったと分かって戦意を喪失したのか、目が合ったとみるやばたばたと逃げ出していった。追いかけて殴るのも馬鹿馬鹿しい。
急に全部がつまらなくなり、倒れた男たちに一瞥をくれるとさっさとその場を後にした。
誰かを殴ればましになるだろうと思っていたのに、かえって空しくなっただけだった。
無為に時間と力を持て余していた場所から一転して、突然に城主の嫡男の傅役になって住む世界が変わったところで、自分はまだ何も持っていないままだった。
所詮、こんなものか。
失望すらわきあがらなかった。空虚はすり鉢の底に溜まるように降り積もる。もう凝り固まってこの身から剥がす事すらできなくなっているのかもしれない。
米沢城の方角東の空に、灰色を帯びた仄暗い雲が広がっていた。




「珍しいな、景綱がここへ来るなんて」
竹刀と竹刀のぶつかる独特の甲高い音に誘われるままに道場をくぐった。
最近は昼間は梵天丸についていなければならないし、ただでさえ相手をする人間も少ないので剣の稽古はもっぱら一人だったが、とにかく何でもいいから身体をへとへとにさせたかった。
城に戻る前に一度、義姉と暮らす屋敷へ立ち寄って血で汚れた身体を清めた。
二人とも城に部屋を与えられているため、週に何度か義姉が掃除に来ているくらいで普段は誰もここには住んでいない。喧嘩をして汚れたときなどに着替えをするのには好都合だった。
城に戻ってもまだ梵天丸のところへ行く気にはなれず、どうしようかと思ったとき稽古場から竹刀の音が聞こえてきた。覗いてみると見知った顔があり、相手もまたすぐに小十郎に気がついた。微笑をうかべて近付いてくる。
鬼庭綱元。老いを理由に第一線を退き左月斎などと名乗ってはいるが、伊達家の重臣である鬼庭家の当主良直の嫡男である。
小十郎にとって同腹の義姉・喜多はその左月の娘で、小十郎と綱元は血の繋がらない義理の兄弟だった。
「そういえば昨日から梵天丸様が風邪を召されているとのことだったな。お傍にいなくていいのか?」
「自室でお休みなられています。俺などがいては邪魔でしょう」
「そうかな。私は傍にいるだけでも、構わないと思うけどね」
一人でいる心細さが少しでも和らぐのであればと昨日はずっと傍に侍っていたが、今日はまだ一度も梵天丸と顔を合わせていない。
今傍にいけば自分の中にある血なまぐさいものを、梵天丸はきっと見抜いてしまうだろう。
小十郎は綱元の意図に気付かなかったふりで、稽古に励む男たちを見やる。
「綱元殿。少しばかり稽古の相手をしていただきたい」
「私では相手にもならないだろう。今日はせっかく何人かいるんだ。誰かと手合わせしてみないか?」
「俺は構いませんが、俺の剣は嫌われるんですよ」
「まあそう言うな」
にやりと意味ありげな笑みを浮かべ、おいと綱元が一同にかけた。
「誰かこいつと打ち合ってみないか?話くらいは聞いたことがあるだろう。あの片倉景綱だ」
ざわと少しばかり場が波立って、好機の視線が一気に集まった。
一体どんな話が伝わっているんだと小十郎は眉間にしわを寄せたが、小姓として伊達家に出入りするようになってから何度か道場に出入りして稽古に参加したことがある。
稽古であっても一切容赦ができない性質なので、相手したものに怪我させたことも二度や三度ではすまない。
揶揄にしろ、その時の話が語り草になっているのだろう。
「では某が」
大柄な小十郎と並ぶほどの堂々たる体躯の男が一人名乗り出た。
歩き方にも視線の配り方にも隙が少ない。相手としてはまずまずだ。
「竹刀と木刀、どちらで?」
「木刀はやめておけ。景綱の剣は怖いからな」
意味ありげな綱元の言葉に男は頷いて竹刀を構える。小十郎にも竹刀が手渡された。
審判は綱元が務め、勝負は一本とったら勝ち。負けるとは思わないが油断ほど怖いものはない。
「はじめ!」
声と同時に相手がまず真正面から突っ込んできた。
馬鹿正直に正面から打ち込んでくるのを流して、側面を突くようにそのまま振り払う。しかしそう簡単にはとらせてもらえるはずもなく、鈍い音をたてて受け止められる。
そのまま打ち合いに入った。一瞬左利きの小十郎の太刀筋に戸惑いを見せたが、うかつに踏み込めば今度は自分が側面をとられかねない。ぶつかり、離れ、探りあい、隠し。またぶつかる。
一太刀交わせば、何かが見える。
どちらがより強い者か決着を付けたがるのは、雄の性なのかもしれない。
真剣でないのが惜しいが、こういう緊張感は久しぶりだ。
命をすり減らすようにしながらしか、確かめることができない。己の強さ、己の道、己の望み。
鼓動が早まり気持ちが昂ぶるのに従って、意識が一点に向かって上り詰めてゆく。
この感覚は、少し性的な興奮に似ている。
―――ここだ。
「景綱!」
綱元の声が響いて我に返った。
叩きつけようとしていた力を直前で削いで、大きく振りぬいて肩を打った。それでもかなりの衝撃だったはずだが、相手は無様に倒れこむのだけは耐えて膝を突いた。乾いた音を立てて竹刀が手から落ちる。
「そこまで!」
今自分は、相手の喉元を力任せに突こうとしていた。
喉がつぶれるくらいならまだましで、当たり所が悪ければ首の骨が折れていただろう。
殺そうなどと考えていたわけじゃない。ただ、目の前にいる敵を排除することしか考えていなかった。考えてすらいなかったかもしれない。ただ本能の赴くままに、剣を振るった。
「だから言っただろう、怖い剣だとな」
何が起こったのか茫然と小十郎を見上げている男の肩を綱元が叩いた。
「さ、お前たちも稽古に戻れ。片倉景綱の怖さが分かっただろう。分かったらくれぐれも勝手に試合など申し込むんじゃないぞ」
肩を痛めた男だけは骨にひびくらい入っているかもしれないので医師の元へ行き、他の人間は小十郎のほうを気にしながらも言葉に従って、ぱらぱらと散っていく。
小十郎は綱元が何故こんな試合を仕組んだのか読めた。
「……綱元殿、嵌めましたね」
「すまないな。若い連中の鼻っ柱を折るには丁度いい機会だと思ったんだ」
「金輪際こんなことは止めて頂きたい」
「少しやりすぎたと思ってるよ。しかし私はまだ慣れているからいいが、景綱のそれも治す必要があるな」
小十郎にしてみれば、自分の前に立った以上は稽古だからといって遊びではすまない。その程度の覚悟もなしに剣を握るほうが馬鹿げている。
命の削りあいに本来規則や禁忌はない。倒せば勝ち。本来死合いとはそういうもののはずだ。
だがそれを全ての人間に理解しろというほうが無理だと言うのも分かる。好き好んで剣を握っている奴ばかりじゃないだろう。
「お前は強い。だが、それだけだ」
「俺は自分のために剣の腕を磨きました。誰と戦っても負けないように」
「それは動機であって、志じゃない。誰にも負けない剣を身につけたからと言って、それでお前はどうしたい」
「………」
「その力を自分以外の誰かのために使うことができてはじめて、それは真にお前自身の剣になる。私には、そんな気がするよ」
いつもその時だけを生きてきた小十郎が、志などという仰々しい展望など抱いているはずがない。
そんなものは誰かが勝手にやればいい。血の川を渡るような己でも構わなかった。
それが自分だけを信じ、他人を信じることを平気で放り捨ててきた果てにあるものだというのならば。
今更他の生き方を選べといわれても、今まで捨ててきたものを拾い集められるはずもない。
それなのに、何故か梵天丸の顔がちらつく。
左手の疼きはまだ、治まりそうもなかった。




昼過ぎから空を覆った雲は夜になっても、城一帯を冷たい雨の檻に閉じ込めていた。
梵天丸は今日も丸一日大人しく眠っていた。
傅役でありながらまったく顔を出さないわけにもいかないので、昼過ぎに一度だけ様子を伺いに行ったが、薬が効いているのかよく眠っている様子だったので部屋には入らなかった。
医師の見立てでは疲労から来る風邪で、明日には起き上がれるようになるだろうとのことだ。剣の稽古は休ませるにしろ、体調がよいようであれば少し書物などを持参しようかなどと考える。
今日は本当にろくでもない一日だった。
些細なことに気持ちを乱してつまらない喧嘩をし、剣道の試合で危うく相手の喉を潰すところだった。
その上綱元にかけられた言葉を馬鹿げていると思いながら、わずかに動揺している自分がいる。
もともと鷹揚なほうではないし、気が長いほうでもない。責任を他所に探すつもりはないが、今日の自分はどうかしているとしか思えない。
独特の光沢とやわらかな丸みを帯びたどぶろくに口をつけ、酒をくいっと飲み干す。
自分の微禄では酒など買う余裕はないが、以前輝宗に下賜されたものが残っていたのだ。
城下の小汚い店でよく飲んでいたような混ざりものの多い安物とは違って、喉をするりと通り抜け、後になってじんわりと腹から熱さが込み上げてくる。
有難い頂き物を一人酒に使うなどと義姉にばれたら雷ものだが、最近顔をあわせていなかった。お互いそれぞれの仕事に忙しくしているし、わざわざ訪ねるほどの用も思い当たらない。
雨が地面を打つ音を聞きながら杯を重ねていると、廊下から小さな足音が不協和音のように混じった。
小十郎に与えられている部屋のある場所は、他にも多くの家臣たちが暮らしているので人の行き来は多い。夜も更けているので殆どの人間はもう休んでいるだろうが、外で遊んできたものがこっそり帰ってきたのかもしれない。
気にせずそのまま酒を飲み続けていると、足音が小十郎の部屋の前で止まった。
夜這いを仕掛けてくるような相手に心当たりはない。夜襲を仕掛けてくる相手など更にない。
私的な喧嘩ならともかく、わざわざ城の中で自分を殺して損得がある人間などいないからだ。
とりあえず脇差がすぐ抜ける位置にあるのを確認して、障子戸のほうを見ればするすると開けられ、姿を見せたのは意外な人物だった。
「……梵天丸様!?」
思わず声が裏返った。そのまま絶句する小十郎を気にもせず室内に入ってくる。
どのように抜け出してきたものか、昨日から風邪を引いて床についていたはずの幼い主君だった。
弱々しい火の光では顔色まではよく見えないが、足取りに迷いやためらいは感じられない。
梵天丸の部屋から家臣たちが暮らす離れまではそれなりの距離がある。夜に子供がうろうろしていれば目に付くはずだが、場内において腫れ物扱いの梵天丸なので止められはしなかったのだろう。
目を閉じ、耳を塞ぎ、声を殺し。何も関わらないで、永遠に外の世界。
怖いものには近付かない。危ないものには触れない。正体を確かめる努力すら怠っているくせに、そうすることでしか自分を守れないと信じている。
だが腹を立てるのも悔しく思うのも小十郎ばかりだ。他人に侮られたり蔑まれることは梵天丸にとって、自らの何かを汚したり傷つけたりするようなものじゃない。
その峻烈な潔さの根っこにあるのが、たとえ無関心という名の毒だとしても。
もちろんこのままでいいとは思ってない。彼が伊達の当主として立つためには、まず臣下たちに認められなければはじまらない。そして梵天丸には本人が望む望まないは別にして、智や技だけにとどまらない才がある。
才能を腐らせるのも生かすのも本人の自由だ。但し、小十郎は梵天丸の臣下であるという意識はあるが、必ずしも梵天丸の望みどおりに行動しているわけではないし、梵天丸もそれは分かっているはずだ。
言葉を交わした瞬間、どちらがより多く相手の信念を切り崩せるか、危うい賭けをしたのだ。
臣従なんて生易しいものじゃなかった。でも確かに、はじまった。
「お身体の調子が悪いのでしょう。一体こんなところまで何を」
「あんな医師まで寄越して皆が大袈裟すぎるのだ。寝るのに飽きた。お前なら起きているかと思ったが正解だったな」
「飽きたって……」
「熱自体は今朝には綺麗さっぱりひいていた。父上の顔に泥を行くわけにもいかぬから大人しくしていてやったが、あんなに昼間から寝てばかりいては眠れぬ。しばらく相手しろ」
同意を取り付ける気はないらしい。反論は受け付けないと言わんばかりにちょこんと少し離れて座る。
さてどうしたものか。力づくで強制送還するのは難しくはないが、そうすれば間違いなく機嫌を損ねるだろう。
梵天丸は常に人よりずっと先のことを考えて行動している。だとすればここに来たことも気まぐれなどではなく、何かしらの意図があってのことだ。迷惑なほどに決然とした純粋さでもって。
羽織もなく、起きぬけの着物の襟元や裾はだらしなく着崩れていた。誰も注意するものがいないから、恰好には無頓着なところがある。外に出るときでも袴を身につけないし、髪の毛も伸びっぱなしだ。
お小言はまた改めてすることにして、自分の羽織を肩からかけようと脱いで小十郎は躊躇った。
己の左手が、まだ血のにおいを薄くまとっているような気がした。洗っても洗っても消えない刺青のようにずっと奥にまでしみこんでいて、今触れたら梵天丸まで汚れてしまうのではないだろうかと、そんな不安。
固まった小十郎を前にして、梵天丸は驚くべき行動に出た。
「ぼ、ん天丸、様」
何と膝の上に乗り上げてきたのである。
下手に動けば落としてしまう。一層身を硬くした小十郎に梵天丸はしてやったりという笑みを浮かべる。
膝の上の軽い重みと温もりが、小十郎の不安を左手の疼きと一緒に吹き飛ばして、代わりに温かいものを注ぎ込んでいく。
苦笑とともに息を吐き出すと、膝におさまった梵天丸が眉を顰めた。
「酒臭い」
「飲んでましたから」
「それは、そんなに旨いものなのか?」
「酔えば一緒ですよ。少なくとも俺にはいい酒ってのはよく分かりません」
好奇心の塊のような相手が、どぶろくに手を伸ばそうとしたので即座に取り上げる。
「駄目です。子どもが飲むようなもんじゃないです」
「お前がそんなに常識的だとは知らなかったな」
辛辣な嫌味で返してくるが、ここで怯むようでは傅役の名が泣く。
自分だって酒をたしなむようになったのは十三かそこらだ。ちなみに女を知ったのも同時期だったが、神職の子と領主の子を同列に扱うわけにはいかない。
反論を受け付けずにさっさと残りを飲み干してしまうと、梵天丸が不服そうに睨んでくる。
しれっと取り合わずに、手に持ったままの羽織を背中にかけてやれば、当然ながら大きすぎるそれは梵天丸の身体をすっぽり包み込んだ。
何かしら拘りがあるのか真っ白な着物姿しか見たことがないが、自分の藍染めの羽織を着ていると白い肌が一層際立って映える。
白と黒、光と闇、生と死、右目と左目、神と呪。世界をたったふたつにしか分けられない心に、新しい色が差し込んだように。こうして少しずつ色付き始めるのを傍で見られるのが、いいことのようなそうでないような。
思い返せば、二人の関係は随分と変わった。
出合ったときにはこんな風に触れることも、言葉を交わすこともなかった。嫌われていたのではないがもっと性質が悪いというか、存在しないものとして好き嫌いすら判断すらされていなかった。
多分、それはいい変化なのだと今は信じることにしよう。
「何だ妙な顔をしおって」
「え、そうですか」
「薄気味悪い笑みを浮かべていたぞ」
笑って、いたのか。
まったく自覚がなかった。
昼間のように剣を振るっているとき正気を見失うことはあっても、小十郎にとって笑うことは造作もない演技だった。心の底から何かが楽しいとか嬉しいとか、そういう感情はとっくに磨り減って、楽しくもないのに笑えるようになっていた。
複雑な気持ちだ。ぽりぽりと頭をかいて梵天丸の隻眼を見つめると梵天丸も同じように見つめ返す。
「景綱」
甘い毒だ。この声も瞳も、毒と知りつつ手を伸ばさずにはいられない甘い甘い蜜。
知らなければそれで済んだ。でも一度でも知ってしまえば、抗いがたい渇きとなって巣食ってしまう。
ぼんやりと眺めていれば、梵天丸が膝をついて顔を近づける。薄い唇が、触れた。
「!?」
ちろりと小さな舌が唇を舐め、慌てて顔を引き剥がした。
「な、何やってんですか!」
「お前が酒を全部飲んでしまうからだろう。味くらい分かるかと思ってな」
悪びれた様子もなく、しゃあしゃあと答える。
どれだけ頭がまわっても、子供だから深い考えなどないのかもしれない。無邪気なことだ。
接吻の一つや二つ遊んだ女とすることくらいなんともないが、年端も行かない主君にしかけられた自分の身にもなってみろ。
「……いいですか。こういうのはみだりに他人にするものではないのです」
「何故だ?」
「大人になれば分かりますよ」
「今言え。大人になってからでは遅い」
ひとたびこうと決めたら呆れるほど強情だ。
むっつりと押し黙っていると再び梵天丸が唇を近づけてくる。そう何度も引っ掛かってはいられないので手のひらで押し留めれば、どこでそんな手管を覚えたのか指に噛み付かれた。
やわやわと獲物の柔らかさでも確かめるように、小さく清潔そうな白い歯が硬い皮膚を甘噛みする。ゆるく何度も辿られ、少し伏せられた睫毛が小刻みに震えていた。
その仕草はまっさらの生命を剥き出しにしたように生々しく、言葉を選ばなければ――色気すらあった。
自分が律儀すぎるほど健全な趣味嗜好で本当によかった。
その手の趣向がまったくないのでのっぴきならない事態にはなりそうもないが、子供だと油断した途端こうだ。
前言撤回。無邪気などと、とんでもない。
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