有邪気/8
目が覚めたとき、梵天丸の布団はもぬけの殻になっていた。
すぐさま起きあがって触ってみるとひんやりとしていて、出てからしばらく時間がたっていることが分かる。
厠に出たわけではないだろう。枕元に置いていた刀を引っ掴んで夜着のまま廊下に飛び出た。
だが、正堂のところまでやってきたところで梵天丸の姿を発見し、安堵の息をつく。
虎哉和尚と一緒だった。二人は少し離れて並ぶように座り、静かに言葉を交わしている。草木も眠りにつくしんとした静寂の中で内容までは聞こえなかったが、昼間とはうってかわって和やかな雰囲気に思えた。
虎哉和尚は梵天丸のことを怖いと言ったが、だからといって義姫のような悪意も見えなかった。
きっと輝宗と同じで梵天丸が伊達家の人間として生きていくことを望んでいるのだろう。分かりやすい表現ではなかったが、梵天丸に対して教えを説く虎哉には慈愛のようなものも感じられた。
人間として生きること。人間でないものとして生きていくこと。
果たしてどちらが梵天丸の本当の望みなのか、小十郎には分からなかった。
輝宗や虎哉和尚の考えが間違っているとは言わない。どんな理由があれ、人の子として生まれてきたからには人として生きる権利はあるはずだ。
けれどそれを自らを化物だと語り、人の手を拒んで生きようとしている梵天丸自身が望んでいるのかと考えると、迷いなく肯定はできなかった。
今にして思えば、出会ったときすべてを分かりきったように語った未来に、他の道を指し示すほどの傲慢をよくもやってのけたものだ。無知とは本当に恐ろしい。
声をかけるべきかどうか逡巡して、結局そのまま部屋へと引き返した。
まだ温もりの残っている自分の夜具に足を突っ込む。基本的にはどんな環境でもすぐに眠れるたちだが、頭が妙に冴えて再び寝ようとしてもなかなか睡魔がやってこない。
色んなことが随分複雑でややこしいことになっているように思える。
梵天丸の正体については、実はそれほど問題にはしていなかった。
十割信じている訳じゃないし、まったく動揺してないといえば嘘だが、一方で霧が晴れたような清しさとある種の納得すら覚えているくらいで。
だけど覚悟もなしに踏み込むには危険すぎると、頭の芯がひりつくように痺れながら訴えている。
無茶も無謀も人並み以上にはやってきたつもりだったが、もとの水準からして比べ物にもならない。
片方しかない目に音もなくひそんでいる艶めいた黒い焔。火傷ではすまないだろう。灰になる覚悟を決めてまで傍にいる理由。
それを自分は持っているのだろうか。
傅役ごっこがしたいだけなら今が潮時だ。先に欺いたのは梵天丸のほう。恨まれる筋合いはない。
だけど離れられないと思っているのは事実。最初にあったのは間違いなく好奇心で、今それに名前を付けるとするならば同情でも責任感でもましてや忠誠心などでありうるはずもなく。
そうだ、これは、優越感。
いつでも壊せる。熱い塊を飲み込んだように胸が疼いて、薄暗い欲望の正体を見た気がした。
ほどなくして梵天丸が戻ってきた。
眠ってはいなかったがあからさまに起きていたことを悟られるのも気まずいので、狸寝入りを決め込む。
衣擦れの音がして近付いてくる軽い足音。さきほど触れた頼りない肩の感触が手に蘇る。
目を閉じたまま気配に意識を向けていると、枕元に座りこんで空気が震えるほどの音で名を呼ばれた。
「……小十郎」
何故かいつも通りの景綱、ではなく小十郎と呼びかけられた。
どういうことだろうかと思ったが、まだ寝たふりを続行中なので起きだすことができない。
「お前は、違うのか?」
それだけ問いかけるとしばらくじっとしていた。夜の闇に塗込められてしまいそうなほど微かに、二人分の吐息が部屋を覆う。少しして、畳を移動する音がして布団に戻っていく気配がした。
もしかしたらばれていたのかもしれない。
肝心な言葉が入っていないので何を問いかけられていたのかさっぱりだったが、違いますと答えるのが正解だとは何となく分かった。
そう答えて頭の一つでも撫でてやれば、安心させてやることが出来る。
でもそれは自分もそして梵天丸も望んでいない。優しくして慰めあうほうが楽なのに、そんな頑なさと真っ直ぐさを向けあうしかなくて、確かにややこしい事態になっていると思う。
半刻はたった頃に目を開けて顔だけ梵天丸のほうへ向ける。こんもりと頭まで布団を被っているので、眠っているのか起きているのか分からない。
のそりと身を起こした。盛り上った夜具へ手を伸ばしかけて、あと少しで届くというところで引っ込めた。
たとえ起きていてこちらを振り返ったところで、一体どうしようというのだ。
さきほどの問いかけの答えでも言う気か?馬鹿げている。
梵天丸の真似をして頭まで夜具を引き上げて、暗がりの中でぼんやりと浮き上がる自分の手を眺めては、こっそりと息をついた。
結局それから寝付くことは出来ず、太陽が昇り始めたところで起きた。
傍らの梵天丸はさすがに苦しかったのか、少し布団から顔を出してこちらに背を向けるように丸くなって眠っている。小さな寝息は穏やかだ。こうしていればただの子どもにしか見えない。
少しばかり眠たいが、部屋を出て水で顔を洗ってしゃんとさせてから正堂のほうへと向かう。
虎哉和尚はもう起きていて、ひとりで読経をあげていた。
宗教を否定する気はないが、俗世を捨てこんな人里離れた場所で何かを祈るより、現実で戦うほうがずっと建設的だ。だから小十郎は祈らない。自分の力しか、信じない。
自分の力で叶えられない望みなど抱くから、期待する。期待するから、裏切られる。
何も持っていなければ何も失わずにすむ。ずっとそういう風に生きてきたのだ。これからも、そうして生きていこうと思っていたのだ。なのに、どうして今更自分の持っていない何かを手に入れたいだなんて。
梵天丸なら、持っているのだろうか。
終わるまで待ち、それから堂内に入ると来訪者を分かっていたように虎哉和尚が振り向いた。
冷たい床にそのまま腰を下ろす。回りくどい世間話などしても仕方ないので、単刀直入に聞いた。
「昨晩、梵天丸様と何をお話されていたのですか」
「見ておったのか」
「たまたま目が覚めたらいらっしゃらなかったので」
「梵天丸様に聞きはしなかったのか?」
「素直に話すとは思えません」
「道理だ。そんな難しい話ではない。ただ、お前のことをな」
やはりそうか。昨日、梵天丸のことをけしかけたのはそれでだろう。試されたのだ。
最初に出会ったときからそうだったが、相変わらず意地の悪い僧である。実家の兄も何となく相容れない独特の雰囲気を持っていたが、人間の相手をすることをやめたらこうなってしまうのだろうか。
おかしなもので腹は立たなかった。もう同じものを求める余地が相手にないというのは、そういう一面もたしかに含んでいるのかもしれない。
「お話になったのだろう。呪のことも御目のことも。お前は梵天丸様の傅役をやめないと答えたそうだな」
「はい。でも俺は、何故梵天丸様の傅役でい続けたいのか分からなくなりました」
「景綱。お前の探している答えを知っているのは儂ではない」
諭すように告げ、傍らに鎮座する両手で抱きかかえられるほどの仏像を見上げた。
いつ作られたものなのか、何度も人の手に触れられた部分は手垢で黒ずみ擦れててらてらと光っているが、素朴で優しい気持ちが、そっくり宿っているような祈りのかたち。
打ち捨てられることなく守られ、真摯に繋がれてきたこの国の神への敬意に満ちた。
その道のりに比べれば、百年足らずの人生の中で何かを得たり成し遂げようとすることなど、土台無理なのかもしれない。
「さあ、今日はすぐに発つのだろう。朝餉の支度の間にお前は梵天丸様を起こして堂の掃除でもしてくれ」
うまくはぐらかされてしまったが、朝から禅問答に付き合わされてはたまらない。
軽く一礼してから宛がわれた部屋へと戻る。梵天丸は目を覚ましており、布団の上に身体を起こしてぼんやりと視線を前に向けていた。
しなやかな白い首筋にも黒髪がかかって、光の中に影がひと筋かかっているように見えた。
「おはようございます」
膝を突いて挨拶すれば、はじめて気がついたようにゆっくりとこちらへ顔を向ける。
右目は前髪に隠されて見えなかったが、小十郎の声に反応しながらも左目は虚空から視線が定まらない。
梵天丸の瞳の色が、ざわりざわりと波うつように生々しい緋色を帯びて、それが黒に戻ってゆく。
それは目の前の光景を映してはいない。また誰かの死を視ているのか。ぞくりと怖気が駆け抜けた。
「梵天丸様っ!」
神だか呪いだか知らないが梵天丸を持っていかれてたまるかと、小十郎は肩を掴んで大声をあげた。
「梵天丸様!目をお開けください!」
目の前で呼んでみても、ぼんやりとしたまま何の反応も返さない。何も映さない。何も響いていない。
ただ梵天丸が、梵天丸でなくなるのを見たくないその一心で、きつく身体を抱き寄せて繰り返す。
「梵天丸様!小十郎はここにおります!」
熱いものにでも触れたように、ぴくりと小さく背が震えた。
「梵天丸様…!」
もう一度呼びかける。ゆっくりと首を持ち上げて、光で出来た花びらが舞う赤い瞳がこちらを仰ぎ見た。縋りつくように梵天丸の手が、小十郎の裾を引っ張った。
「梵天丸様」
「……景綱?」
見開かれた瞳が、大きく揺れてからぴたりと焦点を合わせた。いつも通りの茶色っぽい黒眼に戻っている。
ずるりと手が落ちて、放心したようになる身体を支える腕に力を入れると、苦しいというように細い身体を捩って逃れようとする。一層強く掴めば、痛いと文句が返ってきた。
それでようやく掴んでいた手を離した。梵天丸は腕をさすりながらぎろりと睨みつけてくる。
「あの、大丈夫ですか。気分は悪くありませんか?」
「……大事ない」
「ですが」
「たまにあることだ。どのみち、お前に何ができるわけでもないだろう」
それを言われると反論も出来ない。ふいとそっぽを向く。
こういう臍の曲げ方をしているときが一番子供らしく思えるのも妙な話だ。
そう思いながら、一人ではろくに着替えもできない主のために用意した着物と袴を着せる。
梵天丸を見てたまに考えるのが、閉じられた扉だ。気が向いたときにそっと隙間を開けるだけの。
それは小十郎の心に、刺青のように暗い予感を植えつけた。
この子供は、人になることを恐れているんじゃないだろうか。




虎哉和尚の寺から米沢城へと戻ったその翌日、梵天丸が熱を出した。
いつも通りに朝梵天丸の部屋に行こうとしたところで、輝宗の小姓に呼び止められことの次第を聞かされた。
疲れているだろうから今日は剣や弓の稽古はせず、虎哉和尚のもとで学んだばかりの仏教の教えについてもう少し勉強するつもりだったが、書物を置いて最上部にある梵天丸の部屋を訪れた。
普段は食事を運んでくる女中や、身の回りの世話をする小姓以外誰も寄り付きもしない場所だが、さすがに病のときばかりは傍に医師が控えていた。
病状を聞けば単なる風邪のようだ。夜半に薄い夜着のままつめたい正堂にいたのがよくなかったのかもしれない。
「失礼致します、梵天丸様」
布団に寝かされた梵天丸は、熱のせいで頬がうっすらと薄紅色に上気していた。
口を開くのも億劫なのか、だるそうな眼差しだけをちらりと小十郎に向ける。一応遠慮して部屋の入り口から挨拶だけして帰るつもりだったが、布団から細い手が伸びて手招くので枕元へと進み出た。
正座をした膝に添えられた手を握って、ゆっくりと布団の中に引き込まれる。
いつもはひんやりとしている指が、今日はむき出しの生命を伝えるように熱い。
そういえば、と思い出す。自分も梵天丸の年くらいに一度酷い熱を出して寝込んだことがあった。
まだ養家で跡目として遇されていた頃だから、養母が手ずから粥などを用意して甲斐甲斐しく世話をやいてもらったものだ。
最終的に養母には実子ができ、殆ど邪魔者扱いされる形で実家へと戻った経緯があるせいでお互いに疎遠になってしまったが、あのときの記憶は少しばかりのやるせない感情と一緒に温かく残っている。
梵天丸は何も口にすることなく、そのまま目を閉じてしまう。
汗で張り付いた髪の毛を額に掻き揚げてやる。政務の忙しい輝宗にしろ、息子を毛嫌いしている義姫にしろ、ここを訪れたりすることはないのだろう。梵天丸は自分一人で治すしかない。
手負いの獣が身を潜めるようにして、眠る。ひたすら耐え、癒えるまで時が過ぎるのを待つ。
不安なほどか細い指。これを振り払えないことなどお見通しの上での所業だとは分かっても、口にはできない強情さはいじらしくさえ思える。
扉の向こう側からおずおずと差し出されるだけであっても、離さなければそれでいい。
熱で寝苦しいのか、梵天丸は半刻おきに目を覚ました。小十郎はその度に水を飲ませ、汗のかいた身体を甲斐甲斐しく拭ってやる。
本人は嫌がったが、何度も匙を往復させながらうすい粥で食事もとらせた。ただでさえ細い身体だ。熱で弱ったところに食事をしないと一気に体力を奪われてしまう。
枕元にいる間、考えるのは主君のことばかりだった。
それもそうだ。梵天丸の傅役となってから小十郎の日々は、梵天丸を中心に回っていた。それは空っぽだった入れ物に水を注ぐように簡単なことだっただろう。
夕刻を過ぎても、誰も部屋にやってくるものはいなかった。
できれば一晩でも付き合いたいところだったが、虎哉和尚の寺でもないのに家臣の身分で床は並べられない。
一夜明け梵天丸の部屋へ向かう前に朝餉をとっていたところで、意外な名前が耳に入ってきた。
小十郎とそれほど年齢も身分の変わらないであろう青年二人が、やはり同じように奉公に向かう前に朝餉をとるべく連れ立ってやってきた会話の中に、梵天丸様とはっきり聞こえたのだ。
忌み子と嫌われ、普段はいないもののように扱われる梵天丸が人の口の端に上るのは珍しい。
何となく興味を引かれて、そ知らぬふりで粥をかき込みながら耳をそばだてる。
「この間、庭で竺丸様が梵天丸様と会ってたって言っただろ」
「お東様がすぐ祈祷師呼んだっていうあの騒ぎの発端だろ」
「そうそう。実はな、あの時竺丸様にお付きだった太助って奴、昨日死んだんだってよ」
「暇乞いして実家に帰ったって聞いたぜ」
「そんなの表向きだけに決まってるだろ」
一応声を顰めているつもりらしいが、野太い男の声はよく通る。
どこかで聞いた名前だなと思い出そうとしている間にも、男たちの噂話は続いた。
「別に何の病もなかったのに、いきなり血を吐いて倒れたって。鬼庭様の指示でその場にいた奴にはかなり口止めしたみたいだけどな」
「怖えなー。どっかから流行り病でももらってきたのかよ」
「分からねえけど、あいつ元々梵天丸様の傅役にって話をあの目を見て断ったらしいからな。呪い殺されたって噂だぜ」
思い出した。梵天丸が寺で死ぬと言っていた者の名前だ。本当だったのか。
――あれからたった一日で、命を落とした。
ごとりと机の上に空になった茶碗を置く。響いて聞こえたが気のせいだったのかもしれない。
「本当かよ。でも確か最近、新しい傅役がついたって話じゃなかったか」
「あー、片倉だっけ」
「片倉?どこの家だよそりゃ」
「何でも梵天丸様の乳母の義理の兄弟らしいけどな」
「運がねえなあ。そいつもその内呪い殺されるんじゃねえ?」
ははは、という笑い声を聞いた瞬間、小十郎の中の何かがぶちりと切れた。
「うるっせえ!!」
部屋中に響き渡るほどの音量で小十郎が怒声を上げると、噂話をしていた当人だけでなくその場にいた誰もが目を丸くして押し黙った。静まり返った空気なんてまるで気にせず立ち上がり、男たちを見下ろす。
「男が呪いだなんてくだらねえことぎゃーぎゃー言ってるんじゃねえよ」
「な、何だよてめえ!」
「俺か?片倉小十郎だ」
「か、片倉……」
今しがた話題に出た梵天丸の傅役だと気付いたらしく、一人が怯えたように後ずさるがもう一人は気丈な態度を崩さない。
「これくらいの噂してるのは俺らだけじゃねえだろう!」
「じゃあ聞くが、てめえは一度でも梵天丸様に直接会ったことがあるのか?」
「会ったら死ぬかもしれねえのに会う馬鹿がいるかよ」
悔しい。腹立たしい。どうして誰も彼もが梵天丸に呪いを降りかけようとする。
以前はただその感情のまま、相手に怒りをぶつければ良かった。
けれど、梵天丸が語った呪が本物であるなら、土地の災厄が人に降りかかっていることになる。
梵天丸自身に責があることじゃないが無関係とはいえないだけに、目の前に暗い幕でも落とされていくようなやり場のない怒りを腹に溜めるしかなくて。
小十郎の沈黙をどう受け取ったのか、へへと相手はまた意味のない笑いを浮かべた。
ぐっと拳に力を込めて、低く声を絞り出す。何も出来ない己の無力さが一番、苛立った。
「俺は呪いなんかじゃ死なねえ。十年後、俺がまだ生きてたら今の言葉、取り消せ」
何かに急き立てられるようにその場を離れた。梵天丸の部屋には行かずに城下を目指す。
頭は水に浸かったように冷えているのに、握りこんだ拳から身体の芯に火でもついたように、誰でもいいから殴りかかってしまいたくなる。
こんな酷く残酷で、嫌な気分になるのは久しぶりだった。
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