有邪気/7
簡単な夕餉を整えおえた頃には、もう黄昏時になっていた。
まるで一日の終わりを乱暴に刺し貫くように、濃密な緋色の陽光がめいっぱい地上を照らし出している。
うすく刷毛で引いたように伸びる雲は橙から紫に染まり、どうしてか郷愁めいた香りを帯びている。
同じものであるのに白く昇り立つ朝陽に比べて、赤く燃える夕陽は荘厳でほんの少し淋しげだ。油断をしたらもう姿を変えて、影から夜へと見る人を引きずりこんでゆく。
まだ若いだけに一日の有難みなんてものは感じることもない。もし自分の死ぬときが分かっていればそういうこともあるのかもしれないが、明日があることを当たり前だと疑いもしなかった。
それは、傲慢さゆえの勘違いなのかもしれないと小十郎は思い始めていた。
「梵天丸様、夕餉の支度ができました」
厨から庭に下りてみれば、梵天丸は裸足で抜け出したままじっと沈みゆく夕陽を見つめていた。他の誰かが見ているものよりも、はるかに遠くを見つめる目つきで。世界を見定めるように。
呼びかけてもとりわけ反応を返さないので、静かに近付いて二歩ほど後ろで立ち止まる。
長い睫毛が白い横顔に濃い影を落とし、何かに向かい合うように立つその孤独な姿は、この年齢の子供がするには厳しく愚かにさえ思える。
でも梵天丸は、こわいくらい真剣に一人でその孤独を完遂しようとしている。
さきほど虎哉和尚から聞かされた話が頭をよぎった。
伊達家にかけられた呪と言った。正しく言うならば、伊達家の治める土地にかけられた呪である。
信心が薄いとはいっても神職の家の端くれに生まれた人間だ。呪がなんたるかくらいは知っている。
恨み妬み憎悪など人が生み出した負の思念が、悪意を持って人や土地やモノにかかること。
人間大なり小なり不平不満を持っているものだが、あまりに大きくなったそれは災厄へと姿を変える。
和尚自身も全てを知っているわけではないが、梵天丸は人の子でありながらその呪を宿して生まれてきたのだという。
それがどういうことなのか、最後までは語られなかった。自分で梵天丸に聞けということなのだろう。
「梵天丸様、陽が沈めばここも冷えます。中へお戻りください」
放っておけば夜になるのを見届けるまで動き出しそうにない背中に、やや強めに声をかけた。
これで駄目なら実力行使だな、と最近手の抜きどころと技の使いどころを覚えた小十郎は密かに決める。
「……あいつ、死ぬぞ」
「は?」
何の脈絡もなく、唐突な台詞に間抜けな声が漏れた。
「竺丸だ」
「! 何をいきなり縁起でもないことをおっしゃる」
家督という唯一絶対のものを巡って兄弟が対立することは珍しくない。その中で謀略をつくすのも臣下の務めだ。最悪相手を屠るという選択肢がとられることだってある。
だが輝宗は持病もなく当主として充分に乗っているし、梵天丸も竺丸もいまだ幼い。家督相続の話が出るのは早くても梵天丸が元服する頃だろうから、まだ四、五年はあるはずだ。
それに、母親のことがあるだけに複雑な感情は抱いても、見たところ兄弟仲がさほど悪いとも思えなかった。
まさか自分の知らないところで、すでに何か始まっていたのか。
「安心しろ。今日明日という話ではない。だが、あいつは死ぬ」
書物をそのまま読み上げるような平坦な口調に、憐憫の響きは一切なかった。
梵天丸は、何を知っている。何を、見ている。
ゆっくりと振り返った梵天丸の表情は逆光のせいでよく見えなかった。
ただ、瞳が異様なほどに紅く光っていた。
夕日を反射しているのだろうか。違う、黒い瞳の奥から何か滲み出して来るような紅色。
隻眼のせいで半分になるのではなく、本来二つあれば分散される力を凝縮して集めたように強く。
ぞわりと全身の毛が逆立つのが分かった。
これは、何モノだ?
「どうした、いつも以上に間の抜けた顔をしてるぞ」
最後の一条の火矢まで山の端に沈み、黒い羽を携えた夜が集まると薄闇の中ではっきりと見えた。
いつか見せた、少し甘くて毒みたいな笑みを浮かべていた。
一度だけ見せたあの花のような微笑みとは、根っこからして違う。
はじめて、虎哉や義姫の気持ちが分かったような気がした。
臓腑のそこから湧き上がるのは、動物が天敵を前にしたときのような本能的な恐怖だった。
理由は分からない。だが、懐かれているような気がしていたのはこちらの思いあがりで、梵天丸はいつでも背中を向けて立ち去れる場所からじっと小十郎を待っていたのだ。きっと最初から。
より強い獣が、弱い獣が周囲にいることを気にも留めない残酷さで。
ごくりと喉が鳴る。
「行ってよいぞ。俺もすぐに戻る」
「いえ。梵天丸様にお供します」
震えそうになる身体を押さえ込んで留まったのは半分は責任感で、もう残り半分は意地だった。
梵天丸はそれだけでもう何もかもを分かったように、優しく囁いた。
「無理をせずとも良い。恐れられるのも離れられるのも慣れてる」
とん、と手で腕を押されるようにして促される。
少しひんやりと冷たくて、頼りないほど小さな手。
剣を握るしか能のない小十郎の手を、大きなものを掴み、与え、守る手だと言い切った。
途端にさきほど覚えたはずの恐怖がすっと姿を消して、奇妙な焦りにも似た切なさが込みあがってくる。
自分がいなくなった後、裸足で一人戻ってくる梵天丸のことを思うとかさかさと心がざらつく感じがする。
孤独を淋しいと思わない、梵天丸が淋しかった。
同じように思えるが、孤独と淋しさは等しくはない。孤独とはただ一人でいる事象。淋しさは、一人じゃないことを知っている気持ち。
これも独り善がりな傲慢なのかもしれないが、どれだけ沢山のことを知っていても自分の感情を知らないままに梵天丸が大人になっていくのは、とてつもなく不憫なことのような気がした。
放れた手を掴み直して強く握り返すと、逆に驚いたように梵天丸の身体が跳ねた。
「こんなに冷えて」
出会ってから三ヶ月が経っていた。短い夏も終わりに近付き、奥州はこれから耐え忍ぶ季節になる。
日が陰れば温度は下がり、秋の冷たい風が容赦なく山間から吹き付けてくる。
自分は平気だが、半刻は外に出ていた梵天丸の手はすっかり冷え切っていた。
「……放せ」
手を繋いだまま半ば引き摺るようにして堂の中へと歩き始める。
無表情ながら、眉間にかすかなしわが寄せられたことで梵天丸の困惑具合が推し量れた。
もしも、自分が爪の垢ほどでも梵天丸にとって特別であるとすれば、それは命以外何も持っていなかったということだろう。
守るべき家も守るべき地位もなく、退屈を持て余していた小十郎にとって梵天丸という風変わりな子供は、珍しい玩具と変わりがなかった。
仮に不興を買ったところで失うものはさほど多くはない。だから遠慮などしなかった。殊更に機嫌をとることもしなければ、無礼な振る舞いだってお構いなし。梵天丸にしてみれば好奇心をそそられる存在だったはずだ。
お互いの利害は、予期せぬところで一致していたわけだ。
ただ人生経験が浅い分だけ、梵天丸は些細なことでも自分の動揺についていけない。
素っ気ない態度は、その現れのような気がする。
「嫌ですか?」
「無礼であろう」
「そうですね。でもそれは理屈であって、理由ではありませんよ」
屁理屈だが正論だ。こんな言葉に何の価値もないことは百も承知。
庭を突っ切って石段のところまで来ると、梵天丸の軽い身体を抱き上げる。この動作にも慣れた。いつの間にか文句は言われなくなっていた。
それはわずかばかり小十郎に対して警戒心を解いているのと、いざとなればどうにでもできるという余裕と、本人にそんな気などまるでない甘えだと思っている。
甘やかすのも甘えるのも下手で、ちっとも綺麗じゃないけれど、笑い飛ばす気にはなれなかった。
それくらい、真剣で切実だったから。




梵天丸の隣に座り、虎哉和尚と向かい合うような形で夕餉の時間がはじまった。
和やかというにはぎこちない雰囲気ではあったが、それを気にするような繊細な神経の面子でもない。
健康体の成人男子である小十郎にはやや物足りなかったが、禅寺にしては最高級ともいえる質と量だ。
「梵天丸様、そちらの和え物も召し上がってください」
「……茸は嫌いだといっただろう」
「大丈夫です。臭くないようにしてありますし、苦くないですから」
「景綱が梵天丸様のために試行錯誤を重ねて作ったものでございますよ。お口に合わなければ本人に責任を取らせれば宜しい」
臣下である小十郎が主君の梵天丸と膳を並べるなど城ではまずないことだ。
この機会に少しでも偏食を直せないかと考えた末、自ら包丁を握りどうにか拵えた一品だった。
所詮素人料理で、城の料理人に比べれば味も彩りも取るに足らないものかもしれないが、不特定多数の誰かのためにではなく梵天丸のために彼の嫌いとする要素を極力少なく考えたものだ。
虎哉和尚の助け舟も合って、梵天丸は逡巡した後そろりと箸を伸ばした。しかめ面で口に運び、咀嚼する様子を横目で盗み見る。
何も感想はもらさなかったが、綺麗に椀の残りを平らげたところを見れば及第点はもらえたということだろう。
食後に今日の書物についていくらか話をしていれば、すぐに夜は更けた。
「景綱の床はどちらに用意致しますかな」
「俺と同じ部屋で良いぞ」
「そう言われると思いました。いつものところに用意しておりますので、狭苦しいところですがゆっくりとおやすみください」
「和尚、家臣が主君と枕を並べるなど」
「景綱」
食事までならまだしも、同じ部屋で休むとなればまた話は別だ。こんな山奥とはいえ番をするものもいないので、殿位をするくらいの気持ちであったのだ。
だが当の梵天丸自身がその反論を抑える。色素の薄い肌が、灯籠の火に照らされて妖しく色付いている。隻眼が、焔のためか内側の感情のためか揺らいでいた。
「寝床はそのままで良い。殿位もいらぬ。こんな道もままならぬ場所まで襲いに来るのであれば、いくらでも俺を殺す好機などある」
「ですが」
「お前に話がある。お前も俺に話があるだろう」
虎哉和尚が小さく頷いた。
小十郎の中で日に日に大きくなってゆく梵天丸の存在。もともと腹に溜め込むのは苦手だ。
決別を先延ばしにしていいはずがなかった。
広くはない部屋に二組敷かれた布団に、女と寝所を供にしたときでも感じたことのないほど鼓動が上がった。
恐怖とは違う。当たり前だが興奮しているのでもない。強いて言うなら、期待と不安が混ざり合ったもの。
梵天丸を持参した夜着に着替えさせ、自分も単衣に着替えている途中で、布団の上でちょこんと正座をしていた梵天丸が口を開いた。
「化物の正体が分かったか」
ぎくりとして一瞬、手が止まる。そそくさと帯を結んで向かい合うように隣の布団の上に座った。
なんだか変な構図だ。
「お前は分かりやすいからな。虎哉に聞いたのだろう――俺が、伊達の呪であることを」
――かつてこの国には八百万の神がいた。神が土地を統べていたときはそこに呪は存在しなかった。
神が、人の願いや思いを叶えて土地に止まることを防いでいたからだ。
しかしやがて神々は人の前から姿を消し、人の思いは呪となって現世に止まるようになった。
人の生きる場所、血の流れる場所、誰かの思いの存在する場所には必ず呪が生まれる。
とりわけ生き死にに関わることは力も強くなる。そうして土地には呪が溜まる。
普通、どの国にあっても年に何度かの神事で土地の厄を祓い、それで呪を鎮めて来た。
ところが応仁の乱以降各地に広まる戦の火は治まる場所を場所を知らず、もはや人の手を離れ一人歩きしているような状態になりつつある。
戦火は戦火を呼び、呪は呪を呼んだ。
魂鎮めと祓えは領主がその土地を代表して行なうが、梵天丸の父輝宗の代になって急激に奥州は乱れた。
もはや人の力で抑えきれなくなった厄は、本来輝宗が負うべきものであったはずだが、どういう力が作用したものかそれは母義姫の胎内にいた梵天丸へと降りかかった。
いくら強い生命力をもつ赤子とはいえ、祓いきれぬほどの呪を受ければ贄となって死産するのが普通である。
ここで、梵天丸が只人でなかったために予想もしない事態へと話が変容してしまったのだ。
義姫の見たという夢によれば、老僧の導きによって神の宿る依代として梵天丸は宿った。
即ち、土地の呪を受けながら土地神としての力も併せ持った存在としてこの世に生まれてきた。
はっきりと確かめたわけではないが、尾張の織田信長もおそらく梵天丸同様に土地の呪とのことだ。
探せば、まだ他にもいるかもしれない。
戦国というこの時代が、この地に生んだモノが梵天丸なのである。
伊達家に災厄をもたらすのも、伊達家の災厄をはらうのも梵天丸という土地神の依代を通して。
だから梵天丸は死ぬことも生きることもできない。
誰にも頼ることもできず、誰にも預けることもできず、自分の感情すら差し挟む余地もなく。
どこまでが真実で、どこからが虚構なのか確かめる術はない。
小十郎にとって真実なのは、輝宗も義姫も虎哉和尚も梵天丸自身もそれを真実として受け止めている事実だ。
「でも、実際問題俺は怨霊も物の怪も見たことがありません。梵天丸様自身が呪だというのならその災厄はどこへかかっているんですか」
もっともな疑問である。呪がある、だけではそれは刀がそこにあるというのと変わらない。
それが意思を持って何かに向けられることで、初めて災厄となり得るのだ。
梵天丸は問いの答えがそこに書いているかのように、情熱的にすら思える眼差しで小十郎を見つめ返していた。やがてぽつりと口を開いた。
「……人だ」
「どういうことですか?」
「人が死ぬ。俺が厄を抑えきれなくなったとき、ぼんやりと見えないはずの右目に何か映る。幼い頃は何か分からなかった。だけど今なら分かる。あれは、死んでいくものたちの苦悶の表情だ」
そこでようやく合点がいった。竺丸に会って以来、梵天丸の態度がおかしかった訳。
弟の死を、彼は見ていたのだ。
「本当なら傅役を申し付けた時点で全てを話しておくべきだったのだろう。だが、父上は俺が呪であることを知りながらなお、伊達家の人間として生きることを望んでいる。だから話せなかった。今更騙まし討ちのように告げたことはすまないと思う。もしお前が望むなら、今からでも父上の小姓に戻してやる」
ただ生かすだけなら、名を与え愛情を注ぎ育てる必要などない。
周囲の人間には死産したとでも告げて、どこかに幽閉して土地神と呪を治めさせればいい。
それでも輝宗は、生まれてきた我が子をモノではなく人として育てようとしているのだ。
母親に似た烈々としたところばかりが目に付いてしまうが、そういう清浄さは確かに梵天丸にもある。
騙されたと憤る気持ちは沸き起こらなかった。
「そんな、情けないことを仰らないでください。あなたが何者であろうと、俺は梵天丸様の傅役です」
「俺がどういうモノなのか、お前はまだ分かってない。竺丸と一緒にいた供の中に、背が低くて馬の巧みの扱いが得手な太助という者がいる。あやつ、もう数日のうちに死ぬだろう」
「……それは」
「勘違いをするな。俺は何もせぬ。だがこれは祈祷師どものくだらない託宣じゃない。俺が人であるか化物であるか。何者であるかは、お前自身が判断すればよい」
話は終いだというように、梵天丸は夜具を捲りあげてその中へ身体を滑り込ませた。
種が明かされれば呆気ないという気すらしたが、まだどこかすっきりしない部分があるのも事実で、小十郎はまだとても眠るような気分にはなれなかった。
しばらく今日一日の話を反芻しながら頭を整理する。
珍しく迷っていた。このまま梵天丸の傍に止まり続けるかどうか。恐れたのではない。自分の手には余るかもしれない。実際問題、今だって梵天丸にとっての自分が何なのかよく分からない。
「ひとつ、お伺いしても宜しいか」
眠っていないのは分かっていた。答えがなければ別にいいというくらいの気持ちで、こちらに背を向けた梵天丸に声をかければ、思いのほか明瞭な返事が戻ってきた。
「何だ」
「俺の死ぬときもあなたには見えたんですか?」
「いや……誰も彼も分かるわけじゃない。老いや病など自然の定めで死にゆく者は見えない。俺が見るのは戦や殺しみたいに自然ならざる死に方をする場合だけだ」
今なら、梵天丸の表情が分かると思った。
少しだけ戸惑いをにじませて、でも厳しいものじゃない目で遠くを見て口元をぎゅっと引き結んで。
無意識に手を伸ばしていた。
頭を撫で、まだゆるやかな曲線を描く肩をたどり、手首を掴んで自分のほうへと引き寄せた。
梵天丸がゆっくりと身体をこちらに反転させた。赤子が目を覚まして泣き出す直前のような鮮やかな目でこちらを見据えている。何かを探ろうとするのではなく、この先に何が起こるのかを見定めるみたいに。
どうしてだろう。梵天丸と一緒にいるとこの先一秒もないような、衝動的な心地に襲われることがある。
それがただの錯覚であることは分かっていて、頭の冷静な場所では途方に暮れているのに止められない。
それでも、知らなかった己の感情に翻弄されながらも新しい景色へと心は引き寄せられる。
「……あと少しだけ、こうしても宜しいですか」
背中に手を回して抱きしめるようにすると、しばらく硬直した後でおずおずとだが胸に顔をくっつけてきた。
護国と魂鎮。そのために生かされている子供。
一緒にいると、益体もなく胸の奥がざわめいた。
それを好奇心だと思っていたのは、多分間違いだったのだろう。
時間を重ねたって、相手を理解しようと努力したところで、絆が結ばれるなんてただの思い違いなのかもしれない。所詮自分たちは遠い他人同士。
それでも考えてしまった。
つまらない感傷だと知りつつ、考えずにはいられなかった。
このまま、このひとを連れてどこかへ行ってしまえればいいのに。
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