有邪気/6
弟と会ってから梵天丸は少し様子がおかしかった。
普段から必要最低限以外のことは話さないが、話しかければ返事はせずとも耳を傾けていることが分かる程度の反応は返すのに、心ここにあらずといった調子で虚空を見つめていることがある。
だが本当に意識を飛ばしてしまっているわけではなく、その時小十郎が話したことはちゃんと覚えている。
強いて言うなら、自分の内側のどこか一点に集中しているといった感覚か。
小十郎なら無心に剣を振るっているとき、周囲がひどく遠く思えるあの感じ。
梵天丸の怪我は思ったほど酷くはなかったが、大事をとって一週間ばかり身体を動かす稽古は控えることになった。手首と足首には白い包帯が巻かれている。
肝心の梵天丸がそんな様子なので、仕方なしに小十郎も部屋の隅で大人しく書物を読んだりしている。
今日など朝の挨拶以外一言もしゃべっていない。出会ったばかりの頃に戻ったような規視感。
違うのは、最初はただ不思議だったその行動を面白がるのではなく、必要以上に意識してその手の内を想像してしまう自分の心境だ。子供相手に何をやってるんだとため息すらつきたくなる。
我ながら健全じゃない。
腹の底に澱のように溜まり続けるものを何とかしたくて、昨晩は梵天丸の傍を辞した後久方ぶりに城下街の遊郭を訪れた。
先日のことがあったので馴染みの店ではなく、はじめての娼妓と床を共にしたわけだが、若いので刺激されれば熱くなるし出せば身体はいくらかすっきりしたが、気持ちは欠片も昂ぶらなかった。
以前出入りしていた遊郭でもそうだった。他の男たちはお気に入りの娼妓を見つけ、行為そのものだけでなく彼女たちと会うこと自体に夢中になっていた。
遊郭の女たちは皆優しいし、男の悦ばせ方も心得ている。ただの遊戯だと思えばもう少し本来の楽しみを見出してもよさそうなものなのに、それを楽しみにできるとはとても思えなかった。
小十郎だってその手の欲望は人並みにあるし、嫌いじゃない。でも彼女たちは空虚な優しさを与えるばかりで、梵天丸のように気を抜いたら終わりみたいな重苦しい眼差しを向けては来ない。
多くの男にとって趣味の違いはあっても、自分に尽くしてくれる優しい女が理想だからなのかもしれないと冷静に考える反面、そんな生ぬるいものじゃ物足りないと思っている。
容赦なく氷塊を投げつけてくるようなあの目の激しさに、困惑と同時に火傷のような昏い興奮もあった。
傷つけるよりも舐めあうほうがよほど簡単なのに、梵天丸は決してそれをしない。
「梵天丸様、本日はこれにて失礼させていただきます。明日はいつも通りの時間に参ります」
日が暮れたので、夕餉の膳が運ばれる前に辞そうと退出の意を述べる。
どうせ反応はないだろうと形ばかり平伏してから襖に手をかけると、朝から一度も口を開かなかった相手の声を半日ぶりに聞いた。
「明日は朝から泊まりで出かけるからお前も用意をしておけ」
「どこへ出かけられるので?」
「うるさい偏屈爺のところだ」
微かにしかめ面をしたところで、侍女が食事の膳を運んできた。
下がれと促されて訳の分からないまま部屋を出た。
これからあの薄暗い部屋で一人冷たくなった膳を食べるのだと思うと、梵天丸の偏食が治るわけもないなと考えながら。
翌朝、普段より早く部屋を訪れると梵天丸は小姓に着替えを手伝わせている最中だった。
用意が整うまで廊下に控えていようとしたら、丁度いいとか何とか着替えを手伝えと言ってきた。
つい最近まで小姓をしていた身であるし、小十郎自身に異論はなかったのだが、慌てたのは手伝いをしていた小姓のほうだ。これまでも何人もの小姓や侍女が傍仕えを辞している。
何か落ち度があったかと、どちらかといえば梵天丸ではなく輝宗に対して己の立場を危うくされるのではないかと心配している。
「俺は景綱に話があるのだ。お前が耳に入れるようなことではない。父上には何も言わぬから」
「御前、し、失礼致します」
猫なで声で労わるように声をかけると、あからさまに安堵した表情を浮かべさっと部屋から出て行く。
足音がしなくなった頃合を見計らって、まだ着物をつけただけの中途半端な恰好の梵天丸に寄った。袴を穿かせながら声をかける。
「それで、梵天丸様。俺に一体どんなお話があるのですか?」
「ない」
「だと思いました。あの者明日から来ないかもしれませんね」
「構わぬ。いつも何か恐れるようにして入ってくるのだ。どのみち長続きはしないだろう」
「……そうですか」
小十郎はそれ以上返すべき言葉を持たなかった。
自らが忌まれる存在であること。それをおかしいとも思わず梵天丸が受け入れていること。
傍にいる時間が長くなり何かを分かったような気になっていたけれど、いまだ梵天丸が心の奥底に隠している本音なんて尻尾すらつかめていない。
傅役である小十郎自身とて例外ではない。知恵熱にも似た意地と意地の張り合いが、自分たちを危うい均衡で繋いでいるのだ。
着物を整え終えると右目の包帯を取り替えにかかる。梵天丸は目を閉じてされるがままになっている。
もしも今小十郎が乱心を起こして首をとられても文句を言えないほどの無防備さで。これが多少なりとも心を許した証ならばいいが、諦めかもしれないという疑念はどこかにあった。
出会った頃、どのみち長生きはしないとはどういう思いで口にしたのだろうか。
もともとお互い多弁ではないうえ、梵天丸は自分からは殆ど何も喋らないので、小十郎が黙ると自然と沈黙は長くなる。長くなるほど一言が短くなる。短くなるほど、切実になる。
言葉少なに準備を整えると厩へと向かった。
聞けば月に数度、禅寺の住職の下へ勉学のために赴いているのだという。傅役である小十郎も当然ながら付き従って行くことになる。
「父上の命だからな。行かねばならんのだ」
本来であれば如何様な事情があろうとも臣が向かうべきところを、わざわざこちらから出向くとは確かに偏屈な人物なのだろう。
気乗りしない様子でそういうと、身軽な動作で馬に乗る。今までも何度か遠駆けに供したことがあるが、小柄ながら不似合いなほどに大きな馬を相手に、馬を操る技術はなかなかたいしたものである。
しかし小十郎は自分の愛馬を引きながら周囲を見渡して、嫌な予感を覚えた。
「供をするのは俺だけですか?」
「ああ。何せ信じられん山奥だからな。人を連れて行くとそれだけ足が遅くなる」
信じられないのは、こんな無防備に城主の息子を旅させる環境だ。
いくら領地内とはいってもいまだ相馬氏との戦いは決着を見ないし、寒冷地にあって裕福とはいえない伊達領では盗賊が出ることだって珍しくはない。普通、もう少しそれらしい付き人をつけるだろう。
そう進言すれば、必要ないとばっさり切って捨てられる。
「別に今までも行きと帰りだけかたちばかりの目付け役が付いてきただけだ」
「しかし、万が一物取りでも現れたとしたら」
「そのためにお前がいるんだろう。それに太鼓もちが何人付いてきたところで同じじゃなかったか。なあ?」
先日小十郎が言った言葉を覚えて要所要所で使ってくるあたり、性質の悪い性格の歪み方をしている。
そのくせ時折ひどく素直な一面も見せたりするので、扱いあぐねることもしばしばだ。さきほどの一件のように身の回りの世話をする小姓や侍女たちが居付かないのも頷ける。
一貫して言えるのは、それでも梵天丸は誰かを貶めようという浅ましさとは無縁だ。自らを化物呼ばわりし、他人に対する気遣いなどまるでできないのに、言葉や態度は清潔そのもの。
ただ自分の信じたことをやりぬくだけの決意と努力を、微塵の矛盾もなく納めて。
「俺の傍から離れないでくださいよ」
馬にまたがり、正面を見据えた梵天丸に並んだ。まっすぐな瞳の中に、厳しくて物憂げな光が見える。
でもそれは小十郎にはどうすることもできないのだということも知っていた。




山の麓にある簡素な建物が見えてきた。
寺というにはお粗末な建物だが、信仰の場としてというよりも修行の場としての用が成せればいいのだろう。
「よくお越しくださいました、梵天丸様」
偏屈爺という言葉から老人を想像していたのが、出迎えたのは四十代半ばの壮年の住職だった。
丁寧な物腰ではあるが、どこか油断ならない老獪さも抱かせた。こんな外れに寺社を構えているところからしても間違いなく変わり者に分類できる。類は友を呼ぶとはどこの格言だったか。
しかし輝宗の信用した人物となればただの偏屈爺などではないはずだ。
梵天丸に挨拶をしながらも、背後にいる見慣れぬ男に注意を払うことも忘れておらず、瞬間的に交わった視線からも自分があまり歓迎されていないことを知った。
「儂は虎哉宋乙という。話は聞いておる。お前が梵天丸様の傅役だな」
「はい。片倉小十郎景綱です。ご指導宜しくお願いいたします」
「景綱よ、ただの僧が教えることなど何もありはせんよ。お前が何かを掴み取れるかどうかだな」
いきなり禅問答のようなことを投げかけられ、面食らう小十郎に愉快そうに目を細める。
試されたと分かったときには、踵を返して堂の中へと足を進めており、梵天丸も小十郎の変化を無表情のまま見つめた後、堂の中へ入る。
クソ坊主めと心の中で暴言を吐き、一番最後に続いた。
臣下が主君と同じ席につくなど、という至極まともなはずの主張はこの寺においては二人とも同じ教え子だと軽く流され、梵天丸と並んで簡単な昼餉を済ませた。
それから一番眠くなる時間にかけて、儒学の教えを受ける。仏教や禅宗については書物ではいくらか勉強していたが、このように実際に教えを請うのははじめてだ。
堂内も見かけどおり粗末な造りだったが、驚くべきはその蔵書の多さだった。
海の向こうの国からもたらされた学問書は小十郎の興味を大いに惹いた。刀と笛とわずかな書物。小十郎が生家から持ってきたものの全てだ。それ以外は何も持っていなかった。
人との繋がりも殆どないに等しく、何をしても何を見ても心動かされることなく、己の存在そのものすら空気のように希薄で、感情は静かに音もなく壊死をはじめていた。
空洞になりかけていた感情の代わりに、家にある本は片っ端から読んで知識とした。別に役にたつことはなかったが、人相手に無駄な暴力に明け暮れているよりはましだという程度の気持ちで。
最初は意味が分からないものでも、何度も繰り返し読んで考えれば見えてくるものがある。
剣と同じだ。身体が戦い方を覚えるように、思考もより広くなる。
今になって思えば、まあ無駄でもなかったのかもしれない。少なくとも梵天丸が抱く疑問に答えるだけの素地は養えたわけで、傅役の面子も立とうというものだ。
「ほお。よく知っておるの」
「まあ一応……」
海の向こうからやってきた書物を広げながら教えを説く虎哉和尚が、感心したように声をあげる。
「見た目は熊か猪かという男だが、学はなかなかのものだ。侮らぬほうが良いぞ」
「猪は余計じゃないですかね」
「なるほど。犬猫ほど可愛げがあるようには見えん。さすが梵天丸様」
横合いからあまり誉めているとは思えない補足が入る。不満を口にすれば、澄ました顔だ。
十歳離れているとはいえ、世を半分捨てて長い和尚から見れば二人ともまだほんの子供に映るのだろう。愉快そうに声をあげて笑った。
虎哉宋乙は確かに普通の禅僧ではなかった。禅の教えを軸にしながらも幅広く兵法や帝王学についても説き、ただ教えるだけでなく自分で考えさせる。
梵天丸も真剣な表情で聞き入り、考えをめぐらせていた。頭の回転も呑み込みもおそろしく早い。
凡人であれば自分のように一から組み立てていく方法で学んでも問題ないが、梵天丸の場合は思考速度が人より抜きん出ているために同じやり方では結論に辿り着く前に飽きてしまう可能性が高い。
だから過程よりも先に答えを考えさせる虎哉の方法は実に梵天丸に向いていた。さすが輝宗の采配である。
そのようにして午後いっぱい勉学に励んだら、腹も減ってきた。
「景綱。夕餉の準備を手伝ってくれ」
書物を片付けると虎哉和尚に呼ばれ、厨へと入った。梵天丸は料理など出来るわけもないが、さすがにこれ以上書物に目を通すのは疲れたのか、庭でも見てると立ちあがる。
あまり遠くに行かれませんようと注意すると、うるさいという視線でこちらを睨んでそのまま出て行ってしまった。
そのやりとりを見ていた虎哉和尚は何がそんなにおかしいのか、またしても笑っている。
「梵天丸様があれほどまでに懐かれるとは、驚いたものだ」
あれで懐いているというのか。
確かにたまには可愛い態度も見せなくもないが、基本的には人を小馬鹿にしたような憎たらしい悪童である。
小十郎自身さほど気が長いほうでもないので、年齢差を差し引いても真っ向から言い返すこともしょっちゅうだ。
傅役として彼の真っ当な人格形成については責任は持たされるわけだから。
それも含めて自分は何かを梵天丸に求めているのだが、いくら禅僧とはいえ今日会ったばかりの人間のそんな思いまで見抜いているわけじゃないだろう。
それとも僅かなやりとりからも、何かしら感ずるところでもあったのだろうか。
「お前は昔から伊達家に?」
「いえ。俺の家は武家でも何でもないんですが、義理の姉が梵天丸様の乳母をやっておりまして、その縁で此度お使えすることになりました」
「お前は変わった男だな。生粋の伊達の武将の子でもあの方にお仕えすることを恐れる者ばかりであったというのに、普通にあの方のお傍におれるとは」
「そりゃちょっと、いや、随分変わったところのあるお方だとは思いますけど子どもは子どもですよ」
それは偽らざる本音だ。
警戒心の強い獣が、手ずから餌を与え続ければ最初は噛み付かれても、次第に慣れて餌を食べるようになるのと同じ。忌み子だのなんだとの、あの目に対する己の恐怖心に言い訳をつけているだけではないのか。
それに、ただ可愛がられているだけの子供なら傅役など引き受けなかった。
今はもう少し別の方向へ傾いているが、最初は退屈を紛らわすには丁度よいくらいだとまで思っていたのだ。
小十郎のはっきりとした答えに、慣れた手つきで山菜を刻んでいた虎哉和尚は少し手を止めた。
「怖いもの知らずと言われはしなかったかの」
「言われました」
「景綱よ。儂はな、梵天丸様が怖い」
「怖い……ですか?」
さきほど梵天丸と一緒にいるときは、そんな素振りは片鱗すらうかがえなかったが、冗談を言っているのではなさそうだった。
次の言葉を躊躇った時間の長さに、心の底から畏怖しているのだと知れる。
「あの方は、本当によく物を見ておられる。世の理から人の欲、果てはこの世のものならざるものまでな」
「この世のものならざるものですか……それは一体」
虎哉和尚は問いには答えず含みのある顔をして、再びまな板に向かった。
何かが引っ掛かる。小十郎の中のけものの勘が声をひそめて耳元へと何かを告げようとしている。
そうだ、似ているのだ。あのときの義姫と。
よくよく考えてみれば、梵天丸をとりまく環境はどこかおかしい。
本人にしてみれば人生を左右するほどの事柄だろうし、周囲だって期待をかけていた嫡子が病で片方失明したとなれば落胆はあるだろうが、大の大人がこぞって隻眼をそこまで恐れるのは解せない。
梵天丸は、まだ何かを自分に隠している。
それこそ実の母が本気で恐れるような何かを。
手元にあるすり鉢の胡麻をぎりぎりと力任せにすりながら考えたところで、答えが出てくるはずもなかった。
「教えてください。それは、梵天丸様がこちら側とか言っていたことと関係あるのですか」
虎哉和尚は黙ったまま最後まで刻む。
「……あの方は伊達家にかけられた呪そのものだ」
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