昼間でもしんと薄暗く細い階段を最上段まで上りきり、雨天も晴天も関係なくぴたりと閉ざされている木製の扉に手をかけようとした。 しかし小十郎が開けるよりも早く内側から開かれ、足早に出てきた人物とあやうくぶつかりそうになる。反射的に身を引いたので衝突は避けられたが、思い切り踏みつけた床が派手な音を立てた。 部屋の主ではなかった。 見たことはない。年の頃なら三十代前半。髪が長く、目鼻立ちのはっきりした非常に美しい女性だ。 相手も同じように驚いたようで、黒い双眸を見開くようにしてこちらを見上げてきた。 細く白い指は仕事で荒れた義姉の手とは大違いに綺麗で、身につけている艶やかな緋色の着物からも相当に身分の高い女性であることが伺える。 だが供の一人もつけず、この部屋へやってくるなど一体誰なのだろうか。 沈黙から先に口を開いたのは相手のほうだった。 道端の石ころでも眺めるような視線で上から下まで小十郎を眺めると、刺々しい声で言った。 「お前、梵天丸の新しい傅役か」 聞き覚えのない声は、あからさまな侮蔑を含んで聞こえた。 この城内で、梵天丸と呼び捨てにできる人間など限られている。 まさか。 「…於東様……?」 義姫。伊達輝宗の妻であり、そして梵天丸の母親。 病を患って右目を失ってからというもの、最初の息子には近寄りもしなくなったというその人か。 返事はなかったが、それが何よりもの肯定になる。 ぱっと見た感じではそれほど顔立ちが似ているとは言い難いが、意志の強そうなところだけは人の良い父ではなくこの人から受け継いだのだろうと推察できる。 血の繋がりというのは不思議だ。容貌に似通った箇所がなくても、第三者から見て確かにそれと分かる何かが繋がれている。本人たちの意思や感情とは関係なく。 梵天丸は母親の話を一度もしたことがない。いくら大人びて見えてもまだ母親を恋しく思って不思議のない年なのに、己の世界の外側の出来事のように無関心を貫く。 いや、あれは無関心ではなく無意識なのかもしれない。 城内にもさきほど会ったような下の人間たちの噂話にはのぼっても、人目のあるところでは誰も親子の話には触れようとはしないし、まして本人に問いただすような話じゃない。 知らず腕に力が入った。 本来であれば平伏して挨拶の口上を述べるところなのに、複雑な思考が入り混じってそんなところまで気が回らなかった。 「面も下げずに突っ立ったままとは、さすがあれに仕える程度の無礼さよのう」 「し、失礼しました!」 嘲るような台詞に慌てて頭を下げたが、もうこちらを見ることもなくふいと通り過ぎる。 この感じには覚えがあった。小十郎の人生を通り過ぎていった殆ど大勢の人間と同じ。 苛立ちも落胆もとっくに自分のものではなくなっていて、彼女が向ける無関心をありのまま内側に仕舞い込む。 そこに存在しないものであればどれだけ積み上げたところで、重くもならない。 これまでそうやって生きてきたし、これからもそうやって生きていくのだと漠然と思っていた。 改めて思い返すまでもなかったのに、最近の自分ときたらはじめてできた主君に随分と心を傾けてすぎている。 「うまく手懐けられたこと。せいぜい化物に食われぬようにするがよいぞ」 後姿のまま、忠告めいた言葉を紡ぐ。 一体どんな気持ちで、腹を痛めて生んだ我が子のことを化物呼ばわりするのか。 小十郎には分からなかった。分かりたくもなかった。 自分だけは梵天丸の味方なのだと信じていたからだ。それが、どれほど愚かなことかも知らずに。 しゃなりしゃなりと、衣擦れの音をさせながら義姫が部屋から遠ざかっていく。 その後姿も、出会った頃に梵天丸が見せたそれに似ていて、豪奢な着物に舞う金糸の蝶を見えなくなるまで目で追った。 伸びた前髪をうっとおしく掻き揚げながら深呼吸を一つ。無様な姿で主君の前に出るわけには行かない。 そう考えてしまう自分も、随分傅役が板についてきたものだ。 「梵天丸様、参りました」 予定外のできごとに若干遅れてしまったが、何事もなかったように襖に向かって声をかけると、入れと要点だけの簡潔な返事が返ってきた。 梵天丸はいつものようにきちんと姿勢を正して、文机に向かっていた。 写経をしているようだ。畳の上には何枚もの紙が散らばっている。彼らしい精練された字だ。 「母上に会ったのだろう」 見ていたわけでもないだろうに、相変わらずの勘のよさでずばりと切り込まれた。 片方の目は手元の筆に落とされたまま、天気の話でもするように淡々と言う姿は静かだったけれど、とても危うくも見えた。 誤魔化しても無駄だろう。そう確信させてしまうほどにはっきり言い放った。 「何を言ったかは大体見当はつく。気にするな、あの方は俺の目のことがあってから少し心を病んでおられる」 「ですが」 「良い。俺は気にせぬ」 ぴしゃりと言われては黙るしかない。 食い下がったところで所詮自分は家族でも何でもない他人だ。親子のことに口出しする権利はない。 すっと最後の一行を書き終えてしまうと、硯と筆を片隅に寄せて手招きをする。 無表情からは本当に義姫のことは頭から消えうせているようにしか見えない。 失礼しますと断ってから向かいに座る。数日前はまだ部屋の隅っこに座るだけだったのだが、一つ夜を越えて朝を迎えるたび近付くようになっている。 「朝に話した件だが、早速父上に許可を頂いてきた。今日からでも稽古を付けてくれ」 「朝の件……とは、剣術の稽古ということですか」 いくら父とはいえ、一国の城主の約束をこの短時間でとりつけてしまうとは恐るべき行動力だ。 輝宗も輝宗だ。もともと神職の家の次男を傅役にするだけでも異例の待遇なのに、子どもの言うことを真に受けてあっさり許可するとは。 小十郎の剣術は基礎こそきちんと習ったものの、正式な流儀に乗っ取ったようなものではないし、何より人に教えるような技術は身につけていない。 強くなったのは、強くなろうとしたのは、自分のため。 何度か目にした梵天丸の剣の腕は悪くはない。だが勝つことを目的として鍛えた小十郎にしてみれば、手加減せずに相手するとなれば彼の右側を確実に狙うだろう。 それができなければ剣の師匠をする意義などないとはいえ、梵天丸には荷が重過ぎはしないか。 まさかこんな展開になるとは思っていなかったので、何とか考えを変えさせられないものかと思考をめぐらすが、あるかどうかも分からない名案を思いつく前に軽い身体が膝に乗りかかってきた。 それでもまだ下にある頭を上げて、薄紅色の小さな唇が囁く。 「お前、俺に剣など無理だと思っているだろう」 小十郎の考えなどお見通しのようだ。この距離では目をそらすのも不自然で正直に答える。 「……まあ、少しは」 「本当に嘘のつけぬ奴だな。そういうときはかたちばかりでもそのようなことはありません、と言うものだ」 「その場でばれる嘘なんかついても仕方ないでしょう」 「なるほど、お前は正しいな」 無感動な相槌は、感心しているのか馬鹿にしているのか分かりにくい。 多分四対六くらいの比率くらいだろう。小十郎の思考は単純にできているのである。 膝にのった軽い身体を落とさないように丁寧に抱き上げると、視線の高さが同じになった。 夜と共にする女を別とすれば、こんな風にあっさり懐に入り込んできた相手はいなかった。 人は人に出会うたびに、他人をどこまで寄せ付けるか距離を測るようになる。 それはある種の自衛手段と処世術であって、良し悪しを判断するようなものではないが、用心深い梵天丸にしては意外なほどの無謀さに思えた。 「梵天丸様。俺は手加減をできるほど器用じゃありません。それに、あなたの右目は……」 「何か一つ諦めるということは、全部諦めることだ」 腹から熱いものがせり上がってくるのを、喉を上下させて飲み込む。 これが、九つにしかならない子どものする目か。 自分にも、ほかの誰にも持ち得ない煌きは、誤って星が降ってきたのではないかと錯覚してしまうほど、澄んで遠くて強くて小さなひかり。見えない右目の代わりに、左目にすべてを背負い込んでいるように。 零れてしまわないように、瞳の奥に仕舞われているそれがはっきりと浮かんでいた。 じっと視線を合わせたまま、長く思える沈黙が流れた。 喧嘩の睨みあいでも、房事の駆け引きでもない。妙な気分に捕らわれているとふいにある衝動が胸を打つ。 今目の前にいる梵天丸の形成の一番根源にあるものを知りたいという、いくらか歪んだ好奇心だ。 傅役の任を引き受けるにあたって、喜多にも輝宗にも厳しく言い渡されていたことだった。 梵天丸の右目のことは、決して口にするなと。 最初はさして興味も抱かなかったので、今まではっきり考えたこともなかったが初めてまともに考えてみれば、やはりそれを避けていること自体がおかしなことだと嫌でも気付く。 少なくとも自分は、いつか綻びてしまう物を上手に繕って優しいものばかり見せてあげられるほど大人でもなければ、そんな上辺で済ませてしまいたくない程度には幼い主君を好きになり始めていた。 目を閉じて、息を吸う。軽く梵天丸が身じろぐのを感じた。 「梵天丸様。俺に、あなたの右目を見せてくださいませんか」 酷いことを口にしている。土足であがりこむような真似をするほど、他人のことを知りたいと思ったのははじめてかもしれない。 だが引く気はなかった。ここで手を放すのであれば、所詮自分たちはそれまでだったのだ。 「喜多にも口止めされていたので、これは俺が独断で決めたことです。処罰なさるならどうぞ俺だけに」 「……何故、この目が見たい」 「あなたのことをもっと知りたいと思ったからです。その目を隠したいというのであればそれはそれで構いません。でもさきほど仰られたとおり、俺は嘘も上手くはありませんし腹芸も苦手です。いつかもっと酷いかたちで暴きたいと思うかもしれません。梵天丸様が決めてください」 固く引き結ばれた唇から、困惑しているのがこちらにも伝わってきた。 かわいそうに、と他人事のように思う。知り合って幾許もない家臣に、こんな失礼極まりない理不尽な迫られ方をするなんて思ってもみなかっただろう。 だが梵天丸は少しも目をそらさなかった。ただ黙って小十郎から身体を放す。 これは嫌われたなと部屋から出るために立ち上がろうとした時、梵天丸の手がゆっくりとあげられた。 するりするりと、意思を持つ生き物のように白い包帯が床に落とされてゆく。 完全に取り払われたのを見計らって、手を伸ばして長く伸ばされた前髪をそっと掻き揚げる。 梵天丸はぴくりとも動こうとはせず、黙って小十郎の好きにさせた。 露わになった右目はどろりと白濁して、今にも眼窩から飛び出しそうに盛り上がっていた。 「………」 確かに醜い。戦場では腸が飛び散ったり顔が半分潰されて血管が剥き出しになっていたり、もっと酷い様相の死体をいくつも目にしてきたが、梵天丸は他が綺麗なだけに異様におどろおどろしく見えてくる。 けれどそれだけだった。 右目だけ見れば確かに異相には違いない。でもこの何も見えない瞳が何だというのだ。 小十郎には左目のほうがよほど恐ろしく思える。すべてを見透かしているような目。 今も、じっと小十郎を見据えている闇を孕んだ眼差し。 「気は済んだか?」 「……はい。有難うございました」 「つまらんな」 「はい?」 「もう少しくらいびびるかと思っていた」 吐息がかかるほどに顔を寄せて、にやりと人の悪い笑みを見せる。 してやられた。自分より、よほど梵天丸のほうが覚悟が決まっていた。 落ちた包帯を拾い、元のように右目に巻きつけてやる。梵天丸は大人しく小十郎がするようにまかせていた。 「悪趣味ですね。そんな風に俺を試すのはやめたほうがいいですよ」 「そんなに悪い趣味でもないだろう。だいたい、悪趣味ならお前もだ」 ほっとするような、途方に暮れるような台詞をよくもやすやすと吐いてくれるものだ。 全部知っているなら随分意地が悪いし、知らないのならば余計に性質が悪い。 一日の大半を共に過ごしている割には、お互いまだ少しも気を許してはいない。 だが少しずつ、少しずつ梵天丸のことが分かってくる。 まだ何者になるともどこへ行くとも知れない少年が、どうなっていくのか。 春を待って今はじっと息を潜めている蛹が、蝶になるのか、蛾になるのか、それとも孵化できぬままに朽ちてしまうのか。 俗物らしい純正なる興味と、芽生え始めている使命感のようなものの狭間で、それを知りたいと思う。 それが、それだけが、今の小十郎にとって生きるということに他ならなかった。 「終わったか?」 「一応」 手が止まったことに気付いたのか、梵天丸が顔をあげる。出来上がってみるとところどころ緩んでいて、だらしない感じになってしまった。 顔を見たくないのか必要がないと思っているのか、この部屋には鏡がないのだが、触った感覚で明らかに失敗作と分かるだろうに、梵天丸はおかしそうにしているだけで直そうとはしない。 やり直したほうがいいだろうかと、少しばかり所在のなくなった手を首筋にあてる。 「あー、それじゃ稽古をしたら解けてしまいますね」 「構わぬ。その時はまたお前に巻いてもらうから問題ない」 あ、と思った。 それは約束ともいえないような、未成熟なひとりごとだったかもしれない。 だが、それはもう梵天丸の中で迷いもなく決められたことなのだということ。 小十郎の何かを、自分の中に認識している。そして多分、それは小十郎も同じだった。 これが、えにしを結ぶということなのかもしれない。 はっきりとそれを自覚した。 |
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||