ようやく口をきくようになった梵天丸だったが、口数が少ないのはもともとらしく、さほど会話が増えたわけでもなかった。 それでも、会話がまったくないのとあるのでは大違いだ。 日に一言二言と交わす言葉が増えていくのは、小十郎の今一番の楽しみとなっていた。 早朝、鳥の声がする頃に目を覚ますと水桶で顔を洗い、着物と袴を身につける。まだ城内でも起きているものは下働きのわずかな人間だけで、誰ともすれ違うことなく木刀片手に裏庭へと降りた。 小十郎は現在、米沢城の一角に自室を与えられている。 これまでは義姉が輝宗より城下に与えられた屋敷に兄弟二人で住んでいたのだが、傅役として仕えるにあたって傍で寝起きできるようにと取り計らわれたものだ。 昇りかけの朝の陽が山の端を真珠色に染め、獣が伸び上がるように徐々に町に光が満たされてゆく。 目を眇めながら、しばらくその様子を眺める。 雲の欠片に残った夜を振り落としながら、藍から橙、そして白へと空を大胆に塗り替えながらやがて姿を現す。 実家が神職の家であるにもかかわらず、神仏に興味はないので手を合わせたりはしないが、雄大ですませるには大きすぎる日輪には人の心を静謐にさせる何かがあるようだ。 「はっ!」 いつまでもぼんやりとはしていられないと、気合を入れて木刀を振り下ろす。 一日でも稽古を怠ると身体はなまる。日の高いうちは梵天丸の傍に控えているだけなので、己の鍛錬は朝にするしかない。おかしな話だが、素行はともかく根が真面目なのはもう性分だ。 まず基本の型をとって打ち下ろし、薙ぎ、払いの動作を繰り返す。小十郎はめずらしい左利きだ。 実際の打ち合いとなるとやりにくいこともあるが、武道の基礎を叩き込んだ師匠はあえて利き手を直させようとはせず、半分我流の混じる剣は並ぶものなしというほどの強さを誇っている。 一通り終えると、次は死合う相手を想像しながら流れるように剣を振って、動きを身体に覚えこませる。 剣術の修行において、もちろんはじめは型や狙いどころなど覚えなければならないことも多いのだが、頭で学んだことは戦場では役に立たない。一対一というような綺麗なものでもないし、目潰しでもなんでもありの状況では、いざというとき反射的に急所を狙えなければこちらの命が危うい。 本当であれば誰か相手がいるほうがいいのだが、小十郎の腕ではもう人並みの剣の腕では相手にもならないため、あまり相手になってくれる物好きもいない。喜多をはさんで義兄弟になる鬼庭綱元くらいだろうか。 相手の力量云々よりも、やはり生身の人間と向き合って剣を交えることは糧になる。 力のぶつかり合いだけでなく、微妙な精神と技術の駆け引きは一人では習得できない。 想像の敵に向かって引いて構えて、喉元を狙って一気に突進する。最近考えた技だが、足の速さや力の強さを活かせるので突きの精度をあげれば実戦で役にたつだろう。 より早く、より鋭く、より強く。剣に求めるのはそれのみ。 もう一度と構えなおしたところで、突然声がかかった。 「いい腕だな」 昔から他人の気配には敏感で、武道を始めてからはそれに磨きがかかっていたのだが、まったく気付かなかった。いくら真剣になっていたとはいえ、迂闊にこれほどまでに近寄られるとは少ない自尊心を傷つけられる。 しかもそれが、この相手というのも。 「梵天丸様」 「いつもこんな時間から稽古をしているのか?」 驚きを引っ込めて振り向いた先にいたのは、寝巻き姿のままの梵天丸だった。 白い着物に白い肌に白い包帯。髪の毛と瞳以外は真っ白だ。 だがそれは絵巻物に描かれるような幽鬼のような不気味なものではなく、寧ろ夢の中に出てくるような神々しさすら感じられた。 梵天とは、修験道で神のよりしろという意味らしい。 彼は自らを化物といったが、同じように得体の知れぬものであるなら、神である可能性だってあるのではないかと益体もない考えが頭をよぎった。 馬鹿馬鹿しい。どちらにしろ神も化物も信じていないくせに。 「はい。朝のほうが集中できますゆえ」 「そうか。昼間は俺の面倒を見るために己の稽古の時間がとれぬのだな」 そんなことは一言も言っていない。相変わらず、一つ話せば十を知る聡さだ。 猫が忍び寄るような動作ですすと小十郎の真下までやってくると、汗ばんだ腕や木刀を握る指をぺたぺたと触り始める。 何にも興味がないような顔で、ひとたび興味を持ったことにはとことん喰らいつくということも最近知った。 子どもらしい好奇心といえばまだ可愛らしいが、それとは対極にあるような真剣な眼差し。 第三者から見ればくだらないことだとしても、そんなことは自分で決めると言わんばかりの表情。 先日も目を離した隙に毒草を口にして肝を冷やした。幸いすぐに吐き出させたので大事には至らなかったが、本人はわずかに残った毒による熱と戦いながらも満足そうだった。 たとえ得たものが痛みだけだったとしても、おそらく彼は手を引っ込めはしないだろう。誰よりも大事に籠にしまわれているのに、鳥籠の住人になる気はないらしい。 冷たくさらりと乾いた指が、ひとつひとつ指のかたちを確かめるように動く。爪、指の又、胼胝、一回り大きな小十郎の手の隅から隅までを知るように。 しばらく黙って好きにさせておけば、ひとしきりやって気が済んだらしく唐突に手を放した。 「どうして今まで気付かなかったのか。お前、俺の剣の師匠をしろ」 「……はい?」 「今の師は太刀筋は悪くはないが、俺に傷を付けまいとどうにもぬるい。あんな剣では戦場で生き残るものも生き残れまい」 驚いた。 実は小十郎も剣の稽古を見ているとき同じことを思っていた。あんな剣を身につけたところで役に立たない。 確かに大事な主君の子となれば下手に怪我をさせるわけにはいかない。だが、本当の死合いを知らないことはもっと危険なのだ。 それに誰もが口には出さないが、右目の見えない梵天丸は右に大きな死角がある。その不利を埋めることは生半可なことではない。どれほど努力を重ねたところで、右目が光を取り戻すわけでもない。 武家の嫡子に生まれながら、梵天丸に武士としての未来はない。そう思っている証拠に思えた。 自分のことでもないのに、侮られたようで腹が立つ。 驚いたのは、そんな大人たちの思惑など歯牙にもかけず、梵天丸に覚悟がすでに備わっていたことだ。誰が教えずとも。 剣を握る以上、身分が高いとか、子どもだからとか、隻眼だからとかいう言い訳はないのだということ。 もしも、本気で剣の道を行けば凄い使い手になるかもしれない。 技術など修行を積めばある程度は身につくが、それを持っている人間と持っていない人間というのは決まっている。 それを遮る権利など誰にもない。 「父上には俺から言っておく。構わないな」 「俺は構いませんけどね」 自分が人に何かを教えるなど想像できないが、どうせ聞きやしないのだ。 その返事だけで充分だったようで、梵天丸はくるりと小十郎の周りを回るとすっかり山から顔を出した朝陽を、睨み付けるように見上げる。 色素の薄い肌が透きとおるように彩られて、目が端整な顔に不似合いなほど野蛮に光っている。獰猛な猛禽類を思わせる目つきで。目を瞑りそうになるほど眩しいのに、はっきりと分かる。 今すぐ手を引かなければ、融けてなくなってしまうかのような錯覚に視線をずらす。 ふと、その小さな足が目に付く。手も足も細いが足も同様だ。 「梵天丸様、履物は」 同じように足元を見下ろした梵天丸は、憑き物が落ちたように普通の子どもになっている。時折見せる幼い仕草で首を振った。 「どこにあるのか分からない」 そりゃそうだ。仮にも城主の嫡男が履物を用意したことがあるはずもない。 誰かにしてもらわなければ自分の履く物ひとつ満足に用意できないくせに、裸足で地面を歩くことには躊躇いを見せない。 土の上を歩いて足が汚れても平気だということ。綺麗な着物を着て温かい布団で眠れるのが当たり前の生活の中で、それを疑いなくできること。 不思議だった。表への出方は随分ひねくれているが、梵天丸は根っこの部分では少しも歪んだところがない。 「とにかくそんな恰好でふらふら出歩かないでください。今お部屋までお送りしますから」 「もう眠くない。あと少し見ていては駄目か?」 「駄目です」 「主君のいうことは聞くものだぞ」 なおも駄々をこねようとするので、実力行使に出ることにした。変なところは子供っぽい。 子供相手だろうと、言って聞かない相手には容赦なく冷徹を貫くのが小十郎の流儀だ。 「う、うわっ!」 人足が荷物をかつぐようにひょいと肩に担ぎ上げると、さすがに驚いた声をあげる。 女に上に乗られることに比べれば、苦にもならない軽さだ。痩せてさわり心地がいいとは言えないが、などとこっそり考えて俗物だなと若干己に呆れた。 「主君の身の安全を考えるのも臣下の勤めですゆえ」 「無礼者!降ろせ!」 「よくご存知で。生憎俺は礼というものを知らずに育ったものですから」 少し調べれば小十郎の素行の悪さなどすぐに知れる。 しゃあしゃあと答えれば、梵天丸は暴れるのをやめてぴたりと大人しくなった。 「……梵天丸様?」 不気味に思っておそるおそる問いかけると、梵天丸は小十郎の肩に担ぎ上げられたまま、またしても支える手を握っていた。 「お前の手は、大きいな」 「そりゃ俺はもう大人ですから」 「違う。大きなものを掴み、与え、守る手だ」 女のように綺麗でもないし、農民のようによく働く手でもない。剣を握るしか能のないこんな無骨な手をそのように言われるのははじめてだった。嬉しいというよりも、妙な気分だ。 何を思ってそう口にしたのかは分からないが、彼のその目にも見えないものはあるということか。 いまだ何も掴んだことはない。まして、守るなんて。 梵天丸を部屋まで送り届けると、汗だくになった着物を着替え朝餉をとってから、愛刀を抜いて曇りがないか確かめる。 元服したときに義姉の父である鬼庭左月からもらったものだ。 小十郎にしてみれば今は母の前夫という間柄で、微妙な感情の伴う相手でもあるのだがその母もすでに亡く、苦労をしている小十郎のことを何かと気にかけてくれるのである。 伊達家の重臣が用意したものだ。今の給金ではとても手にすることは出来ないような上等なものである。 感情はともかく、刀に罪はない。脇差と一緒に腰にさして自室を後にする。 梵天丸の部屋は城の最上階の一番奥まったところにある。階段も分かりづらい場所に一箇所しかないので、用事がなければ誰も赴きもしない場所だ。おそらく元は物見用に作られた部屋か何かだったのだろう。 輝宗や弟の竺丸は庭に面した部屋を持っている。 梵天丸ただ一人が隔離されたようなその場所に住み暮らしているのだ。 まるで、何かから隠すように。 それとも、隠れるように? 部屋に向かう途中、すれ違った青年がこちらを見てよおと声をあげた。 「小十郎じゃねえか。お前、とんだ貧乏くじをひいたみたいだな」 中肉中背で外観に特にこれといった特徴も青年は親しげに話しかけてくる。 誰だったか思い出せない。くだけた口調からも知らない相手ではないのだろうが、記憶に残るほどの人物でもなかったのだろう。 仏頂面だといわれる無表情を崩さずにいれば、相手もようやく小十郎の無反応の理由が分かったらしい。 「おいおい、城下にある藤村屋で結構一緒に遊んだじゃねえか」 彼の口から出てきたのは城下町の隅にある安い遊郭の名前だった。一年位前にはよく出入りしていた。 暇つぶしでしかなかったが、あの頃はそこしか行く場所がなかった。 しかしそこで遊んでいたということは、相手の素行は押して知るべしだ。 「お前突然来なくなったからさあ、お蜜大分淋しがってたぜ」 おそらく娼妓の名前だと推測するが、お蜜といわれてぴんと来ない。 意図して禁欲していたわけではないが、確かに最近ご無沙汰だなと思い出す。 まあどちらにしろもう行くこともないだろう。そんなことに執着する理由も、執着される謂れもない。女に用事が出来ればまた他を当たるまでだ。 「これまで何度も傅役をって話があったのに、その度にあの右目を晒して脅かしたって話だぜ。女ならともかく男が怖がるかよって思うけど、確かに気味は悪いわな。だいたい、あの部屋にしたって於東様が顔を合わせずにすむようにって……」 「黙れ」 静かにそれだけ告げると、唖然とする相手をその場に残して奥へと続く階段を上る。 そんなことは最初から分かっていた。口さがない臣下たちに彼がどう思われているかなど。 今更だと梵天丸自身も気にもしていない。寧ろ自ら化物だなどと口に出すのだから始末に終えない。 だからくだらない中傷や根拠のない誹謗に汚されるのが我慢ならないのは、多分己の身勝手なのだろう。 でも、この手の届く範囲だけでも退けるくらいの勝手は許してもらえないだろうか。 あなたの、たった一人の臣下として。 |
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