「お断りします」 迷わずに答えた小十郎に向かって、梵天丸は立ち止まり、分からないというように首を傾げた。 「何故だ?今後のことを気にするなら父上には俺から一筆添えておく。お前に悪いようにはならないはずだ」 今、ようやく理解した。 一言も喋らずにいた理由は、何のことはない。梵天丸はずっと自分を観察していたのだ。 何を考え、何に価値を見出し、どのような理念に従って行動しているのか。 その小さな身体の全身全霊を傾けて、一つきりの瞳で。 確かにはじめ小十郎には、伊達にも梵天丸にも誠心誠意の忠義を尽くすつもりなど欠片もなかった。 頭の中にあったのは如何にして己の中にある空虚を埋めるかだけだった。 梵天丸は、はじめから分かっていたのだ。 分かっていて、わざとこんな風に人の自尊心に引っ掛かるようなやり口で己の手の内を明かす。 自分を遠ざけたいだけなら、もっと簡単で効果的な方法などいくらでもあるはずだ。 これは聡明というよりも、悪趣味に近いような気がする。 「何故?おかしなことをお聞きなさる。俺の主君は貴方です」 「それは、父上がお前に傅役として仕えるように言ったからだろう。俺に忠義立てしても無駄だぞ。伊達家を継ぐのは弟の竺丸だ。俺はそのうち城の一つでももらってそこで静かに暮らす」 「輝宗様はあなたを次期当主にと考えておられる」 そうでなければ傅役をつけようなどとは考えまい。自分が適任かどうかはともかく。 「父上には申し訳ないが、俺も伊達を継ぐ気はない。俺にはこの地がどうなろうと関係ない」 「何故ですか」 「俺が、化物だからだ」 ためらいなく放たれた言葉には自虐的な響きも劣等感もなく、当たり前のことを口にしているだけの素っ気なさをもっていた。 とてもまだ十歳にもならない子どもの発言とは思えなかった。 まだ見ぬ未来への希望も不安も彼の中にはないようだった。 ただ渡り鳥がはるか遠くからでも正確に己の居場所を知るように、己の人生を冷めた目で、けれどまっすぐに俯瞰している。 それはゆるがない信念にも、思考よりも前に生まれながら身にけている生き方にさえ思えた。 自分が何もので、どこへ行こうとしているのかすべて知った上でしか、飛び立つことが出来ない。そのようにしか生きることが出来ない。 どんな場面でもひらめきを頼りにして生きてきた小十郎にはおよそ理解しがたく無意味なことに思えたが、そんな考え自体も梵天丸にはお見通しなのだろう。 その上で近付くなと牽制しているのだ。 ひとりよがりな同情や安易な優しさなど、差し挟む余地さえ見当たらなかった。 怠惰に日々を過ごして慣れてしまうことで、それを信頼だの愛情だのに摩り替えてしまうことを許さず、一人きりで己の生をまっとうすることに、欠片の疑問も抱いていない。 他人に理解されたり、共感したりされたりすることを必要とはしていない。 あまりに潔く、その潔さを憎たらしいとさえ思った。こめかみが痺れるほどに強く。 こんな十歳も年少の少年に向き合って何をと戸惑う気持ちも半分、残りは正体の知れない興奮に身体は支配されようとしている。 生まれて初めて覚えた感覚だった。 「化物だなどと、おかしなことをおっしゃる」 「誰よりもそれを分かっているのは、お前ではないのか?」 「あいにく、俺は化物というものを見たことがありませんので」 「………。幸せな奴というか、怖いもの知らずというか、馬鹿というか」 一瞬の沈黙の後、心底呆れたような声をあげて嘆息した。 周りから見れば自分は不遇だと思われていることが多いようだが、小十郎自身はそうは思ってはいなかった。 次男に生まれたことも、養家を追い出されたことも、自分の上を通り過ぎたできごとのひとつにすぎない。 そこに己の勝手な価値観を押し付けて、自分を哀れむ人間のいうことになど万に一つの価値もない。 梵天丸のいうとおり、ある意味では幸せなのだろう。 誰にも何にも縛られずに、ただ先だけを目指して、止まらず走り続けること。 そうするしかなかったのだとしても、誰よりも己がそれを不幸だと思ってはいなかったのだから。 風が獣の尻尾のようになまぬるく頬を撫で、梵天丸の柔らかい髪の毛を揺らす。右目に撒かれた包帯の白さが、彼の輪郭を曖昧に崩して、形容しがたい感情が砂嵐のように喉元までせりあがってきた。 でもそれは形にはならずに、さらさらと零れていくのだ。 「そうですね。怖いものがないってところでは、俺は幸せなんでしょう」 「じゃあ、俺がお前にとってはじめての怖いものになれるかもしれんな。俺を恐れる人間は二種類だ。普通の奴はこの異形を恐れる。それならば少し優しい言葉をかけてやれば、安心して俺の傍を離れていく。だが、お前はそうじゃない」 梵天丸が一歩、二歩と近付いてくる。 殆ど頭の下あたりに立つと、その背丈は小十郎の胸辺りまでしかなく、着物の合わせ目からのぞく首筋は頼りないほどに細い。小十郎なら片手でも首を絞められるかもしれない。 だが殆ど反射的に身構えてしまった。さきほど感じた視線は、やはり梵天丸のものなのだろう。 殺気ではないのに、こちらを圧倒する。 左手をつかまれる。小さなその手は夏場であるのにひんやりと冷たかった。ごくりと生唾を飲み込んだ。 「こちら側に深入りするな。知らぬふりをして立ち去れ。どのみち俺はそう長くは生きないだろうしな」 ゆっくりと、静かに、子どもに言い聞かせるように囁く。声変わり前の少しばかり甘いかすれるような声で。 他人をじっくりと見極めて何をするかといえば、甘言をもってそうと悟らせないうちに遠ざけるか、それで退かないのであれば畏怖をもって跳ね除ける。 他人を見据えるあの瞳は、他人ではなく何より自分を守るために見開かれているのだ。 ―――そうか。この子どもは化物だと信じている自分のことを何より、恐れているのか。 最初からないものにしてしまえば、それで傷つくこともない。 「なるほど結構な話です。でも俺は、主君を違えるような情けない男になるつもりはありませんよ。もしも俺が不要ならば今ここではっきり申されよ。潔く腹を切ります」 きっぱりと言い切ると、梵天丸は眉間にしわがよるかよらないかほどかすかに眉をしかめた。 「馬鹿をいうな。俺はお前の命などいらぬ」 「俺が、貴方を主君してみせます」 すんなりと口をついて出た言葉に驚いたのは、誰よりも小十郎自身だっただろう。 そのとき何故そんなことを言ったのか分からなかった。 梵天丸の拒絶を諾々と受け入れるのがしゃくに障っただけなのかもしれないし、ようやく見つけたかもしれない面白い存在を手放すのが惜しかっただけなのかもしれないし、ほんの少しだけ残っていた少年らしい無謀な挑戦をしえてみたくなったのかもしれない。 だがそれは思いのほかの妙案にも思えた。 少なくとも、梵天丸を驚かせることには成功したわけで、ようやく勝ち星を一個拾ったのだ。 咄嗟に返す言葉もなく片方しかない目を思い切り見開いた表情は、確かに年相応の幼さを持って映った。 左手をつかんだ彼の手の上から、右手を重ねる。 ぴくりと背中が少しだけ震えていたのを見逃さなかった。 こんなひ弱な子供を化物だなどと。 「そんな世迷言を言ったのはお前がはじめてだな」 見間違いだったのだろうかと思うほど素早くいつも通りの表情を取り戻した梵天丸が、視線を下げないまま皮肉っぽく口元を歪める。 「世迷言じゃありませんよ。貴方は人の上に立つ器だ」 いまだつながれたままの手を、うやうやしく持ち上げるようにして膝を落とした。自然と見上げる角度になる。 「面白い男だな、お前」 「そんなことを言ったのは若様がはじめてです。つまらない奴だとはよく言われますが」 「どいつも見る目がないな」 そう言って、悪戯の共犯者を見つけた顔をする。 無口で無表情だと思っていた印象は一転、知らない姿をいくつも持っている。 この感覚をなんと呼べばよかっただろう。 清冽と凪いだ湖面の上に花びらが一片落ちて、さざめく波紋のように落ち着かないこの感覚は、果たして期待なのか不安なのか。それとも、狂気か。 どちらにせよ、その答えはまだここにはない。 化物でもなんでもいい。 俺が、見つけた。 「いいだろう。お前がいつまで化物を恐れずにいられるか見ていてやる」 小十郎の手からするりと手を引き抜いて、屋敷のほうへと歩き出す。 きちんとした躾を感じさせる綺麗な所作で。内側に潜むおどろおどろしい感情はすべて目を瞑って。 もう小十郎のほうを振り返りはしないだろう。 立ち上がって、少し後ろから薄っぺくて頼りない背中を追いかける。離れていった手の冷たさが、まだ手のひらの中に残っている。 悪趣味は、むしろ自分かもしれない。 「一つ言っておくことがある。俺の名前は若様じゃない。梵天丸だ」 「存じ上げております」 「今後は梵天丸と呼べ。いいな」 「はい、梵天丸様」 その日、別々の道を行っていたはずの二人の旅が、ほんの少しだけ近付いたような気がした。 まだ何も見えない向こう側へと続いてゆく、その道が。 |
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