有邪気/17
手を伸ばして梵天丸の腕を引っ張った。
すぐに靄が纏わりついて何も見えなくなるが胸に抱き寄せると、薄っぺらい背中と細い手足と小さな頭が確かな熱を持っていることが分かる。こんな深い闇の中でも。
腕に力を込める。かすかな心臓の音。生きている証。
何が起こったとしても、この人が邪神になったとしてもこの身に災厄が降りかかっても、その身に背負ったすべての想いを、さだめの中に埋もれさせはしない。
「こ、小十郎……!」
か細い悲鳴のような声で、梵天丸が名前を呼ぶ。
まるでそれが合図だったように、黒い霧がふっと晴れた。しんと静寂が戻り、部屋の真ん中に梵天丸を抱いたまま突っ立っていた。白昼夢でも見ていたように唐突に普通の光景が戻ってきた。
一つだけ違っていたのは、飾り刀が根元からぽっきりと折れていたくらいか。
力が抜けてへたりこむ。黙ったまま顔を見合わせた梵天丸の目も、いつもの茶色を帯びた漆黒に戻っている。
語るべき言葉が見つからず、口を開いては閉じるというとりとめのない動作を繰り返すしかない。
そうしている内に状況を理解したらしい梵天丸が困ったように眉を寄せた。
「……もしかしたら、お前はとんでもない力を持ってるのかも知れない」
「一体何が起きたんだか、俺にはさっぱり分からないんですけど」
「禊をしたんだと、思う」
「は?」
「人は悪しきモノを忌み、祓う。そうして土地は守られてゆく。だが祓いきれぬほどの災厄が降りかかろうとしたとき、依代を用意してそこにわざと厄を集めるのだ。そして依代ごと水に流すことで大きな災厄を消滅させる。それが禊だ。だが俺は神の依代でもあるせいで禊がうまくできぬ。だから虎哉も手を出しかねて、ただ俺の感情だけを封じることにしたのだ」
「仮にそうだとしても、俺は禊の作法なんて知りませんよ」
「無論、普通の祓いの力くらいで俺の呪はどうにかなったりはしない。だが、あの刀……」
梵天丸が少しだけ言いよどむ。
折れた飾り刀の柄に細い指がそっと触れた。もう何も起こりはしなかった。
「母上が俺のために用意したものなのだろう。触れたとき、一瞬だが呪を抑えられなくなった。ただお前が触れた途端、綺麗になくなってしまったのは事実だ」
「どうしてですか?」
「それが分かれば苦労せぬ。けれど呪を抑えるのが俺の心一つであるなら、きっと……母上にあの刃を向けられていたら俺はあそこで全部を終わりにしていた。でも、お前がいたから俺は」
勢いよく立ち上がると、するりと猫のように小十郎の腕から抜け出た。
奥の道具棚のところまで歩み寄ると、一番上の引き出しを開ける。中に入っている包み紙を両手一杯に掴んで、西日の傾きかけた窓辺まで歩いていった。
「!」
びり、と包みを破ると風になぶられて勢いよく、白い粉が流れてゆく。
残酷で痛みを伴うものであったとしても母親と唯一繋がる手段だった。小十郎には一生理解できないだろうが、自分の居場所、存在意義ですらあったそれを自らの手で捨て。
呆気にとられる小十郎の前で、最後の一つがなくなるまで梵天丸は次々とそれを窓の外へとばら撒いた。
粉雪のように儚く、瞬きにも満たない間にどこかへと連れ去られてゆく。
「こんなもの、なくても死ぬ方法なんていくらでもあったのにな」
言い聞かせるほどに心の中に空洞は広がる。誰が何を言わなくても最初から分かっていた。
過ぎ去った月日は重く、梵天丸と義姫の間に生まれた戻らないものは二度と埋まることはない。それは時間であり距離であり信頼であり、未来だった。たとえ百年の月日が流れたとしても、決して。
その現実が義姫に暗い道を選ばせた可能性は否定できない。
これから先、母子が和解できる日が来るかもしれない。来ないかもしれない。未来はいつでも不確定だ。
希望もなく不安もなくただこうと決めた人生を、はじめて他人のためでなく自分のために選ぼうとしている。
羽ばたくための翼は、今はまだ小さくひ弱でも。
「さきほどので粗方の呪は祓えたはずだ。父上は持ち直すだろう。これからどうしようか」
晴れやかな声だった。
ひとりよがりで無味乾燥だった小十郎のひび割れた世界の中に、ただ一つ芽生えたもの。
難儀なことではある。誰を想い、何を求めるのか。どうやって生きるのか。
意思は打算と計算を働かせても、心は容易くそれには応じない。傷など付いていないのに、胸が痛んだり心に穴が出来たりする。それは自分になくて、誰かにあるものへの痛烈な憧れ。
本当の孤独というのは、誰かに理解されないことでも必要とされないことでもなく、自分が誰のことも理解したり必要としようとできないことからはじまっているのだと思う。かつての自分のように。
きっと梵天丸に会わなければ知らないままに一生を終えていたに違いない。今はそれがとても恐ろしい。
出会って、名を呼んで、言葉を交わして、抱き合って、拒絶して、必要としたこと。
大丈夫。深く瞬きをして息を吸い込む。
「先を見ないで飛び立つのは怖いかもしれません。でも梵天丸様。俺がいます。傍にいます。俺はずっとあなたの傍にいます。もしも次、死にたいと思ったときはどうか俺におっしゃってください。この小十郎が、責任を持ってあなたを冥途へお送りしてさしあげます。道中お寂しくないように、お供致しますから」
こちらに背を向けたままの梵天丸が、少し背筋を伸ばすようにして雨上がりのくっきりと濃い空を見上げた。
「お前と二人なら、冥途への道行きも悪くはないかもしれんな」
「どこまでもお供しますよ。でもその前に、あと一年か十年か何年か。死ぬまでは共に生きてゆきましょう」
「……そうだな。きっと、それも悪くない」
この命が果てる最後のとき、誇りに思えるように。
梵天丸はこちらを振り向かない。その決然とした背中を前は拒絶だと思っていた。
でも、本当に信頼していない相手に背中なんて見せない。
自分が守ってみせる。振り返らなくて良いように。まっすぐに前だけを見て進んでいられるように。そしてそれが小十郎の道になってゆく。一年、二年、十年。ずっと続いていけばどんなにわくわくすることだろう。
己の強さを証明するためにではなく、誰かを守るための剣。言葉にした途端陳腐になるが、やり抜いてみせようじゃないか。
どこにいても、何をしていても、梵天丸が生きてさえいれば。それだけで剣を握るのに充分だ。
「不思議だ。今は窓の外の景色が少しだけ小さく見える」
「それは、梵天丸様がお強くなられたからでしょう」
「俺はまだ、自分のことは信じられない。でも……小十郎のことは信じる」
風が吹いて梵天丸の髪を揺らす。白い着物の袖をはためかせながら、梵天丸がこちらを見た。
光の加減か少し赤っぽくうつる。でも彼の目は澄んで、表情も穏やかだった。
母親との確執が消えたわけでも、彼の背負ったものが軽くなったわけでもない。これから先、何度だってこういう状況に遭遇するのかもしれない。けれど小十郎には確信があった。
彼は、生きる。生きて、見たこともない世界へ自分を連れて行くだろう。
退屈をしている暇なんてない。
「あの、前々からちょっとばかし気になってたんですけど、時折俺のこと小十郎って呼びますよね?」
「……ああ、喜多がいつもそう呼んでいたからついな」
「いえ!全然!」
「何だ、変な奴だな」
傅役としての体裁を整えるために奔走してくれた老臣には悪いが、やはり小十郎のほうがしっくり来る。
呼び名一つ拘ることもないのだが、無意識のときに梵天丸の中に小十郎と呼ばれる自分がいた。
今日、ここでこうしてはじまる瞬間のために。
「景綱……いや、小十郎。約束をしよう。俺が土地神としての力を失ったときは、必ずお前が殺してくれ。それまでは俺は死なない」
「神でも仏でもなく、梵天丸様に誓って約束します」
「……ありがとう、小十郎」
梵天丸が笑った。まだ少し痛みを残した笑いだったけれど、この上なく綺麗に。
守れるだろうか。信じていられるだろうか。この先何があっても傍に居続けることは出来るだろうか。
強くありたい。
見苦しくもがいて、傷ついて、そして生きてゆくのだ。ずっと一緒に。










肩で息をする。名も知らない誰かを斬った血糊のついた刀をはらう。
「死ぬ覚悟は出来てる。だが、死のうと思ったことは一度もねえ」
本当は、一度だけあった。
まだ政宗が梵天丸だった頃、小十郎が景綱だった頃に、一度だけ。
敵に切られて死ぬのではなく、病に抗えず死ぬのでもなく、ただ死のうと思った。
幼かった主君の心が流した血に耐えられなくなりそうになっていた。
それでも政宗が己の名を呼び、生きたいと願ったからこそ自分も彼もこうして生きている。
あのとき、多分梵天丸の右目と一緒に自分も一度死んだ。でも、もう一度命を与えられたのだ。
生きろと。死ぬのは許さないと。そして、共に生きてゆくことを許すと。
『我成独眼竜右目生涯』
政宗が元服を果たしたときに刀にそう刻んだ。志も望みも何もなく、退屈を持て余していただけの己にたったひと筋の光を与えてくれた。その光を見失わないように誓って。
あれからいくつもの季節を経て、父と死別や母との決別を乗り越え政宗は伊達家の当主となった。
十年が長かったのか短かったのかを推し量るのは難しい。若かっただけに十年後なんて遠い未来のような気がしていたけれど、その時はやってきたのだ。あの頃は想像もできなかった。
それでも、出会ったときの未成熟な魂はまだどこかでこだまの様に残って、小十郎をふと過去へと引き戻す。
そんなときは政宗のことを思い出した。自分の見つけた、ただ一つの光。
「どうした、ぼんやりしちまって」
すぐ傍で戦っていた政宗が敵を一掃したのを見計らって、同じように剣を携えたまま隣にやってきた。
「……懐かしいことを思い出しておりました」
「Ah?」
「貴方がまだ、梵天丸様と呼ばれていた頃のことを少し」
「そりゃまた、随分昔の話だな」
彼は強くなった。権力や剣の腕ばかりじゃない。自らを信じるだけの強さを持った。
人を遠ざけ、感情を押し殺し、自分の未来を薄暗い箱庭の中に定めていた少年はもういない。
目の前にいるのは、今や天下すら狙っている独眼竜の異名と多くの未来を背負う若き君主だ。
想像したとおり、それ以上にここまでの道のりは容易くは無かった。失うものや手放したものは少なくはない。
たったひとつだけ変わらないのは、自分は今でも彼の傍にいるということだけだ。
「ずっと聞こうと思っておりました。あなたは今でも、誰かの死を見続けているのですか?」
「!」
「たかが一度、偶然で禊をしたからといって貴方の背負ったものがなくなる訳じゃねえでしょう。政宗様は確かにお強くなられましたが、俺がやったことは本当に正しかったのか、今でも時々考える」
「正しいとか、間違ってるとかじゃねえだろ。実際に戦場に出るようになってからは、かなりコントロールできるようにもなった。一度もなかったって訳じゃねえけど、親父が死んでからは見てねえ」
政宗だけではなく、先代の早すぎる死は小十郎にとっても衝撃的な事件だった。
あれがきっかけとなって天下への志を強くしたのは事実だが、裏を返せば後戻りてきなくなったのだとも言える。
機に乗じて弟を擁立しようとしていた勢力を一掃し、内側に憂いのなくなった以上、戦乱の世に終止符を打とうと彼は決意をした。当然、小十郎に否やはない。
戦続きの日々の中で政宗はもちろんのこと、小十郎にも学ぶことは多い。一番堪えたのは、まだ幼い少女が起こした一揆だ。政宗の真摯な態度が通じて和解はしたが、あれほど後味の悪い戦はなかった。
生き急ぐように戦いを重ね、いつでも強気で不敵な政宗だが、前を向かせて天を見させて、逃げ道をふさいでいるのは他ならぬ自分なのかもしれない。
選んだ道に迷いも後悔もないが、ふと泡のような物思いにとらわれることはある。
それまで捨て去ろうと思ったら、それこそ人の世を捨てて仏門にでも入るしかないだろう。
意外な問いかけだったのか、政宗は隻眼をまるく見開いた。一瞬の空白の後、ふっと笑みを向ける。
「右目に何も映らなくなったのは、もう俺には必要ねえから。だって、お前がいるからな」
力がなくなってしまったのか、それともただ単に収まっているだけなのかは分からない。
ただひと時の不審死は減った。というよりも、からくりが見えるようになった。
先代から引き継いだ黒脛巾組。下働きとして城内にもぐりこんでいる間者を密かに屠るため、彼らの手による暗殺も中には含まれていたのだろうということだ。
勿論すべてがそうではない。中には理由付けできないものもある。
いちいち問いただしたりはしなかったし、政宗も殆ど口にすることはなくなった。小十郎にとって大切なことは主君が人であるかそうでないかではなく、政宗が己を信じ進み生きることだ。
聞いていなかったといえば、もう一つだけ気にかかっていたことがある。
「あの時、俺の死は貴方には見えたんですか」
「教えねえ」
「意地の悪い」
「そんなに気になるならこれだけは教えておいてやる。お前が死ぬのは俺が死ぬとき。俺が死ぬのもお前が死ぬとき。OK?」
「……何てえ殺し文句だ」
そこへ部下が一人息を切らせて飛び込んでくる。
狙っていた首の持ち主が先に現れたようだ。政宗は隻眼を不敵に細めると制止する間もなく愛馬に跨った。
慌てて付き従おうとする家臣たちの中で、小十郎だけは遅れずに手綱を握って追いつく。
「政宗様っ!一人でそのように先走られるなと何度申し上げたらお分かりか!」
「HA!遅れねえようについて来るのがお前の役目だろ!それとも、竜の右目は返上か?」
「ご冗談を!たとえ死してもその役目、他人には譲れませぬ」
「その意気だぜ、小十郎!天まで付いて来い!」
本音を言えば、天下なんてとれなくても構わない。片倉家も伊達家も滅びようとどうだっていい。
今自分が刀を振るうのは、ただ一人大切な人のためだ。彼の望みを叶える。
蒼い雷をまとって一心に天へ駆け抜ける竜のまっすぐな道行きを曇らせないように。
その、邪気に満ちた笑顔を守るために。
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