水溜まりが濡れた大地を鏡のように映し出した。 洗われてよりいっそう濃さを増したような青い空と、緑の木々に残る雫が静謐な世界を作り出す。 見慣れているはずの景色なのに、雨上がりだとどうしてこんなにも鮮やかで懐かしく思えるのだろう。 それははるか遠く海からの旅路を経た雲が運んできた、思い込みのような感情かもしれないけれど。 城までのわずかな道のりで殆ど言葉は交わさなかったが、繋がれた手が自分たちの間にあるすべてだった。 「梵天丸様!景綱!」 半刻ほどで城に戻った二人に、いくらか慌てた様子の綱元が駆け寄ってきた。 今のところ鬼庭家は後継問題については中立の態度を貫いている。だが左月は元々嫡男の綱元を忌み子と嫌われる梵天丸の傅役に推挙する心積もりであったというから、輝宗の意思に従う気はあると見ていた。 現に綱元も竺丸の傍付きだった人間とは違い、梵天丸から目を逸らしたりはせず平然としていた。 「綱元」 「於東様が探しておられました。……お屋形様のご容態が芳しくありません。医師の見立てでは今宵が峠であるとのこと。どこまで効果があるかは分かりませんが、祈祷師たちが加持を終えるまでお部屋で待たれますようにとの仰せでございます」 「……分かった」 義姫は梵天丸を厭い、恐れている。 実の息子に毒まで盛ろうとするくらいである。当主の突然の奇病を梵天丸の呪いだという噂がある以上、遠ざけるように仕向けるのは当然だった。 梵天丸はすっかり慣れ切っており、露骨なやり口に憤るのが自分ばかりなのが些か腹立たしいが。 二人の息子はまだ幼く、輝宗にもしものことがあれば伊達はどうなるのか。 先々代の外交の名残で辿ればあちこち網の目のように血縁が繋がっている。一波乱ないとは言い切れない。 最上の手のものが動いたのも、案外義姫のたくらみなのかもしれなかった。 伝言を伝えた綱元が、平然と梵天丸の傍にいる自分を見てかすかに嘆息した。 「景綱。お前は一応謹慎の身であることを自覚しているのか?今日はもう城下の屋敷へ下がれ」 「分かってます。梵天丸様をお部屋まで送ったらそのまま帰りますよ」 「頼んだぞ」 先の一件について詳しくは語っていないが、綱元なりに自分たちの奇妙な関係を理解してくれたのだろう。 繋いだままの手に目をやり、手を振って立ち去る。小十郎も梵天丸を促して居室のある本丸へ向かった。 忌み子の嫡男と乱暴者の傅役。閉じられた場所で歪つなかたちをしながらも育まれてきたものが、絆。 放すものか。やっと、掴んだのだ。 やはり父親のことが気がかりなのか難しい顔をしている梵天丸に声をかける。 「大丈夫ですよ。お屋形様はまだお若い。すぐに良くなられます」 「……あれは、まずい。土地の呪が、父上に降りかかっている」 「え……?」 「虎哉が言ってただろう。お前に会ってから呪が強くなっていると。本来土地の呪は当主が引き受けるもの。父上が呼び込みやすいのは道理なのだ」 「じゃあ輝宗様は」 「俺はあくまで器だからな。一度他人に降りかかったものを祓うことは俺にはできぬ。どこまであてになるか分からないが祈祷師と、父上自身を信じるしかない」 平然と口にはしているが滲み出る悔しい思いはあるのだろう。掴んでいた力が強くなった。 境遇がどうであれ、梵天丸は依代として存在している自分の価値を理解していた。輝宗の代わりに呪を収めていたからこそ、急激に乱れた奥州は危うい均衡を保ってこられた。 こんな小さな身体にそれを引き受けて、この国を守ってきたのだ。 ともすれば折れそうになる誇りを、ぎりぎりのところで守りながら。たった一人で。 それが人間であることを取り戻そうとしているのと引き換えに父親を失うことになれば、おそらく彼はもう二度と人間として生きる気持ちなど捨て去ってしまう。 いったいどこでこの連鎖は途切れるのだろう。 ただ生きたい。生きていて欲しい。一緒に。それだけなのに。 たとえ彼が何者であったとしても、梵天丸が望んでくれるのであれば自分は迷わない。 「俺は大丈夫だ」 部屋の前まで来たところで言い聞かせるように静かに言った。こわいくらい澄んだ眼差しで。 「さあ、もう戻れ。心配せずとも大人しくしているから。また父上が回復されたら呼ぶ」 「はい」 ゆっくりと指が離される。小十郎はただ頷くしかできなかった。安易な慰めなどしても意味がない。 薄暗い廊下を渡って外へ出るまで誰にも会わなかった。城内は不気味なほど静かだった。 皆が当主の無事を願って部屋で祈りでも捧げているのだろうか。 さきほどの梵天丸をゆっくり反芻する。何故だろうか。もともと表情豊かなほうでもないが、妙に晴れやかというかすっきりとした顔をしていたように見えた。 上手くは言えないがたとえば、覚悟を決めた人間がするような。 ―――嫌な予感がした。 彼はまだ自分に何かを隠している。ただの思い過ごしならそれでいい。ばたばたと廊下を引き返す。 「……最初から、こうすればよかったのね」 梵天丸の部屋から、女の声がした。声をかけるのも忘れて乱暴に戸を引く。 そこにいたのは、小十郎以外で唯一自らこの部屋を訪れるただ一人の女だった。 そしてこの世でたった一人、梵天丸の心の内側に住み着いている人間だった。 二人はお互いに手を伸ばせば届きそう、というくらいの距離を保って向かい合っている。 「梵天丸様!於東様っ!」 「来るな!」 駆け寄ろうとしたら鋭い制止が入り、小十郎は部屋の前で足を止める。 義姫はいつもの彩り鮮やかな着物ではなく、何の染めもない真っ白な着物姿だった。まるで死に装束だ。 艶のある黒髪、少し茶色を帯びた黒目がちな瞳。顔かたちそのものは似ているとも思えないのに、こうして見るとやはり梵天丸と血を感じる部分がある。 思い詰めるほどの気性の激しさも、心を傾けたものに対する情の深さも。 梵天丸と同じ、甘い花の香りがした。きっと、あの香木を選んだのは彼女なのだろう。 それと同じように思い知らせるように、我が子に毒を送り続けていた女。同じ業の意識を共有した相手。 但しどんな事情があるのだとしても、小十郎は彼女のことを許せるとは思えなかった。子供は親の所有物じゃない。そこに一人の意思も感情もある。でもそれだけでは量りきれないものが血。 多分、少しくらいは嫉妬も入っているのだろう。 「貴方が私の前からいなくなれば、それで終わるのだと思っていたわ。だってそうでしょう。お伽噺は化物がいなくなればそこで終わるんだもの」 うっすらと浮かべた微笑に少し夢を見ているような声音だった。対する梵天丸はわずかに瞼を伏せる。 「己が化物であることなど、自分自身が一番よく分かっています。それでも俺は、父上を裏切るような真似はしたくありません」 「梵天丸……可哀相な子、可愛い子。母様と一緒に、行きましょう」 ゆっくりと義姫の腕が伸ばされる。袖に隠れていた手の中には飾り刀が握られていた。 彼女が正気なのかどうかはっきりとは言えないが、理知の光は失われてはいなかった。 今までずっと、義姫は梵天丸のことを憎んでいるのだと思っていた。だから彼を貶め命までも奪うような残酷な真似をできるのだと思っていた。 そうじゃない。梵天丸のことを愛しているからこそ、国のため伊達家のため、過ぎる重荷を背負わされた我が子が不憫で痛ましくて耐えられないのだ。 愛情と憎悪は表裏一体。右目を失ったそのことより、右目が視るおぞましい未来を彼女は恐れた。 「待ってください、母上。俺を依代としているものがこのまま解放されれば、伊達はどうなるのです」 「呪は殿が治めます」 「ですが父上は只人です。そんなことをすれば命が危ない」 「それは仕方のないこと。だから人は絶えず子を作り、次代へと望みをつなげて行く。殿がお隠れになれば次は竺丸。そしてまたその次へ。ずっと昔から大地はそうして洗われ守られてきた……人の世に人ならざるものが紛れ込んではいけない」 「母上、俺は……」 「そなたには辛い思いばかりさせました。私が母としてしてあげられることはもうこれだけしかない」 かたんと軽い音がして鞘が落とされる。 鈍い銀の光を反射させながら、刀身に映し出されたものは何だったのだろう。 振りかぶった細い腕が清算しようとしたものは、未来だったのか過去だったのか。 ただ無我夢中だった。 駆け出して自分のことなど考えもせずに梵天丸を腕の中に抱き込む。 右腕に鋭い刺激が走った。痛いというよりも熱い。じわりと着物が濡れて斬られたのだと分かった。 「邪魔をするでない!」 殆ど悲鳴のような義姫の声。 そうか。この人はもう、何もかもを諦めてしまったのだ。 何も持っていなかった小十郎とは違う。何もかもを手に入れたはずの彼女が唯一奪われたもの。 取りすがっても戻らない家族の幻。そこから一歩も動こうとしていない。 こんなところで、梵天丸の先に続く道を終わらせたりはしない。 「景綱、血が」 「かすり傷です。どうってことありません」 じくりじくりと焼け付くような痛みが徐々にやってくるが、我慢すればどうということはない。 梵天丸は小十郎の腕の中からこちらを見上げる。大きく頷くと、まだ刃を握り立ち尽くす母親を見た。 「母上。俺は、死にたくありません」 「傅役風情に誑かされたか!」 「違います!俺自身の意思で決めました。俺は確かに化物ですが、化物にも命はあるんです」 「そのようなことが許されると思うのか」 「許されないかもしれません。ですが、俺が死んでも何も戻っては来ない。だから俺は生きます」 それは義姫だけでなく、小十郎にとっても驚きに値する言葉だった。 自分を嵌めてまで命を捨てようとしていた梵天丸が、はじめて言ったのだ。確かに、生きると。 義姫は敵でも見るような視線で小十郎を射抜き、唇を震わせながら苦々しく吐き捨てた。 「今に、後悔するときが来るぞ……!」 それくらい何度だってしてやる。 生きている限り、生きていく限りずっと同じところに止まってはいられない。 最善を選んだつもりでも、振り返れば間違いだってたくさん犯していくだろう。 それでも後悔すら間に合わなくなるよりずっと良い。 ごくりと喉が鳴った。沈黙に押しつぶされて凝固した空気が霧散していく。 飾り刀を投げ捨て黒髪を弧をかいて揺らすと、梵天丸をただの一度も見ぬまま踵を返して義姫は去っていった。 梵天丸はいつまでも、母の去ったほうへと視線を注いでいた。 「……梵天丸様」 「良いのだ。あの人はあんな風にしか俺を愛することが出来なかった。でも、生きてる。この俺に生きろと言ったからにはお前も一蓮托生だ。覚悟しておけ」 強がりだとは思ったが、それだって続けていけばいつか本当の強さになる。足踏みをしてはいられない。 「化物、結構。人でなくて何が悪いのです。他人を貶めて伸し上がっていくのが人であるならば、俺は貴方が人でないことを嬉しいとすら思いますよ」 畳の上に転がった飾り刀を拾って鞘に収める。鞘と柄には厄を祓う文字が刻み込まれていた。 もしもあのまま屋敷へを戻って間に合わなかったらどうなっていたのか、今更鳥肌がたってきた。 梵天丸は諾々と母親の望む運命を受け入れただろうか。 どのみち終わったことだ。今まで二人を縛り付けていたが、繋いでもいた糸は切れてしまった。 時間は一方通行で、引き返すことも取り戻すこともできない。ただその名残を仄かに香らせている。 考えてみれば皮肉な話で、決別することではじめて梵天丸は決して表に出すことの叶わなかった母の愛情を知ることができたのだろう。 梵天丸が拾い上げた飾り刀に手を伸ばした。そのとき。 「……なんだ……?」 ざわざわざわざわ。 泥濘を掬い上げたときに感じるような音と振動のあわいに表現しがたいものが、耳の奥のほうから湧き上がる。 ざわざわざわざわ。 梵天丸も感じたのだろう。周囲に視線を配る。耳鳴りがいっそう強くなる。 目覚めてはいけない。起こしてはいけない。それは、人の世にあってはならぬモノだから。 義姫の飾り刀に刻み込まれた祓いの文字は、災厄を消滅させるためのものだ。 彼女が祓おうとしたのは、一体何だ? 「梵天丸様!」 「……あ、ああ…ぁ…っ!」 梵天丸の身体から黒い靄のようなものが立ち上っていた。隻眼が紅に染まっている。 咄嗟に手を引くが、靄は徐々に黒い塊のようになって梵天丸と小十郎を飲みこみはじめた。 すぐに視界が利かなくなり、傍にいたはずの梵天丸の気配までも見失ってしまった。 痛くも苦しくもないが、本能がたまらず恐怖を訴えかけてくる。汚し、殺し、破壊しつくす。そこには草木の一本も残らない。生が本能なら、死もまた自然の摂理。 これが、梵天丸がずっと抱え込んでいたもの。神の依代に与えられた、強大すぎる呪。あらゆる災厄。 虎哉和尚と義姫が、一人の子供を犠牲にしてまでこの世に放たれないように閉じ込めてきたもの。 飾り刀を抜き払って一閃すると、一瞬だけその部分から靄が払われるが焼け石に水という程度で、すぐまた元通りに黒い靄は集まってしまう。 一体何がどうなっているのさっぱり理解できなかったが、尋常じゃない事態に陥っていることは確かだ。 「ちっ!」 このまま闇に捕らわれてはまずいというのは何となく分かったので、刀を振るい続けることで意識を保つ。 前か後ろかどこかから梵天丸の声がした。 「小十郎!早く行け!」 「行くって、どこに行けっていうんですか!」 「虎哉のところだ!本当に、抑えきれなくなる前に俺ごと祓え!」 「冗談じゃねえ!城ごと壊されても俺は……」 あなたを失っては。あなたが死んだら、生きてはゆけない。 大きく頭上で弧を描くように刀を薙ぎ払った。靄の隙間から梵天丸の姿が見える。 ―――射千玉の闇に、光一つ。 「貴方を死なせやしません」 |
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