有邪気/15
障子戸一枚隔てた向こう側から、予想通りの不機嫌な声が返ってくる。昨日よりも声に張りがあり、身体は順調に回復に向かっているようだった。
「もう来るなと言っただろう。聞えていなかったのか」
「一字一句漏らさず聞いてましたよ」
「……ならば何故来た」
一晩考えた。自分が梵天丸のためにできること。どんな知識も経験も役には立たなかった。
梵天丸の部屋を出た後、気がついたら城下の遊郭で混ざり物の多い舌にぴりぴりする酒を飲んでいた。
酒を注ぎながらしな垂れかかってくる女には覚えが無かったが、蜜と名乗った遊女には何度か世話になったらしかった。その場所を選んだのは遊びたかった訳じゃなく、単なる癖に過ぎなかった。
所詮偽物だ。どれだけ傍にいて心を傾けても、家族ごっこをしていただけの偽物に過ぎない。
傅役になる前と、状況は何も変わっていなかった。
動揺と衝撃の波が去ると、次は落胆と自暴自棄に揺り動かされそうになった。
踏みとどまれたのは女の唇が小十郎の唇を辿ったとき、ぴりとした痛みが走って梵天丸の生温い舌触りを思い出したからだった。性欲、ではなかった。でも確かに欲望の形をしていた。
腹が空けば食べればいい。眠たくなれば寝ればいい。欲求不満になったのならば女を抱けばいい。
ならば。
小十郎はそのまま遊郭を出て、屋敷へと足を向けた。しかし昨夜はめずらしく義姉が戻ってきていたようで明かりがともっていた。少し逡巡してから、屋敷には足を踏み入れずに城へ戻った。
酒量に対してあまり酔えなかったが、おかげで目が覚めた。
もう来るなといった声が、何度も何度も胸の内で反響している。
右目を抉り出しても梵天丸は変わらなかった。結局自分たちは他人同士で、本人が受け止め抱えていかなければならないことに何かをしてやれるなんて思い上がりだ。
ただ梵天丸の傍にいよう。その思いだけは変わらなかった。
それは理屈じゃない。損得でも可、不可でもない。心が引きあう力だ。繋がっている。
自分は偽物かもしれないが、手に入らない本物を嘆くよりも受け入れるのだ。それに付随する一切の面倒ごとも受け入れて、戦っていくのだ。
本物の輝きには敵わなくても、磨けば少しくらいましにはなるだろう。
夜が明けて、稽古と朝餉を済ませてから梵天丸の部屋へと向かうと、案の定冷たい返答があった。
もとより歓迎されるとは思っていない。結局また意地の張り合いでそのまま部屋の前に居座っている。
だが前に感じていたような焦燥感は薄れ、落ち着いた気分だった。
つまるところこれは梵天丸の問題、というよりも自分の問題なのだ。
期待や見返りを求めるのが悪いというわけじゃないが、相手の心に寄り添って痛みだって引き受けるような覚悟もなしに、自分の望みを上乗せしようとするから失望する。
本当に大切なら、本当に守りたいなら。求めることよりも知ることからはじめなければ。
「俺は梵天丸様の傅役です。貴方の傍にいるのが役目だ」
「くだらぬ。大体お前、沙汰があるまで謹慎を命じられていたのではなかったか」
「そうですね。別に減給でも首でも切腹でも構いません。俺はそれだけの覚悟を決めて貴方に刃を向けたつもりだ。でも、他の誰かじゃなくて梵天丸様の口から聞きたいのです」
小十郎の答えに梵天丸は押し黙った。
二人を隔てる一枚の扉。ずっとそれを梵天丸の心だと思っていた。でも本当は小十郎自身のものだったのかもしれない。知りたい聞きたい、分かって欲しい気付いて欲しい。相互理解なんて、十割自分のためとも相手のためとも言えないだろう。
お互いに探ったり見下しあったりしながら、打算も許容もぶちまけて噛み付かれたって、いいんだ。
持参した笛に指を添える。久しぶりだったので少し音が安定していないが、気の向くままに曲を奏でた。
我流で人に聞かせるような腕前ではないが、物悲しい笛の音はどこか懐かしい香りを帯びていて、消炎作用があるような気がする。
煩いとか文句が飛んでくるのも若干危惧していたが、障子戸の向こうでかすかに人が動く気配がした。
影が近付いてきてすぐ傍に座り込む。障子戸さえなければ、手を伸ばしたら届きそうなほどの距離に。
あの夜までとは何かが変わってしまったが、それは悪い方向ではなかったのだと信じたい。
梵天丸に出会う前の自分が何を考え、どのように生きてきたのか。もう思い出せないのだ。
結局その日一日中梵天丸は部屋から出てくることはなかったが、小十郎を遠ざけようともしなかった。
翌朝もいつも通り梵天丸の部屋へ向かった。
「片倉景綱」
聞きなれない声に呼び止められ、振り向いたところに男が立っていた。
相手には見覚えがあった。確か先日、綱元の元で立会いをした相手だ。睨み付けるような視線を向けられる。
「何だ」
「梵天丸様の目を、切り取ったそうだな」
「どっから聞いた?男の噂好きはみっともねえぜ」
今のところまだ右目の件は公にはしていないが、人の口に戸は立てられないとはよく言ったものだ。
小十郎の処罰に関してはまだ保留中である。輝宗直々の命令なので私刑をふっかけてくる人間がいるとは思わなかったが、相手が獲物を持っているところに首の後ろがぞっとするような嫌な感じがする。
「あんな呪わしいものを解き放つなど、お前はあの化物と伊達を乗っ取る気なのか」
「はあ!?何だ、乗っ取るってえのは」
「お屋形様が倒れた。まるで、梵天丸様が回復した代わりのようにな」
「……なんだと」
そんな話は知らない。城内にそんな喧騒は無く落ち着いているようにも見える。だが切り離されたような場所にいる小十郎の元へ入ってくる情報など知れているし、言われてみれば昨晩は義姉が屋敷へと戻っていた。
彼女は梵天丸の乳母だ。この城内で梵天丸の味方といえば、自分たち姉弟と父である輝宗くらいしかいない。
元々は虎哉和尚のたくらみで、梵天丸の呪を制御するために忌み子であるという噂は作られた。今では誰もが真実など知らぬまま、それを現実だと思い込んでいる。
いつしかその作られた噂は、一人歩きをはじめた。人の口から口へ。言葉には言霊が宿るのだという。そこに人の悪意が乗れば、それは呪にも匹敵するほどの恐ろしい凶器へと変貌する。
たとえば、誰かが梵天丸が父を呪い殺そうとしているなどといえば、それはどうなるのだろうか……?
分からない。分からないが、とてつもないおぞましいものがこの城を覆おうとしている。
おそらく義姉は数日暇を与えられたのだ。そして自分の元へやってきたこの男も同じことを。
「違うというのであれば、お前の手で斬れるか?」
「ふざけんじゃねえ!そんな馬鹿馬鹿しい話、真に受けるほうがどうかしてるぜ」
「では何故、梵天丸様はそれを否定しない?お屋形様も於東様も忌み子と呼ばれるのを放置されている」
「それは……」
こちらの逃げ道を塞ぐような問いだった。それはそうだろう。いくら面と向かって言わずとも家臣たちの評価はどこからか伝わるものだ。
九歳になっても殆ど人前に出ることもなく、隠棲生活を続けることが普通の子供であるはずがない。
誰の入れ知恵かは知らないが、もしかしたらこの男は知っているのかもしれない。
梵天丸が、只人ではないことを。
「お前に悪いようにはしない。しばらく城下の屋敷で大人しくしておけ。数日でカタはつける」
「はいそうですかと、引き下がると思ってんのか?梵天丸様は何もしちゃいねえ」
「何かあってからでは遅いのだ。梵天丸様はただ生きているだけで、もはや伊達にとって災厄をもたらすだけの邪神となり始めている」
「!」
起こり得たいくつかの可能性の中で、最悪の事態になろうとしていた。
外聞もある。まさかいきなり斬り捨てるなどということはないだろうが、梵天丸が危ない。
「忠告はした。邪魔はしないほうがお前のためだ」
「冗談じゃねえな。俺の主君は梵天丸様だ。たとえお屋形様を敵にまわしても、それは譲るつもりはねえ」
「殺し合いは禁じられている。だが、大人しくしてもらう」
男はそういって刃を見せた。本城の裏手のほうで周囲に人はいなかったが、城内で堂々と抜刀するなど正気の沙汰じゃない。浅い溜息を零した瞬間、身体中の血が熱を帯びて目の前の獲物だけに神経が集中する。
自分の前で剣を握った。それ以上の理由なんてない。
刀を鞘から抜き放つ。傷一つない濡れ光るような美しい刀身が現れる。名はなかった。
どちらが動くのが早かったか。刃と刃がぶつかり、甲高い悲鳴のような音がする。
先日試合をしたときはそれほどの使い手だとは思わなかったが、今日はそうじゃなかった。自分と同類だ。試合よりも殺し合いで力を出す。
真剣でしか味わえない緊張感に、血がどんどん熱くなる。身体のどこかが、歓喜している。
数度打ち合ったところで相手の癖を掴んだ。竹刀のときよりはずっといい動きをしているが、それでも自分のほうが上だ。あとは時機を見計らうだけ。木々のざわめきも自分の鼓動も相手が地面を踏む音も遠くなる。
次だ。次、打ち込んできたところに隙ができる。あと、一歩。
この瞬間を待ちわびていた。いつどこで何をしていたって、心のどこかで。
「―――小十郎!」
斬り込もうとしたところで、思いがけない声が飛び込んできた。
一瞬の空白にすかさず相手が身体を離しにかかったが、小十郎は足を振り上げて地面へ蹴り倒した。
喧嘩で仕込んだ技は実戦では役に立つ。倒れこんだ男の首筋を刃の峰で打ちつけた。一瞬で昏倒する。
がんがんと銅鑼を打ち鳴らすような酩酊を覚えながら、荒く息を吐く。気持ちが悪かった。
あのまま斬りつけていたら、間違いなく殺していた。とんだ醜態だ。
ぐっと心臓を真上から押さえつけて、呼吸と鼓動を落ち着けさせる。
「……梵天丸、様」
何故、彼がここにいるのだ。
真剣で斬りあう現場にも恐れは見せず、あの静かな眼差しを無表情に浮かべていた。
自室からも滅多に出ないのに、まだ傷が癒えぬ身体で一人でこのようなところまで出てくるはずがない。
だがそれは夢でも幻でもなく、自分の小さな主君だった。
「城内での私闘は許さぬ。これ以上続けるようであれば、父上に厳しく処断して頂くことになる」
相手はもう完全に気を失っている。もともと相手から仕掛けてきたことだ。小十郎は刀を鞘に収めた。
戦場以外で振るったのは初めてだ。
「何故、ここにいるのです」
「何故とはこちらの台詞だ。このような場面に遭遇するとは思わなかったぞ」
「……この者、おそらく梵天丸様を」
「知っている。俺も気になることがあって出てきたのだがな――景綱」
梵天丸の指が小十郎の左手をゆっくりと撫でた。びくりと手を引く。
自分の身体にまだ血のざわめきがうすくべったりと残っている気がした。
知って欲しくない。泥の中をさらうような深い闇や、血の奇妙な温かさや吐き気のする生臭さなんて。
だが梵天丸は離さなかった。
「お前はお前の主は俺だと言ったな。ならばこの手をお前自身のために汚すことは禁ずる。お前が手を汚していいのは、俺のためにだけだ」




奥州を覆う空の地肌に亀裂が入り、にわかに暗灰の腸を覗かせていた。
小十郎は梵天丸の少し後を付きしたがって城の外へと出た。湿り気を帯びた雨の気配にも頓着せず、梵天丸はどこかを目指しているようだった。
しばらく黙ったまま歩いていると、初めて梵天丸と言葉を交わした日のことを思い出した。
射竦めるような視線にぞくぞくとした。あの時は、あの情動が何かなんて考えもしなかった。
いつの間にか、小十郎自身にさえ分からないかたちでそれは愛しいという感情へと変わっていた。
女であれ子供であれ動物であれ、そういうものに心を動かされたことがなかっただけに、どうにも名状しようが無くずっと溜まっていたけれど、死んでもいいというような激しさもただまどろむだけの穏やかさも、根っこにあるものは同じで。
ここまで来た。考えもしなかった未来が今足元にある。
「来い」
少し高い木々に囲まれ見通しの悪いところで梵天丸が立ち止まると、短く呼びかける。
「……なっ!」
自分以外誰もいなかったはずが、二人の間を割る風のようにどこからともなく人影が現れた。
咄嗟に刀に手がかかるが、梵天丸の手が静止した。
表れたのは飾り気のない黒い衣装に、顔半分をかくす覆面をつけた小柄な人影だった。顔かたちどころか年齢も性別も不肖だ。
人影は懐から小さな紙片を取り出すと梵天丸に渡す。梵天丸がそれを見て頷くと、現れたとき同様に音もなく飛びずさりそのまま姿を消した。
紙片を着物の袂に仕舞いこむと、固まる小十郎のほうを振り返った。
「俺が使っている草だ。気にかかるところがあって虎哉のところへ放っていた」
草とは隠語で、表には出ず諜報や偵察を請け負う忍びのことである。
伊達に限らずどこの家でもこの手の諜報役は抱えているものだが、大将や軍師ほどの重要な役職以外の人間が接触することはない。
「何で貴方がそんなものを」
「忌み子では普通の臣下は持てぬからな。忠誠や義理ではなく契約で動かせる人間のほうが都合がいい」
「……それも虎哉和尚の入れ知恵ですか」
「いや。これは父上が俺のために用意してくださったのだ。何れ必要になるからとな。他国に放つことは殆どないが、俺の代わりに城内でも何かと情報を集めてくれるので便利ではあるな。どうやら最上あたりの入れ知恵で、療養のためにと俺を城の外へ出そうと画策していたらしい」
なるほど。梵天丸の地獄耳の秘密は、まさに影の耳が動き回っていたわけだ。
療養を理由に城を追い出され、そのまま隠居させられることは少なくはない。輝宗を頼りに出来ない以上、梵天丸も一度城から出てしまえば再び城へと戻るのは難しくなる。そうなれば当然、跡目の話だって危うい。
子供だから、忌み子だからという理由であらゆる自由を制限されて、それでも健気に母を想う梵天丸を利用しようとする輩たちに反吐が出る。
「やっぱりもう一発くらい殴っておきゃ良かった」
ぽろりと漏れた愚痴に、梵天丸の口から溜息が零れた。だがそれは不快な音をしておらず、少し困惑を孕んだような物憂げなものに聞えた。
「お前は、不思議だ。俺がお前を利用しようとしていたことを知っても、心根が何も変わっていない。どうして、化物のためにそこまでできる?」
「梵天丸様が言ったとおり、俺は貴方を殺そうと思った。でもそれは俺自身の弱さが招いた迷いで、貴方がどう考えていたかとか、まして何ものであるかなんて関係ない話なんです」
「俺にとってお前が何であったのか、と聞いたな。曰く付きの上にこの見てくれだ。ひれ伏すふりで誰もが俺を目に入らないものとして扱う。だがお前は俺から目をそむけなかった」
神事において忌みとはその災厄を避けることを指す。たとえ噂であっても、不安は容易く人の心に入り込む。竺丸に付き従っていた者たちがそうであったように、忌み子とはそこにいない者のことである。
「だからお前なら、俺のために死んでくれると思った」
本当にどうでもよかったのだ。梵天丸が救われるというのであれば、自分は何でも差し出しただろう。
でもそれでは途方もない時間をかけて連綿と続いてきた命に真に報いたとは言えない。
「本当はずっと、己が生きていることなど無駄なのだと思っていた。そんな時、お前が現れた」
皮肉なことに、梵天丸そこで死の強烈な誘惑に気付いた。そして少しずつ心を開く素振りで小十郎を懐柔し、刃を向けさせるところまでは思い通りに進んだ。
梵天丸は勿論のこと、小十郎自身にも予想できなかったのはそこで小十郎の中に同情や憐憫ではない、忠誠というものが芽生えていたことだった。
この人を死なせたくはない。貴方のいない世界など、無味乾燥だ。
共に死ぬ覚悟があるのならば、共に生きることだって覚悟一つ。
この世に生を受けた瞬間から、いつか必ずやってくる最期の瞬間までほんの百年足らずだ。
生きてみるのも、そんなには悪くない。
「死んで望みを叶えるくらいなら、一度くらい生きて望みを叶えてみませんか。貴方が生きてることに無駄なんてありはしません。少なくとも、俺は貴方に生きていて欲しい」
「どうやって信じろというのだ。こんな役に立たぬ身体と、制御もできぬ力を抱えて」
「そのお身体も、力も、心も全部梵天丸様だ。貴方は自分のなさりたいことをなさりませ。俺がお守りします」
「望みなど、考えたこともない。俺の道は俺が決める」
「構いませんよ。たとえどんな道であっても俺はその道の後ろを着いて行くだけですから」
「大体、お前にはもう顔を出すなと行ったはずだ。あの場で会ったのは偶然にしろ、着いて来ていいとは言ってない」
「駄目とも言われてませんよ。言ったはずだ。俺の主君は梵天丸様だけです」
視界の端っこで閃光が走った。ぽたり、と梵天丸の足元に落ちた雫の正体を確かめる前に、雲が堰を切ったように激しい雨を注いだ。煙った視界の向こう側にいる梵天丸は、ひどく幼く見える。
銀糸をかきわけるようにして梵天丸の身体を抱き上げ、そのまま走り出した。
まるで感情まで洗いさるすように、雨は勢いを殺さない。
小十郎は咄嗟に鷹狩りのときなどに使用する小屋を思い出し、濡れながら駆け込んだ。
長い雨にはならないだろう。ずぶ濡れの身体を抱き寄せたままずるずると床に座り込む。
梵天丸の長い睫毛に雫がたまって、瞬きをすると涙のように零れ落ちた。
じっと黙ったまま、雨と心臓の音にだけ耳を傾ける。
「望み、か。ずっと力を言い訳にしていたが、俺が光と共になくしたのは人の心だったのかもしれぬ」
梵天丸が小十郎の胸に頭をくっつけたまま、ぽつりと呟いた。
「いいえ、梵天丸様。あなたは何もなくしてなんかいない」
自己犠牲を押し付けて、無理やり彼に生を選ばせた。
本当に、本当に人でなしは一体どちらなのか。
「……たすけて」
細く、蚊の鳴くような声で、でも確かに聞えた。
―――自分は何て愚かだったのだろう。
どんなに頭が良くとも、人の心を詠む術に長けていても、人ならざる力を持っていたとしても。
この子は、己を守る術一つ知らないただの子どもだったのに。
信じるより裏切り続けることでしか自分を守ることができず、針鼠のように寄り添ったものを傷つけることしかできない。だから人を遠ざけた。これ以上、誰も傷つけまいとして。
今、梵天丸の本心に触れた。
「貴方だけだ。梵天丸様だけが、俺を必要としてくれた」
たとえどんな形であったとしても、それは小十郎にとって言葉にしようのない衝撃だった。
全部を諦めたふりで、だだっ広い荒原を駆け回るようにしか生きられなかった自分にはじめて、違う世界を見せてくれた。それは窮屈だったけれど、別のところでは心を躍らせていた。まるで、春の訪れのように。
だから今度は、梵天丸のために生きたい。
「あの城で、俺は色んなものを捨ててきたつもりだった。でも、お前だけは手放せなかった……」
「ええ、これから先も離れるつもりはありません。でもその前に、城に戻ったら貴方の右目を抉り取ったことに対して処罰をしていただかなくてはなりません」
二人が生きるために。本当の主君と臣下となるために。
梵天丸は少しだけ考えて、一言だけ言い放った。
「死ぬな、景綱」
「梵天丸様」
「俺が決めてよいのだろう。主君命令だ」
「――仰せの通りに」
己の口元が笑っているのに気がついた。嬉しいときには笑うし、悲しいときには泣く。そんなの当たり前だ。
ようやく梵天丸が顔を上げて、小十郎のほうを見た。だが、扉の隙間から入ってくる光と同時に、慄くように身体を強張らせた。
「小十郎、お前……」
梵天丸の左目が見開かれ、夜行性の獣のように明度を落とした世界の中で紅く光る。
彼が見ている世界がどんなものか、自分は知らない。
同じものを見ても同じ言葉を話したって、自分の目に映っているものを相手も同じように映しているかなんて証明しようがない。
胸の痛むような矛盾を抱え込んで、それを飲み下したり見えないところでこっそり吐き出したりして、それでも自分では埋めようもない何かを他人に求めずにはいられない。人の性ってやつだ。
心を奪い合うように野蛮で、甘い。
梵天丸が神だか化物だか人間だかなんてきっと本当は些細な違いなのだ。たとえ梵天丸が何であろうと、自分は彼の前に傅いただろう。
誰かの意思なんて多分、そうなるべく進む運命の前では儚い夢みたいなもので、抗いようがないのだ。
惹きあった。それがすべて。
「今すぐこの場を去れ」
「いいえ」
「駄目だ、このままではお前も」
身じろぐ梵天丸の言葉尻を覆い隠すように雷鳴が轟いた。
雷、雷、そして天を裂く稲妻。
「貴方が死ぬなと言ってくださったのです。俺は、死にません」
一人と一人。その孤独な魂が出会った。
今は小さくてもそれは、いつかきっとこの天をも揺るがす力となる。
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