有邪気/13
いつも退屈だった。人生なんて、死ぬまでの暇つぶし。
酒にしろ女にしろ喧嘩にしたって結局のところ、行為そのものを楽しんでいたのではなく、それにまつわる僅かな高揚と時間の経過を求めているに過ぎなかった。
気まぐれと行きずりを繰り返しながらも行動原理は常に整然としていて、このまま老いて死ぬのかと思えば一抹の空しさは拭えなかったが、そのどれにも必死になるほどの興味も意味も見出せなかった。
剣だけはまだいくらか真面目な気持ちで向き合っていたと思うが、綱元に指摘されたとおり先を考えもしないまま強くなろうとしていただけだ。強さでしかものごとを量ることができない、それこそ動物の理屈である。
しかしそのうちに小十郎の腕を輝宗の重臣である遠藤基信が見込み、たかが神職家生まれの小姓に過ぎなかった自分に思いがけず武士としての道が開かれた。
初陣のときですら小十郎は落ち着いており、豪胆だと誉めるものもいたが何のことはない。怖いものがなかっただけの話だ。なくしたところで自分の命一つ。死ねば所詮そこまでの男だったというだけのこと。
すすんで死にたいと思ったことはないが、死ぬのを怖いと思ったこともなかった。
戦場で人を斬った。相手がどういう人間で、どういう思いで剣を握ったのかも知らない。痛みも感じない。
戦なのだから仕方ない。誰もがそういう。小十郎にしてみれば、そう考えること自体が無意味だった。
ただ己の前に敵として現れたから斬った。それだけだ。
投げやりな剣を振りかざして血を見るたび、自分はろくな死に方をしないだろうという考えが頭をよぎった。
虫けらのように朽ちて終わる。今日か明日かは知らないがそれも悪くはない。
自分ひとりで生きていけると信じていたときは、それでも構わなかったのだ。
だけど、見つけてしまった。一人では持ち得ない、誰かと分かち合うことでしか手に入らないもの。
憎たらしいこともままあるが、それ以上にいてもたってもいられない心境とはこういうことを差すのだろう。
守りたいものが、ある。
「お前が悲しむ?何故だ?」
空虚な静謐に覆われた部屋に、不気味な平静さを含んだ柔らかい声が広がる。悪意がないだけより残酷に。
くっと顎の先を持ち上げ、磨き上げた黒真珠のような目でこちらを見上げるその姿は、何かに挑んでいるように映る。存在そのものは不安定に見えるのに、牙を持って生まれてきたけものにしか感じられない鋭さを隠した。
一緒にいると、胸がざわめいて喉元に牙を突きつけられているような気分になる。
楽しいとか安らぐとかそういう感覚じゃない。梵天丸の前では気を張っていることのほうが多い。
自分がそんな高尚な思考を持ち合わせていないことはよく分かっているので、これが身分の高い者に対する緊張ではないことは明白だ。
それなのに離れがたい。離れられないと思う。
思い返せば、具体的に何があったというほどのこともなかった。
意地と意地の張り合いでも続けていれば、そのうちお互いに対して寛容も理解も生まれる。
正直に言えば、小十郎はずっとそれを鬱陶しいと避けて生きてきた。他人のためにそんな煩わしさを引き受けるのはごめんだと冷静に考えていた。
ずっと、思い違いをしていたのかもしれない。
人と人の絆は、別々の糸を結んでいく努力をしていくものだと思っていた。だからそっぽを向いていれば、ひとりのままでいられるのだと思っていた。
けれど、怠惰な時間を過ごしただけでもそこに一人じゃない存在が生まれるのだとすれば、絆とは解けないように繋ぎ続けてゆくことからはじまっているんじゃないだろうか。
はじめ、自分たちの間には何もなかった。
身分も違えば境遇も年齢も違い、暮らしも思考も行動も理念も何もかもが相容れなかった。
手放せばそこまで。諦めれば、たやすく途切れてしまう。
どんな嵐の前にも決して解けない、たった一本の糸を絆をだったと思える日が来るのだろうか。
「俺の主君は梵天丸様です。たとえ於東様であろうとみすみす主を死なせはしません」
「お前は最初から口癖のようにそれを言うな。忠義を疑うわけじゃないが、その言葉は俺にとって何も意味のある言葉じゃない」
「知っています。貴方は最初から俺に興味なんてなかった。ただ、俺が怖いもの知らずで愚かだったのを哀れに思ったからお傍に置いてくださったのでしょう」
「そこまで分かっているなら、何故いまだにこんな茶番を続けている。ここ数ヶ月見ていてよく分かった。お前はこんなところで死にぞこないの化物の傅役などをしている男じゃない。それは請け負ってやる」
「梵天丸様にとっちゃ茶番かもしれませんが、俺は一生お傍にいると誓いました。誓いってのは守られるか破られるかをはかるものじゃなくて、守るための努力をすることだ」
梵天丸がかるく瞠目し、小さく息をつく。信じる直前で蹲るように。
一歩、二歩と近付いて細い腕を伸ばすと、小十郎の手から包みを奪い取った。
「諦められたら楽なのだろうな。だが俺は諦められぬ。こんな役に立たぬ目一つ、諦められないのだから」
九歳の子供が、これほどの憎悪を己に対して抱くのか。
梵天丸の瞳に端整な顔立ちに不似合いなほど厳しい光が宿る。憧れとも恨みともつかない、ただ強く。
彼が、本当に諦められないのは右目でも化物である己自身の命でもない。母親だった。
一番手に入らないもの。それを望み続ける限り何も諦めることはできない。そういう意味だったのだ。
「母上は俺を恐れ、憎み、こんなモノを産み出したことを心底後悔している。神の依代など引き受けてしまったから、本来死ぬはずだった俺が生き続けているのだからな」
「梵天丸様」
「右目のことはきっかけにしか過ぎない。あの時も本当は死ぬはずだった。生き延びてしまったことで、俺が本当に化物であることを母上は知ったのだろう」
自分はまだどこかで梵天丸のことを甘く見ていた。梵天丸は一度だって、自分を甘く見なかったのに。
でも指先に伝うほど少しの甘さだけが、許したり優しくしたりする芳しいひとしずくのもの。
人はそれを認めてはじめて、自分以外の誰かを受け入れることができるようになるんじゃないだろうか。
「……あなたは、何も諦める必要なんかない」
懐紙を持ったままの手を上から握りこみ、右手で頭を抱き寄せた。
抗わずにすとんとおさまる身体は、力を込めれば容易く壊れてしまいそうだった。
ここでずっと、二人きりの静かな生活を送っていれば何もなくさずに済む。
光の明るさ、土の温かさ、風の柔らかさを奪われたまま、綺麗な世界に閉じ込められて大人になる。
駄目だ、そのままでは本当に一人きりになってしまう。力とか呪とかそんなことは関係なく、持って生まれた牙を他人に向けるしかないけものになってしまう。
安っぽい憐憫、独りよがりな同情、好奇心に責任感。
はじめに会ったとき、小十郎の中に芽生えたのはそういったものだと思っていた。
それがそもそもの間違い。全部ひっくるめて梵天丸を欲しいと思ったのだ。
少しばかり意味合いは変わってしまったかもしれないが、二人の間で交わされた賭けは結果的に梵天丸が勝ったことになるのだろう。
怖いもの知らずだった小十郎にとって、はじめての怖いもの。
失うことが怖いなんて、自分も随分と焼きが回った。今更、誰かにやれるものか。
学を治めて敏感に他人の思惑を嗅ぎ取れたところで、この子供は人の体温が温かいことも知らない。
硬質な近寄りがたさは裏返せば、血の繋がりに閉じ込められて危なっかしいだけだ。
すぐ傍で伏せられていた顔が不意に近付いて、ぬるい吐息が頬を撫でた。
至近距離からこちらを見る梵天丸にただ一つ残された目。
うすい水の膜で濡れた球体の表面は煌くように輝き、透きとおるほど鮮やかな虹彩を晒していた。
美しいとか清らかとかじゃない。ただ澄んでいる。そして何もかもを拒絶している。
傾きかけた夕日に照らされた輪郭が、ふわふわと存在そのものを曖昧に溶かす中で、それだけがぎらぎらとしていた。
「両目とも失っていれば、母上は俺に同情したのかもしれないな」
夢から目覚めたばかりの子供がする、妙にはっきりとしてどこか頼りない声が鼓膜に残る。
癒えない傷を隠す瘡蓋のように右目を覆う白い包帯。
この目だ。この目が梵天丸の内側に刺青のように止まっている。
誰もが口にすることはないが、この目がある限り梵天丸は一生劣等感を抱いていかなければならない。
義姫の心がもう手の届かない場所で決まっているのであれば、自らを貶める道具に使いこそすれ、もはや梵天丸に何ももたらさない右目を惜しむ理由は何もない。
梵天丸の右目を、切り取る。
たとえ運よく梵天丸が助かったとしても、主君に刃を向けた自分は腹を切らねばならないだろう。
死ぬのは怖くない。小十郎はそういうことに恐れを感じない。投げやりではなくその程度には傲慢だ。
愛と呼ぶには拙い、思い込みでも構わなかった。もう決めてしまったのだ。
「梵天丸様、その右目はどうしても捨てられませんか」
「たとえ役に立たずとも母上から頂いたものだ。無下にはできぬ」
「……そうですか。では敢えて言わせて頂きます。貴方と於東様の間で何があったのか俺は知りません。でももう於東様のために右目にしがみつくのは終いにしませんか」
「!景綱、お前」
「貴方の右目を俺にください」
伊達も片倉も名誉も家督も自分の命すらどうでもよかった。
この子どもが、ただ笑ってくれるのならば。
たった一度きりでいい。心の底から、幸せだと思える瞬間を与えられるのならば。
一つしかないこの命、かけても惜しくはない。
自分が死んだ後、梵天丸はどうなるのだろうか。そのことだけが少し気にかかった。
「だが、俺の身体は依代だ。傷を付ければ何が起こるか俺にも分からない」
「俺だって分かりませんけど、貴方の力ははもうこんな小さな場所で抑え込める程度のものじゃなくなってるんじゃないかと思う。ならば顔を上げて、外の世界で人として生きてみませんか」
梵天丸はおそれている。
人の中にあるあたたかな息づかいにひそみ、かすかな熱をはなつものたち。
笑ったり泣いたり、触れたり話したり感じたり、第三者にまつわること。
化物のままでいれば、誰も自分を傷つけることなど出来ない。そう頑なに信じている。
だから、人になりたくないのだ。自らを化物だと嘲笑う同じ唇で。
「虎哉和尚は、貴方の力が最近強くなっているのは俺が原因だと言いました。他人と関わることで感情の制御ができなくなっているせいで呪が強くなっているのだと。だから、俺だけじゃなくてもっと沢山の人間と関わってください。人が何を見て何を考え何を想って生きているのか、知ってください」
「仮に虎哉のいうことが真実であるなら、逆効果ではないのか」
「感情が動くのは貴方が人を知らなさ過ぎるからだ。俺が思うに貴方はもっと人として生きなきゃ駄目なんだ」
小十郎は伸びた梵天丸の髪の毛を掻き揚げ、じっと見つめた。
きっと自分以外誰も見たことがない、深い夜空の向こう側で煌く静かな星のように紅と濃紺に揺れる眼差し。
望むことが許されるなら、どうかすべてを捨てて欲しい。
伊達家も奥州も家族も名前も捨てて、誰も彼を知らない遠い場所で平穏に暮らして。
でも梵天丸はそれを選ばない。この強い魂を押し込めることなど何ものにもできやしない。
自分が守ってやる。たとえ、何が起こったとしても。
「――分かった。この右目、お前にくれてやる」




給仕場に潜り込み、熱湯で脇差を消毒して水や晒し布などを用意してから部屋へと戻った。
梵天丸は別段緊張しているような気配も無く、じっと窓の外を見つめていた。
刷毛でひいたような薄雲をたなびかせながら、灰色交じりの空が暮れて行く様子を見ると、小さな胸騒ぎを感じることがある。今日もまさにそうだった。
遠くに見える山の陰が濃く塗りつぶされていくと、心臓がぎゅっと押されるほどに強くなった。
柄じゃないが、緊張しているのは自分のほうなのかもしれない。
自分は医者ではない。下手をすれば命が危ないかもしれないのに当の本人は平然としたものだ。
母親に与えられた毒を後生大事に溜めていたのだから、もう死に対する恐怖などどこかへ追いやってしまったのかもしれない。こんなところまで、自分たちは似ている。
白い着物が本当に死に装束のようで、小十郎はごくりと込みあがるものを飲み下した。
この人を、死なせやしない。
「梵天丸様、失礼します」
包帯を解くと下からは以前見たときよりも盛り上がりがひどくなり、今にも垂れ下がりそうな眼球が表れる。
生々しい病の痕。でもこれは、彼が生きようとした何よりもの証ではないだろうか。
傍らに置いた脇差を左手で持ち上げる。安定させるために梵天丸の身体を横たえ、肩を押さえつける。
銀色に光る切っ先を向けても顔色一つ変えなかった。
ふと頭の隅っこで呪いのように囁く声を聞いた。
もしも上手くいって、自分が考えたように梵天丸の力が制御されるようになったとして、自分がいなくなった後、また梵天丸は一人でこの薄暗い部屋で過ごすことになるのだろうか。
自分ほど簡単に梵天丸に尽くす人間が表れるとは思えない。人嫌いの忌み子に逆戻りするのでは、こんなことをしても無駄なんじゃないだろうか。ならばいっそのこと。
手が震える。情けねえ。己を叱咤する。人ひとりいなくなったところで、そんなことはこの広い日ノ本において些細なことにしか過ぎない。一たび飢饉が起これば、貧しい農民たちは何百人と死ぬのだ。
それは眩暈を覚えそうなほどに甘美な誘惑だった。
殺そうと思った。
今なら、殺せる。こんな世界からも母親からもこの人を解放できる。
この人を殺して、返す刀で自分も死ぬ。
そうすれば、梵天丸が手に入る――永遠に。
一つ息を飲み込み、刃を振り上げた。
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