有邪気/12
丸一日の休暇を願い出たとき、梵天丸は眉一つ動かさず好きにしろと呟いた。
梵天丸の様子がおかしくなってから三日が経過している。最初に見せた、まるで手負いのけものが見せる凶暴さを含んだ怯えは姿を消し、表面上は落ち着いてはいるが事態が進展したわけじゃない。
小十郎が身の回りの世話をするのにも限界がある。何よりこの状態のままじっとしていられなかった。
「朝餉は俺がお持ちします。昼は申し訳ありませんが誰かに部屋の前まで運ばせますので、必ずお召しになってください。俺がいないからといって肉を残されませんように。夕餉までには戻るように致しますので」
「分かっている」
釘を刺すと、普段あまり表情らしき表情を浮かべない端整な顔立ちに、かすかにふて腐れたような色が混ざる。
領主家に生まれたが故の宿命かもしれないが、周囲は大人ばかりという環境にくわえて、得体の知れない力と心ない流言のせいですっかり心を閉ざしてしまった梵天丸にとって、たとえ隙間だとしてもこうして感情を見せてくれるのはよい兆候だろう。
傅役としての責任感だけじゃない。ただ単純に梵天丸が新しい顔を見せてくれるのが嬉しいのだと思う。
人の親になったこともなければ、とてもまっとうな育ち方をしてきたとは思えない自分に子守など無理だと思ったが、回り道をしながらも何とかやってこれている。
顔を合わせ言葉を交わし相手を知り。そこに相手の意思があれば、結局人と繋がっていくということだ。
朝目を覚ましたとき、一番に梵天丸の顔を思い浮かべる。
食事をしているときも、剣を振るっているときも、書物を読んでいるときも――他の誰かを腕の中に抱いたときでさえ、梵天丸の存在が自分の中にある。傍にいても、離れていても。
そこにあるのは確かなのに、喉の奥にずっと溜まっているような、自分でもよく分からないもどかしい気持ち。
でも心の底から誰かを想うその感じは、ほんの少しだけ恋に似ている。
馬鹿げた物思いにしろ、友情とも敬愛とも分類できそうにないそれは歪つで、甘くもなく優しくもなくいつか心臓を止めてしまいそうなほどに激しくて、儚い。
だからこんなにも必死になるのだろうか。またどこかへ駆け出そうとしているのだろうか。
かつてどこまででも一人で走っていけると思った。今はもう一人では走り出せなくなったのかもしれない。
振り返れば自分のこと、ではなく誰かのことを考えながらというのは初めてのような気がする。
19年守り続けてきたものが崩されるのは少しばかり癪だったが、否定するよりも克服したかった。
長く果てのない道だとしても、その先にあるものを手に入れたい。
梵天丸が言ったのだ。この手は、大きなものを掴み守る手だと。
翌朝早くに準備を整え、虎哉和尚の寺へと馬を走らせた。
大人しい性格に理知の目をたたえた愛馬は、初陣後しばらくして輝宗に与えられたものだった。
たいした手柄をあげたわけでもないのに特別な計らいに分不相応だとの声もあったようだが、輝宗はだからこそこれから必要になると周囲を黙らせてしまった。
穏やかそうに見えても、ひとたびこうと決めたら強情なところがあるのは梵天丸と一緒だ。
実際、その次の戦では手柄とまでは行かなくても、輝宗に恥を欠かせないだけの働きはしたつもりだ。
一人で駆ければ、一刻ほどで目的の場所にたどり着いた。
表で掃除をしていた若い修行僧が自分を覚えていたらしく案内をかってでたが、梵天丸の使いではなく所用だからと断って一人で本堂へと向かった。
先日と同じように淡々と読経を唱える声が響く。乱れない声は神仏への祈りなのか、それとも人への慰めなのだろうか。
特に気配を殺しはせず堂内へ立ち入り、終わるまで静かに待った。
「景綱か」
声がやむと一呼吸置いて、自分が来ることを知っていたように落ち着き払った様子で確認する。
ならば話が早い。面倒な挨拶や前置きは抜きにして、座りもせずに和尚の背中に言い放つ。
「梵天丸様を忌み子だと、他のものから遠ざけるようにしたのは和尚なんですね」
少しの沈黙があった。肯定の返答だった。
「さすが、鋭いな。殿や梵天丸様が言ったわけでもあるまい。どうして気付いた?」
「少し考えれば分かります。理由もなく大の大人が根も葉もない流言を本気で信じ込むなんておかしい。それに和尚は俺が気付くことも、知ってたんじゃないですか」
「それは買いかぶりすぎだ。ただ、気付かれても構わんとは思っておったがな」
数珠を携えたまま振り返る。人を食ったような物言いは変わらないのに、何故か先日よりも少し年をとったような印象を受けた。
考えてみれば僧になったということは、出家して人の世を捨てたということである。
小十郎も裏切られたり痛い目を見たり、他人を信じられなくなる経験をしてきた。自分だけじゃなくて大概の人間は多かれ少なかれ、そんな痛みと引き換えにして疑うことを覚えるのだ。
朝と夜のように繰り返す人の世の真理で、それだけでは絶望には足りない。
知ることはないだろうが、彼は自分には想像もつかないような深い絶望で人に背を向けたのだろう。
良し悪しを論議するつもりはない。本人の持って生まれた強さ弱さとは関係なく、そうすることでしか生きられない人間がいる。自分が剣に支えられて生きていたように。
だが人として生まれた以上、人であることはやめられない。
だからこうして山の奥に居を構え、他人を遠ざけながらも、輝宗の要請に応じて教育係を引き受けたのだろう。
小十郎は和尚が梵天丸に見せた慈しみが作り物だとは思えなかった。だから尚更疑念は深くなる。
「何故なんですか。少なくともこの間会ったとき俺は、あなたが梵天丸様に悪感情を抱いているようには見えなかった。なのにどうして貶めるような真似が必要なのです」
虎哉和尚は少し考えるような素振りをし、振り払うように話しはじめた。
「梵天丸様を本当の化物にしないためだ。人と関わればそれだけ感情を強く持つし、もし武人として生きることになれば血で身体が穢れる。今の状態が人のふりをして生きるぎりぎりの状態なのだ」
「あれがまともな子供の暮らしですか?」
「お前ももう気付いているはずだ。確かに梵天丸様はまだ幼いが、同時に人ではない存在。本来であればとうにこの地を去り、人と関わらず生きていくモノなのだ。それをこの地に留めて我が子として育てたいといった殿のお気持ち、そして応えようとなさる梵天丸様に最善を尽くしたいとは思っている」
「お言葉ですが、俺には和尚と大殿がしていることは、可哀相な小鳥を安全な籠に入れて庇護してるようにしか思えない」
「その庇護がなければ、死んでしまう鳥だっている」
「でも鳥は、本当は空を飛びたいのかもしれない。外の世界には鷹もいるし風も吹くし危険かもしれないけど、籠に布をかけてそれを遮る権利なんて誰にもないはずだ」
空を、光を、風を、外の世界を知らないまま死ぬまで箱庭のような世界で生きる。
色んなものを抑制しなくてはならないが、何ものにも傷つけられずにすむ。どちらが幸せなのかを安易に断ずることは出来ない。だが、子供だからという理由でそれを大人が押し付けていいわけじゃない。
どんな困難が待ち受けていたとしても、自分で選んだものであれば、苦しみも傷も引き受けて生きていくことが出来るような気がするのだ。
「ふふ、青いな。儂はお前のその真っ直ぐさがいいように梵天丸様に働くと思っておった。儂とてはじめから人を遠ざけようとしていた訳ではない。だから傅役の話が出たときも反対はしなかった。だが景綱、お前と会ったことで梵天丸様は少しずつ変わり始めている。他人と触れることで、感情を覚え始めた」
「たとえどんな力を持っていようと、梵天丸様には心も感情もある」
「だから悩むのだ。昨晩殿から内密に書状が届いてな、お前が来たのは丁度良かった。――最近になって何人死んだ?」
「!和尚、それは」
「梵天丸様がお風邪を召されたそうだな。それから長雨があり、今度は人が死ぬようになったと綴られていた。景綱、何か、梵天丸様とあったのではないか」
急激に力が弱まった理由。他ならぬ自分に関わることがきっかけなのだと言っている。
梵天丸の驚きと不安と若干の切なさの混じった顔がよみがえる。あの夜、戯れのように唇を重ねられ、そして一生傍にいると誓った。
自分の存在は、いつか梵天丸にとって危険になるのかもしれない。
でもそのいつか、を恐れていては今何も出来なくなってしまう。
「以前から危惧はしていたが、お前が仕えるようになってから呪を抑える力が弱まってきておる。それは間違いない。あの方の意識は呪を抑える扉なのだ。まだ幼いために些細な感情の動きでも抑制がきかなくなるのを抑えるため、あのように仕向けていた。
複雑な環境と事情のせいで、あんな奇妙な人格形成がなされたものだとばかり思っていた。
だが事実はより無情だった。わざと梵天丸は感情を持たないように育てられていた。それが悪意からではないのだとしても、小十郎は衝撃に言葉を失った。
「あと十年。そこまで成長してからであれば、感情の制御もできるようになるはずだ。だがお前は儂たちが考えていたよりもずっと深く、梵天丸様の心を変えてしまった」
「俺の年になるまで今のままでいさせる気ですか!?あんたは梵天丸様を何だと思ってるっ!」
楽しいことや良いことばかりではないが、時間は戻らないのだ。子供から少年へと変わり、青春を過ごしてやがて大人へとなっていくその時間は、戻らない。決して。
八つ当たりだと知っていたが、平然と述べる姿に怒りを抑えることが出来ずに思わず声を荒げてしまう。
「景綱。何かあったとき、一番傷つくのは梵天丸様ではないのか」
ゆっくりと頭に上った血が下がってくる。
輝宗も虎哉和尚もそれがどれほど梵天丸を傷つけることになるか分かっていても、心を鬼にしてその決断をしなければならなかった。理解はできるが到底受け入れられるとは思えなかった。
自分の考えが浅はかだからかもしれない。でも諦めることを度量や優しさだとは思いたくない。
和尚は深い悔恨を含んだ声で続けた。
「梵天丸様はご聡明な方だ。儂ごときの考えなどとうに気付いておるかも知れん。それでも殿と、そしてお東様のために人として生きようとしておられる。儂はあの方にはじめて会ったとき、心底恐ろしいと思い今でもそれは変わらない。だが、人として生きようとする姿を信じていたいと思うのだ」
「人だとか化物だとか、そんなことは俺にはどうでもいい。人であろうとなかろうと梵天丸様は梵天丸様だ。和尚、俺は梵天丸様のお傍を離れるつもりはありません」
一生傍にいる。そう誓った。それが自分と梵天丸のすべてだ。
和尚が和尚なりの義を梵天丸に尽くすというのであれば、自分は自分の義を尽くす。相容れることは出来ないが、責めることだって出来ない。梵天丸に危険が及ぶのであればこの身を盾にしてでも受け止める。
こちらを見上げた目が少し眇められる。何かを量るような、少し笑ったような、どちらにもとれるように。その下に刻まれた皺の深さに、先ほど会った時の違和感の正体を知った。
本当に老け込んだというよりも、相互理解の度合いが増えたということか。ようするに精神的な問題だ。
一礼して本堂から出る。少し遅れて、声だけが背中を追ってきた。
「あの方は神であり呪でもある。只人と同じような考えなど持ち得てはおらぬ。義を通すことも裏切ることも、何とも思わないかもしれない。その時、お前は梵天丸様を信じられるか」
「俺は俺が信じたものを信じる。だから梵天丸様を信じます」
「そうか……分かった」
誰かを信じぬくということは、何があっても自分の中から相手を諦めたり投げ出したりしないこと。
今は壊れそうなほどに弱くても、あの夜の誓いを守るための努力を続けていれば、それは本当になる。
城までの道を馬で走りぬけた。頭のてっぺんからつま先までを鈍い痺れが駆け抜ける。
きっとこれは、流れ星だ。
自分と梵天丸と、二人の間を尾を引いて駆け抜けてゆく小さな、ひかり。




薄暗い廊下を抜けた先にある部屋には誰もいなかった。
いつも外の世界に焦がれるようにして窓際に座っている梵天丸の姿が見えない。
一瞬どきりとしたが、昼餉の膳は片付けられているし、さきほどまで誰かがいたように開きっぱなしの書物が置いてあるので、厠にでも行っているのかもしれない。
本来であれば主のいない部屋に入るなど言語道断の僭越であるが、梵天丸も自分もそのようなことにこだわる性質ではない。室内で待つことにして隅っこのほうで居住まいを正すと、ふと視界に入ったものがあった。
梵天丸が使用している道具箱である。代々受け継がれてきたものなのか、人の手で磨り減った鈍い黒光りを湛えた相当に年季が入っていることが分かる一品だ。梵天丸よりも輝宗よりも、下手をすれば先々代よりもはるかに昔からこの城にあるものなのだろう。
普段は気にも留めないものだが、丁度梵天丸の視線の高さにある引き出しが一つ開けっ放しになっていた。それが先日覗いていた場所だと思い出す。
微かな好奇心がむくりと起き上がった。所詮子供の秘密だ。そういう甘さがどこかにあった。
立ち上がって半分ほど引き出された棚の中をを覗き見た。期待していたようなものは何もなく、中には三角に折りたたまれた懐紙の包みが何個も入っていた。一瞬何か判断できなかったが、一つ摘み上げてみれば粉末状の白い粉が入っている。
薬に見える。梵天丸にはこれと言った持病はないはずだ。何故こんなに何個もあるのだろうか。
ふと、部屋から出てくる義姫の姿が蘇った。
人目を避けるようにして、愛せなかった子供に会いに行く母親。美しい顔立ちと、冷たい言葉。
バケモノ。何の躊躇もなくそう言い切った赤い唇。
瞬間的におぞましい考えが浮かぶ。それを打ち消そうとすればするほど、本能で確信を深めていく。
ごくりと喉が鳴った。部屋の中にかすかに残る、梵天丸の纏う甘い香り。
―――これは、毒だ。
「何をしている」
背後で声がした。音も立てず、気配すら感じさせずに部屋の前に梵天丸が立っていた。
殆ど殺気にも近い剣呑な気配を漂わせながらゆっくりと近付いてくる。
怖いな。
力を入れれば壊れてしまいそうなほど細い身体なのに、気圧されるように重苦しく激しい視線に本能的に畏怖を覚えている傍で、冷静にこの状況を分析している自分がいる。
悪い薬にはまった人間の心境とは、案外こんなものなのかもしれない。
「……なんですか、これは」
「薬だ」
「違います。これは、毒でしょう。なんでこんなもの……」
「触るなっ!」
思いがけないほど強い口調で制止をかけられ、思わず手が止まった。
義姫だ。時折、この部屋を訪れては梵天丸に毒を与えていたのだ。否定し、拒絶するだけでは足らずにその存在ごと葬ろうとしている。
心のどこかで、蔑んでも憎んでもまだ親子の情が捨てられていないのだと考えていた自分の甘さに呆れる。
分からないのは、これが毒でありながらそれを拒むどころか、許容しようとしている梵天丸のほうだ。
大切に、宝物みたいに仕舞われていた箱。開ければそこから何かが失われてしまうように。
どこかで、鳥の鳴く声がする。しゃらしゃらと遠くの木を鳴らす、風の音。止まったように閉じられた世界でも、残酷なほど正確に時間は変わらずに流れる。
どくどくと伝わる心臓の音、かすかな息遣いは自分のものか、それとも梵天丸のものか。
鼓膜は確かに音を拾っているのに、無関係のように遠い。何もかもがどこか別の場所で起こって、自分と梵天丸と二人だけがこの場所に取り残されている。
このままどこかへ。この人を連れて。二人きりで
あれは、義姫から逃げようとした自分の怯えだったのかもしれない。
「まさか、死ぬ気ですか?」
「……俺が死んだら、母上が喜ぶ」
本気であるならば小十郎のことなど気にも留めずに梵天丸はそれを実行しただろう。
死のうと思っているのではなく、いつでも死ねるという安心。母親の心を、繋ぎとめることができる。睡眠薬と一緒でこれはただの精神安定剤だ。梵天丸と義姫を繋ぎとめる細い、細い糸。
ああ、と唐突に理解する。
物理的な痛みを伴わないのに、傷口はここですよと塩を塗りこむように無情につきつけられた。
やはり義姫は母なのだ。どれほど憎んでも憎まれても、確かに命を分かち合った存在で。
これから先、自分にもどこの誰だろうと梵天丸にこんな顔をさせることはできない。
入り込む余地など、最初からそこにはなかった。
まっさらな命と身体を与え、受取り、そうして繋がっていくのが母と子であるならば、結局どれだけ心を尽くしても相手を知っても自分は、どこまでも遠いだけの他人。
とんだ思い上がりだった。
傅役の片倉小十郎のことなど、所詮は梵天丸の世界の外側のこと。
「どうして、俺が悲しむとは思ってくださらないっ!」
口にするつもりなどなかった。他人に何かを期待することなどとうに諦めたと思っていた。
でもそんなことは無理だ。一人ではなくなってしまった。渇望するほどに他人を想うこの感情は、いとしさとでも呼べばいいのだろうか。生きていく限り、人であり続ける限り、捨てられない。
届かない、手に入らない、自分が無力であることを知ってしまった。
かつて自分がもっとも恐れていたもの。
でも今は、もっと怖いものがある。自分の知らない場所に、痛みを訴える傷がある。
怖いものなんか、何もなかった。自分は何も持っていなかったから。早く、遠くへ、優しい第三者の手を振り払って、どこまでも走っていけると思っていた。
今は、梵天丸を失うことが、怖い。
たった一人の手を選ぼうとして、ここに止まり続けようとしている。
くだらない、そう鼻で笑いとばすことができない。後ろめたいと思いながら、振り返ってしまう。
ないことを知る。存在しないものをそこに与える。それが痛みを伴うものでも、それを引き受けてゆく。
何かを築くというのは、きっと失うことからはじまるのだ。
それはささやかな絶望にも似た、不自由な希望。
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