季節はずれの長雨は、三日三晩降り注いで奥州の地を疲弊させた。 川が氾濫を起こし、下流に位置する村は壊滅的な打撃を受けているとの報告があがってきている。 奥州の中でも伊達領は領土もさほど広くなければ、豊かな国でもない。 現当主の輝宗は本来戦よりも民政に優れている領主だが、先代から続く近隣諸国との領地問題が常に纏わりつき、治水や飢饉に対する備えは充分とは言えなかった。 それでも最善をつくすべくあちこちに人をやり、城の中はいくらか慌しくなっていた。 静かなのは城の奥深く、まるで切り離されたように存在している梵天丸の周囲だけだった。 「またお風邪を召されますよ」 泥を吸い込んだような鈍色の空から、見渡せる限りを灰褐色にけぶらせて細い雨の糸は降り注ぐ。 水を含んでぬかるんだ地面が雨に打たれて描き出す複雑な模様が、ふいに強くなった雨で崩れさった。 雨音に耳を澄ませ、もう半刻は外を見続けていた梵天丸に羽織を着せかける。 まだ梵天丸はじっと雨に見入ったままだ。 医者ではないので正確なところは分からないが、身体の調子はもうすっかりいいようだった。この天気では外の稽古は無理だが、今朝は道場で少しばかり素振りもした。 剣は正直で数日稽古をしないでいると目に見えて鈍っていたが、もともとの筋はいいので勘を取り戻せば問題はないだろう。 昼餉も済ませるとここ三日、飽きもせずにひたすら外を眺めている。 周囲より一段高い城から見下ろした街は、晴れた日ならば行き交う人の活気が伝わってくるが、今は深い水の底に沈んで打ち捨てられた玩具のようだった。 「きっと明日には晴れますよ」 「何故そんなことが分かる」 「梵天丸様がそのようなお顔で毎日見ていれば、雨もそろそろ遠慮するでしょう」 「……冗談の下手な奴だな」 言いながら立ち上がり、ようやく窓を離れたので雨戸を閉めた。 部屋の片隅にある道具入れから茶器を取り出したので、久々に茶でも点てる気なのだろう。 詩吟に舞踊にお茶に華。勉学と武術以外にも梵天丸はあらゆる芸事を身につけている。 根っからの武人で芸事をてんで理解できない小十郎には縁のない世界だが、細い指の洗練された優雅な動作を見ているのは不思議と退屈ではなかった。 しばらくすると抹茶の仄かに甘い香りが鼻腔をくすぐる。茶筅を置くと、すすと椀が差し出された。 本当は正式な作法があるはずだが、小十郎はそんなものは知らないし梵天丸も特にこだわらないので有難く受け取って飲む。舌には少しばかり苦味が残った。 お茶というのは一杯点てて飲みまわすものらしいので、半分ほど飲んでから梵天丸に返す。 小さな両手でお椀を持ち上げると、白い喉をそらせて威勢よく一気に飲み干した。 「俺もまだまだ精進が足りぬな。このような苦味が残るのは心が落ち着いていない証拠だ」 梵天丸によれば、神の依代である身体が風邪をひいたことで土地を守護する力が弱まり、それで雨がやまないのだという。 噂では梵天丸の母である於東の方がまた祈祷師を呼んで、お祓いをさせているらしい。 「そうだ。てるてる坊主でも作りましょうか」 「てるてる坊主、とは何だ」 「晴天祈願のお守りみたいなもんですよ。庶民の遊びですがたまにはいいでしょう」 「仕方ないから付き合ってやる」 着れなくなった古い着物を裂き、丸めて紐で縛る。もう一本紐を通して窓際に並べて吊るした。 小十郎の作ったもののほうが梵天丸の作ったものより一回り大きかった。 梵天丸は時折風が入り込むと頼りなく揺れる二つの人形を思議そうに見上げている。 「このようなもので本当に晴れるのか」 「さあねえ。まあ効き目があれば儲けもん程度でしょうけど」 「土地神も形無しだな」 皮肉な響きはなく、心の底からそう思っているように聞こえた。 そのまま窓際に座り込むと、瞼を閉じて雨と風が織り成す音に耳を傾ける。 雨音とほんのわずかな会話以外、何の邪魔も入らない静かな部屋。外と切り離され閉じられた空間。 そんな狭い世界に二人きり。 このままでいい。このままじゃいけない。 自分の望み。梵天丸の望み。輝宗の望み。義姫の望み。 最後に残るのはどれなのだろうか。あるいは、どれも残らないのかもしれないけれど。 今あるのは、自分はおそらく最後まで梵天丸の臣下であり続けるだろうという予感めいた確信だった。 てるてる坊主が効いたのか、翌日は長雨が嘘のような晴天になった。 かすかに冬の気配を纏った低い空は濃い青をしている。これも本格的な冬がやってくれば、白灰っぽい空気に覆われて薄水へと変わる。 暦など見なくても空や大地、太陽や星の様子を見れば今がいつなのか分かった。変わらず見える風景の中にも、同じ姿をした日は一日もない。ずっと見ていると癖があるのが分かる。 自分で見たもの感じたもの以上に、信ずるに値するものなどあるだろうか。 いつも通りに支度をしてから梵天丸の部屋へ向かえば、部屋の前に朝餉の膳が置かれていた。 侍女が下げ忘れたのかと覗き見れば、まだ手を付けられていない。普段は小十郎が来る前には朝餉を済ませているのにどうしたのだろうか。 嫌な予感がする。 「梵天丸様、参りました」 声をかけてから部屋の中に入れば、梵天丸はまだ夜着のまま部屋の最奥から鋭い視線を向けてきた。 黒目がちに潤んだ瞳の奥に炎が爆ぜるような、激しいものが揺らめいて見える。久しぶりに背中が震えた。 激しいだけではない。今まで見てきたどんな人間も、こんな目をしなかった。 気を緩めれば引き込まれてしまいそうなほど澄んでいるのに、純真ではない。 人の心が生み出す憎しみ、悲しみ、そして絶望を見てきたという目だった。 本心を見せようとしない梵天丸が、これほど分かりやすく感情を露わにしているのは珍しい。 ある程度予想はしていたが何か起きたのだ。 「小姓のものはどうしたのです」 なるべく刺激しないように落ち着いて声をかける。 初めに比べれば随分と小十郎に対して警戒心を緩めてはいても、噛み付かれる可能性はまだ充分ある。 「もう来るなと言った」 「何か粗相でもしたのですか」 「そうじゃない。今朝、見えたからもう来るなと言っただけだ」 一瞬何がと口をついて出そうになり、すぐさま真意に行き当たった。 見えた、とはつまり梵天丸のその目が相手の死を見たということ。それで部屋を追い出したのだろう。 「膳を運んできた女からも見えた」 口調は激しくはなく淡々としていたが、どこか刺々しいものを孕んでいた。全力で何かを拒絶している。 それは他人かもしれないし、己の力かもしれなかった。 この部屋には混じりけのないしんとした孤独がある。今目の前にいる梵天丸と、ここに至るまでに彼が過ごしてきた時間と、関わってきたものすべてが慎重に織り上げてきた。 他人の死ならば何度も見てきた。顔がつぶれたもの、手足がないもの、腸から臓器がはみ出しているもの。酷い死骸はいくらでもあったが、戦場という特殊空間では珍しいものではなかった。 生理的な嫌悪は覚えたが、じきに慣れた。 死んだ以上、それはもう人間ではない。そう割り切ることができるようになったからだ。 できない人間はすぐに死んだ。 どちらが優れている劣っているという話じゃない。できなければ死ぬというだけのことだった。こんな乱世では身につけなければならない技術の一つ。剣術や馬術同様ある程度の適正と訓練でどうとでもなる。 だが梵天丸は生きている人間を前にしてその死を見る。嫌悪以上に深い絶望を抱えるのかもしれない。 自分には分からない。安易な慰めの言葉などかけられるはずもなかった。 「昼餉と夕餉は俺がお持ちします。明日からは別の者に運ばせるようにしましょう」 「……ああ」 夜具を片付けて梵天丸に着物を着せる。首筋に少し汗をかいていた。 冷たくなってしまった朝餉の膳を用意するが、梵天丸は箸を取ろうともしない。 「少しでも召し上がってください」 「いらぬ。食べる気がしない」 「駄目ですよ。そんな細い腕のままでは剣は持たせられません」 「今日はもう稽古はしない」 「幼子ではあるまいし、そのように聞き分けのないことをおっしゃるな」 「俺はお前の主君ではなかったのか。臣下は主君の言うことを聞くものだと言ったのはお前だぞ」 「その通りです。ですが臣下であると同時に俺は梵天丸様の傅役です。元服を果たされるまでに、貴方を伊達家の次期当主として立派にお育てするのも務め。貴方が拒むこの食事すら満足にとれぬものが、この伊達領だけでもかなりいるのです」 「つまらぬ正論だ」 端整な顔の眉間に小さく皺がよせられる。 具体的にどのように死の光景が見えるのかは分からないが、気分がいいものではないだろう。 何でも梵天丸の望みどおりにするだけなら簡単だ。彼は他人を寄せ付けはしないが、単に興味がないだけで嫌ったり疎んじているわけでもない。それならば、自分である必要がないのだ。 他の誰かではなく、自分だけが梵天丸のためにできること。それで疎まれても後悔はしない。梵天丸に誓ったのはそういうことだ。 それは茨の茂みの中に手を進めて行くような煩わしさを伴ったが、同じくらいどきどきもしていた。 今更傷つくことを恐れて手を引っ込めるくらいなら、手を伸ばしたことすら嘘になってしまう。 決して他人に誉められるような生き方をしてきたわけじゃないが、通すべき筋を曲げたことだけは一度もない。 「俺が恐れているのは貴方に疎まれたり、怒りをかったりすることじゃないんですよ」 箸をとって白身の魚を少し切り分けて口元に運ぶ。 「考えていることは分かりやすいのに、扱い辛い奴だな」 文句を述べながらも、しぶしぶといった様子で口を開いた。 一口食べてしまうと、後は自分で箸を掴んで大人しく食事をはじめた。 しかし、その翌日もまた朝餉の膳が残されたままだった。侍女を変えるように指示は出している。 どういうことだと訝しく思いながら部屋を開ければ、主はやはり白い夜着のままだった。 「梵天丸様、今日は何が」 「まただ。今日来た者もだ……誰を見ても、死が見える」 「……俺のも見えますか?」 少し俯いたまま、ふるふると首を振る。 ほっと安堵したのも束の間、この状況をどうしたものか小十郎には見当もつかなかった。 梵天丸が人の死を見る頻度があがっている。それは呪が強くなっているということなのだろうか。 老いや病などいわゆる自然死は見えない。だから事故や殺しなど突然死するものを見る。 城で傍仕えをしているのは殆ど健康で若いものばかりだ。立て続けに何人も死ぬわけがない。 「呪を抑える力が弱まっているのかもしれぬ。でも、どうしたらいいのか分からないのだ」 「大丈夫です。俺がおります」 誰でもと言っても小十郎がそれに当てはまらないのだから、もしかしたら偶然という可能性も考えられるが、梵天丸の様子からこれが異常だと察せられる。 部屋の隅で縮こまるようにしていた梵天丸を抱き上げると、首筋にしがみ付いてきた。 生暖かい吐息が首筋にかかる。 長雨が終わったと思ったら、今度は人が次々と死ぬかもしれない。自分では呪のことなど分からない。 少々癪ではあるが、ここはもう一度虎哉和尚の寺を訪れて詳しく調べる必要がある。 他の者を近寄らせるのは嫌がるのでいつもより長く夕餉まで付き合ってから、梵天丸の部屋を後にした。 日はすっかり暗くなっており、炊事場まで膳を下げて自室に戻ろうとしたところで呼び止められた。 「片倉様」 少しばかり年のいったその侍女は、輝宗のもとで小姓として働いていたときに何度か顔を会わせたことがある。若い侍女たちの指導などもやっていたはずだ。 傍まで寄ってくると、硬い表情をしたまま小さく頭を下げる。 「侍女の真似事のようなことまでさせて、申し訳ありません」 「いや、別にそれは構わねえが……何かあったのか」 「どの者が食事を持っていっても若君が一度で遠ざけてしまわれるのです。今までも親しくお話になられることはありませんでしたが、このようなことはありませんでしたのに……」 本当のことを言うわけにもいかない。第一、言って信じるとも思えない。 自分にしたって何をどこまで信じているか怪しいものだ。ただ今は梵天丸の傍を離れないほうがいい。 「それで、膳を運んだ者たちはどうしている」 「はい……皆、若君のご不興を買ったのではと恐れておりましたので、喜多様と相談して里へ帰すことにしました。一人は、昨晩亡くなりました」 「死んだ?事故か事件にでも巻き込まれたのか」 「いえ。何かまずいものでも食したのか、夜半に突然血を吐いて死に到りました」 梵天丸に膳を運んだ侍女が死んだ。 聞けば持病を抱えていたのでもない。これは内密にしてくださいと言うと侍女はそそくさと立ち去っていった。 鉛の塊でも呑んだように重苦しいものが腹に溜まる。 これで二人死んだ。梵天丸が手をくだしたわけじゃない。でも、死んだのは事実。 梵天丸が本当に神と呪であったとして、彼には本当に息を殺すように生きるしか術はないのか。 晴れた空の下で誰かと笑ったり声をあげたりすることもなく、陽の当たらない場所で辛うじて人として生きる。 他人の考える幸せを押し付けたところで喜ぶとも思えないが、梵天丸は確かに言ったのだ。 何か一つを諦めることは、すべてを諦めることだと。 剣の腕を鍛えることも、学問をすることも、新しい世界を知ることも、彼が生きるという意思に他ならない。 戻った自室で刀だけ外し、着替えもせず畳の上に横になった。障子戸の隙間から月光が細く差し込んで、放り出した刀の鍔を淡い琥珀色に縁取っていた。 戦場には何度か出たが、武士の子でもない自分に活躍の場が与えられるわけでもなく、本当に人を斬ったのは数えるほどだ。それでも手入れは欠かしたことがない。 手を伸ばして柄に触れる。ひんやりとした感触がする。鞘から抜き払うと刀身が光を反射して煌いた。 武士にとって刀は命だという人間がいるが、刀は刀だ。戦場では自分の刀が使えなくなれば、死んだものの刀を奪ってでも戦う。 大切なのは、刀そのものよりも振るう理由。それで何を守り、何を犠牲にするのか。 考えても分からない。多分それは、見つけなければならないもの。 うとうととした微睡みの中で何かを掴もうとした。 手を伸ばしたところで、朝になっていた。 それほど深く寝入ったつもりはなかったのだが、少し疲れているのかもしれなかった。 朝餉を持って梵天丸の部屋へと向かう最中、階段へと向かう廊下の角を曲がったところで、誰かが降りて立ち去る後姿が見えた。 黒の縫い取りのある藍染の着物に長い豊かな髪。見るのはこれで二回目だが義姫だ。 梵天丸が風邪で寝込んだときは顔を出しもしなかったくせに、やはり息子のことは気になるのか。 彼女が梵天丸に向けているものが、そして梵天丸が母親に向けているものが、愛情なのかもっと別のかたちをしたものなのか。想像するのは容易くはなかった。 小十郎にとって家族と呼べるのは唯一義姉の喜多くらいのものだ。 幼い頃に父母を亡くした自分を親代わりとして育て、一番荒れていた頃でも決して見捨てなかった。そのせいか今でも頭があがらないし、根っこのところで愛情は勿論ある。 それでも深く激しい感情などは到底持ち合わせてはいない。お互いに別の生を生きるべく生まれてきた別の人間だと知っているし、受け入れるだけの分別もある。 だが義姫と梵天丸は血を分けた実の母子だ。 理屈で述べるならば親子だって別の身体と思考を備えた別の人間で、たとえどんな幼子だとしても本人の意思を軽んじていいという理由にはならない。 けれど、そこには理屈ではない何かが、あるのだとしたら? 声をかけてから襖戸を開ける。梵天丸は白い夜着姿だというところは変わりなかったが、今日はあの眼差しをこちらに向けるのではなく別の場所へと注いでいた。 書や茶などの道具をしまっている道具入れの一番小さな引き出し。何が入っているのかは知らない。 大きさからしても手のひらに治まるほど小さなものしか入らないように見える。 一応声はかけたが、はじめて小十郎が入ってきたことに気がついたのか、はっとしてそこを閉める。 日頃の大人びた無表情が姿を消して、幼い素顔が垣間見える。 「おはようございます、梵天丸様」 母親と会っていたことを聞こうとして、ぐっと堪える。 義姫に対して何も思わないわけじゃないが、今ここで探り出すのは只の自己満足でしかない。 今この瞬間、この場所でその左目に映っている自分。それ以上もそれ以下もない。 軽い足音をたてながら梵天丸が近寄ってきた。 「……おはよう」 根気よく言い続けたので、以前は適当な相槌しか打たなかったのにまともな返答をするようになった。 ぎこちない、でも目をそらさずにはっきりとこちらを見て。 心がぐんぐんと透きとおってゆく。自分と、梵天丸と。 鳥の声がした。仄かに残っている香の匂い。形のないもの、でも確かにそこにあるもの。 自分ひとりで生きていくのならば、何も恐れることなどなかった。 そこに誰か、思いもよらない第三者が入り込んでくること。 心臓に抜けない小さな棘を穿たれたような気がした。痛みすら儚い小さな傷。 ―――消えるな。 |
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