有邪気/10
雨の音が激しくなった。炎の揺らめきが二人の影をゆるく和らげながら、共鳴するように揺れる。
小十郎の膝の上に乗ったままの梵天丸は左目を閉じて、聞き入るようにじっと耳を済ませていた。
長い睫毛が白い肌に濃い影を落とし、伸びた髪の毛が細い首筋に纏わりついている。
掻き揚げてやるとくすぐったそうに身じろぎして肩口に小さな頭をもたれさせたので、羽織ごと腕の中に閉じ込めると炎の影を追っていた双眸を閉じた。
力を込めれば容易く壊れてしまいそうな存在なのに、戯れに触れただけの温もりを消すことが出来ない。
どんな相手と繰り返してきた性交よりも深い歓喜。
それは安っぽい情動であるはずもなく、命を交わすような行為にさえ思えた。
甘く、そして孤独な魂の味。
知らなかった。
自分以外の誰かと関わっていくことがこんなにも面倒で、こんなにも苦しくて、こんなにも優しいなんて。
厄介だ、煩わしい。こんなものがなくても生きていけるはずだった。
誰にも心を預けることなく、何にも寄りかかることなく、舞い落ちる雪さえ振り払うような生き方を選んだつもりだった。一人で走っていけるはずだった。それなのに。
いつの間に一人じゃなくなってしまったのだろう。小十郎自身にも分からないかたちでいつの間にか。
はじめ、自分は何も持っていなかった。
何も持っていなければ、何も欲しがりはしなかった。何もないことが当たり前だった。
誰かが言葉を教えてくれた。文字を覚えた。剣を覚え、笛を覚え、女を覚え、嘘を覚え。
引き換えに何かを失ったのかもしれないと引き返す心すら捨て去って。
そうして出来上がったのが、何にも興味のない片倉小十郎だ。
期待することなど無駄だと思っていた。他人のために、自分の何かを殺すなどごめんだ。
全部を諦めれば、自分で選んだことにだけ責任を持って進んでいけるのだと疑いもせず。それで良かった。
でも梵天丸はそんな小十郎の中の何かを奪い取って、梵天丸の何かを残していった。
圧倒的で乱暴すぎるほどの貪欲さで、雪融けを待ちわびた大地から新しい芽が吹き出すように。
だからこんなにも離れがたいのだ。
やばいなと頭のどこかが危険を知らせているが、心は別の場所へと急かされ続けている。
吐息一つにまで神経を行き渡らせるような静寂。悪くない。そう思う自分の心持ちも何だか謎だ。
「今日は来なかったな」
雨音の邪魔になるのを避けるように小さな声で梵天丸が囁いた。触れ合っている場所から声が振動となって伝わってくる。
「申し訳ありません。お休みになっていたようなので起こさないようにとご挨拶は控えさせて頂きました」
「それは構わぬが、道場で一暴れしたそうだな。ほどほどにしておけよ」
「……なんでそれを」
「さあな」
瞼を開いて見下ろしたが、梵天丸は取り澄ましたあの表情をしている。
自分を除けば梵天丸の部屋に足しげく出入りしている人間など思いつかないのだが、随分な地獄耳だ。
組織の最下層にいる小十郎に真偽を知る由もないが、伊達にも独自の諜報部隊があると聞く。見張られている可能性はなくはない。
「あなたは何でもお見通しなんですね」
「己の傅役に興味がない主がどこにいる。特にお前は見ていて飽きない。面白いな」
「はあ……」
自分の顔に興味をもったことなど一度もないが、愛嬌のある顔立ちとは言いがたいし、愛想とも無縁だし、気の利いた会話ができるわけでもない。
剣と学はそれなりに修めたが、それは面白いに分類される事柄ではないだろう。
とりわけ子供なんか大の苦手で、つまらないというなら分かるがどこをどう見たら面白いなどという感想が出てくるのか疑問だ。
別段困りはしないが、かといって答えが降ってくるわけでもないし、とりあえず黙るしかない。
「そういう顔をするところが面白いのだ。俺の顔色を伺う気配もない」
機嫌が悪いわけでなくても仏頂面が板についてしまっているので、余計に悪い印象を持たれがちだ。
義姉にはよく注意されるが、梵天丸は嫌味を言っているわけではなさそうだった。
「そいつは失礼をしました。傅役の礼儀なんて誰も教えちゃくれなかったもので」
「俺の顔色など伺うだけ無駄だ。何を考えようと、何をしようと、何も変わらぬ」
小十郎の腕の中で身体を半分捻るようにして、障子戸のほうへ視線を注いでいる。
少し顎を引いてじっと伺うような姿勢は、獲物を狙う肉食の獣にも敵から逃げる草食の獣にもうつる。
人に見えるものが見えず、人に見えないものを見る目で、彼は本当は何を見ているのだろうか。
梵天丸と自分は似ている。己の存在意義を自分の中にしか見出すことができないという点において。
それでも梵天丸は、生かされている。自分の意思や感情とは関係のない呪が縛っている。
「それは、あなたが伊達の呪だからですか」
「太助が死んだのだろう。これでまた俺は伊達に呪いをかける忌み子だ」
「あなたのその目を見たと……噂で聞きましたが」
「ああ。傅役候補として俺のところへ来たとき、一生傍で仕えるなどと簡単に言うから見せてやった。腰を抜かしていたがな」
「随分、意地の悪いことをされたんですね」
「人の言うことほど当てにならぬことはない。だが結果としてあやつは死んだ」
「ですが、梵天丸様が手を下したわけじゃないでしょう。呪いだなどと、迷信ではありませんか」
「迷信だと思うならそれでもよい。それが真か偽かは本当のところ、どうでもいいのだ。ただ、これから先も人は死ぬ。俺はそれを知ってる。そして、お前もそれを知ることになる」
確かに、梵天丸の予言通りに男が一人死んだ。それは揺るがし難い事実だ。
しかしそれだけと言えば、それだけなのだ。
怪我や病や老いで人はいつか必ず死ぬ。健康だった人間が流行り病で突然死ぬことだって珍しくない。
たとえ梵天丸が人が死ぬことを知っていたからといって、変わった特技といえばそれで済む話だ。
それが何故、梵天丸自身が呪いをかけているような噂となってこの城を取り囲んでいるのか。
何かが引っ掛かる。何か。
「……虎哉和尚か」
してやられた。
梵天丸の正体を知っていて、輝宗へ影響を与えることのできる人物。彼しか思いつかない。
理由は不明だが、ただ噂話が一人歩きをしたというだけではなさそうだ。根っこにもっと深い、おぞましいものが見え隠れしている。梵天丸はあっさりと認めた。
「さすが、勘が鋭いな」
「何故和尚はわざわざあなたをこのような境遇におとすような、そんな根も葉もない噂を!」
「根も葉もなくはないだろう。実際、俺が呪を抑えられていないのは事実だからな」
「大殿も大殿です。僧の言うことなど間に受けて、嫡男であるあなたを取り巻く状況を静観している」
「口を慎め、景綱」
「……っ!」
静かだが、はっきりとした厳しい声が挟まれた。
「これは俺自身が決めたことだ。俺は伊達のためには生きないが、化物には化物なりの矜持がある。父上が俺が人間として生きることを望んでおられるなら、俺はそれに従う」
分からない。人間なんて皆それぞれ考えていることは違う。当たり前だ。
だけどその当たり前のことを、成長という仕組みの中で当たり前だと思わないように少しずつ麻痺させていく。
共感とか、同情とか、心を薄く削り取るようにして理解できたように錯覚させる。
本当は別の方向を見ていても、足並みをそろえて鋳型に嵌めて秩序を作り上げることで、野生の獣のような牙も爪も持たない生き物が生き残ったのだ。
それが果てしない過去からの命の営みの結果だというのであれば、そういうものなのだと納得は出来る。
ただその当たり前を、さあどうぞと差し出されてはじめて自分たちに理解しあえることなどないのだと気付く。
分かり合えないことを積み重ねて、受け入れるしかできない。途方に暮れるような業の深さだ。
ただその隔たりが深ければ深いほど、より強くより多く繋がっていくことができるのではないだろうか。
「……出すぎたことを申し上げました」
深く息を吸って、吐き出す。頭が少し冷えた。
自分など考え及びもつかない場所で、梵天丸はもう何かを決めている。
それを分からないと葛藤すること自体が馬鹿げているのかもしれないが、傍にいるにせよ離れるにせよ梵天丸という存在を自分の中でどうにか消化しないことには、息苦しくてかなわない。
でもそれは言い訳で、自分の望むように答えが返ってこないことにただ苛立っているだけだ。
「構わぬ。自覚はあまりないようだが、お前は最初から俺が人間でないことを知っていて、俺を恐れながらも思いながら目をそらさなかった。それが忠義だというなら、俺はそれを感謝すべきなんだろうな」
確かめるように呟いた。わざわざ確認しているということは、本心は別に有難くは思っていないということだ。
年齢にしては感情の起伏が極端に少ない。頭では理解していても、感情として備わっていないのだろう。
それを梵天丸がいうように、人間でないからということで済ませてしまってもいいとは思えない。
「俺に感謝をする必要はありませんが、人に親切にしてもらったら有難う。迷惑をかけたら御免なさい。これくらいは梵天丸様も言われるようになったほうが宜しいかと」
「……ありがとう、ごめんなさい」
たどたどしく、やけに神妙な顔をして口にする。
「そうです。俺は梵天丸様が人だろうが何だろうが、そんなことはどうでもいいんです。あなたが、俺の主君でいてくれさえするならね」
「主君、か。それがお前の望みか」
「多分」
「威勢よくいった割には頼りない話だな。まあ良い。こちら側にいる人間にしてはお前は変わり者のようだしな」
また、こちら側だ。
彼岸、此岸のようなものかもしれないが、具体的に何のことなのかは一度も聞いたことがない。
大体にして信心などとは甚だ遠いところで生きてきたのだ。
「あの、梵天丸様。前から気になってたんですが、こちら側とおっしゃっているのは一体何のことです。俺は物の怪の類すら見たことがない只人のはずですが」
「……呆れた。お前の実家は神職だろう。土地神を祀ってきたその血が百年、二百年と変わらず続けばそれは多少のことでは揺るがぬ強力なものとなる。お前にはその力がある。その程度のことも知らぬのか」
「ですが他所の血も大分混じってるはずです。まして俺は次男ですよ。ろくすっぽ神事の礼儀作法も学んではいません」
「形式が大事なのではない。おそらく剣を使うことで自然と感覚が研ぎ澄まされるようになったのだろう」
「そんな、高尚なもんじゃないと思いますけどね」
「別にお前が凄いと言ってるのではない。過去の人間が築き上げてきたものだ。お前だけじゃない。虎哉、そして母上も、人でありながら人の世界と神の世界を知る人間だ」
「大殿は」
「父上は虎哉の説明を聞いてそう認識しただけだ。人は姿形でしか物事を判断できぬ。……景綱は竜を恐ろしいと思うか?」
「竜、ですか」
唐突な質問だったが、意味のない問いかけではないだろう。
「恐ろしいものなのだろうとは思いますが、所詮空想の生き物ですからね。恐ろしいという実感はありません」
「そういうことだ。普通の人間は俺を恐ろしいものなのだろうとは思っても、本当に恐ろしいとは思っていない。だが、お前はそうじゃない」
ふわりと優しい花の香りが鼻孔をついた。梵天丸の着物に焚き染めてある香木の香りだ。
男にはいささか華やか過ぎる気はするが、ふとした瞬間に妖しい美しさを覗かせる梵天丸にとてもよく似合っていた。用意した人間は彼に似合うことを知っているのだ。仄かに嫉妬のようなものまで湧き上がる。
「虎哉が言っていた。景綱を大事にしろとな。母上と虎哉は俺を恐れたが、人生で一人でもお前のような人間に出会えた俺は幸せなんだそうだ」
夜半二人でそんなことを話していたのか。あのくそ坊主め。心の中で悪態をつく。
梵天丸がかすかに身体を震わせた。本人は治ったなどと言っているが、体力の少ない子供に油断は禁物だ。
「お部屋までお送りします。明日は何か書物をお持ちして伺いますので、それまで大人しく寝ていてください」
「今日はここで休んでは駄目か?」
何故かこんな風に甘えられるとは思わなかった。
立ち上がりかけて梵天丸を見下ろす。左目はただ暗さだけを宿してどこか、自分には見えない場所を映し出している。相手の望む優しい温もりを与えるだけなら、誰にでもできる。
ゆるゆると首を振って諭せば、梵天丸は小さく頷いて小十郎の胸へことりと頭を預けた。
我侭すら目的みたいなものだ。父も母も梵天丸にとって無条件に頼れる相手じゃない。それは、多分小十郎だっても同じだ。ただ、主従であるということ以外何の束縛もないから、いつでも放り捨てることができる。
繋がっていくこと以上に、切り捨てることが出来る。梵天丸にとってそれが何よりもの安心なのだろう。
人の情とは本当に厄介なもので、壊すことは容易くても忘れ去ることは本当に難しい。おそらく築き上げるだけの困難よりもはるかに。憎んだり恨んだりすることですら、相手を己の人生から締め出すよりも容易い。
俺は、この人のために何をしてあげられるのだろう。
梵天丸を抱きかかえたまま静かに廊下へと出た。雨は一向にやむ気配を見せない。
誰ともすれ違うことなく部屋までたどり着く。医者が小姓か分からないが隣室に人が控えている気配はあるが、誰も姿を現そうとはしない。
「雨がやまぬな」
大人しく夜具に横たわった梵天丸の首元までかいまきを引き上げてやる。額にかかった髪をかきあげてやれば、白い包帯に覆われた右目と、長い睫毛で縁取られた左目が露わになった。
「そうですね。この時期にこんな長雨は珍しい」
「……この雨は、当分やまない。俺の身体は土地神の器だ。だから身体が弱くなれば、土地を治める力が弱くなるのは必定。そして俺の意識は伊達にかけられた呪。心を乱さぬよう、荒れさせぬよう、人と関わるのを避けろと虎哉は父上に言った」
「梵天丸様」
「俺は、それを正しかったと思っている。俺が人として生きるために」
梵天丸の身体が弱まると、土地を守る力が弱くなる。だから大地が荒れる。
逆に梵天丸の意識が昂ぶれば、呪を抑える力が暴走する。だから人が死ぬ。そういうことらしい。
今まで、たった一人でそれを背負ってきた。そしてこれからも、そうしないことが不思議だとでも言うように、怠けることも諦めることもしないでそれを背負っていくのだろう。
「俺が生きれば人が死ぬ。俺が死ねば土地が死ぬ」
梵天丸の瞳が瞬きをするたび、まるで涙で洗われてゆくように艶めいて透きとおってゆく。
無性に胸がざわめいて、けれど一方では雪が降り積もるように静かで、そんな情動が初めてで、それを納得できる方向に消費したくて、着物を脱ぎ捨てるようにぽいぽいと言い訳を積み重ねてきた。
女を抱くのも喧嘩をするのも、空洞を埋めるためじゃない。空洞を埋める手間を惜しんだだけのことだ。
知らなかったから気付かなかっただけで、きっと自分はずっとそれが欲しかったのだ。
自分にないものを知り、手に入らないことにもがいて、それでも求めずにはいられない。歩き続けるほどに、その重みは増えていくのかもしれない。それは今よりもずっと困難を伴う道になるだろう。
何にも束縛されず、怖いものなんてなくて、望むままに生きると決めた自分ではない。不安はある。自分は誰かに傅いて自分を殺して生きれるような人間じゃない。いつかまたこれを捨ててしまうのかもしれない。
この不安に、ずっと影のようにつきまとわれることになる。そんなことは分かっている。
それでも、そんな風に憧れを追い求めていくことが生きるということならば、今はじめてそれを知った。
そして、梵天丸のたならばそれができると思ったのだ。後戻りはできない。
俺は多分、自分が思っている以上にこの人のことを大切に思っている。
「貴方が背負っているものを、持つことはできません。でも貴方がそれを許してくださるなら、俺は一生傍にいます」
「簡単に一生など言うな」
「どうしてですか」
「よく考えてみろ。一生は一度しかないんだぞ。俺が死ぬまで傍にいる覚悟がお前にあるのか」
「覚悟もなしに、一生なんて言いませんよ」
「後悔することになるぞ」
「しません」
間髪いれずに答える。梵天丸の瞳にはっきりと驚愕の色が混じった。
「後悔なんてしませんよ」
雨音がどこか遠くに聞こえる。感覚が研ぎ澄まされて、二人の微かな吐息だけが響く。
梵天丸は、誰よりも遠い人間だった。だからこそ引き合う力は他の何よりも強くて、どんな障害も時の流れも本人たちも意思よりもそれを阻むことなどできはしない。
想いは呪い。呪いは想い。
自分以外の誰かを想い、そして誰かに想われ、築かれてゆくもの。
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