殺そうと思った。 あの瞬間、本当にこの人を殺して自分も死のうと思った。 死んでもいいと思った。 たった、一度だけ。 家督を継げない次男が、何とか身を立てさせようとあちこちたらいまわしにされた挙句、ぐれて出奔するなるなんてのはよくある話で、その程度のことで自分が不幸だとは思わなかった。 長男だって良し悪しだ。名を背負って、家に縛られて、己を殺しながら生きるなんて自分なら絶対に息が詰まる。 だから寧ろ次男に生まれたことは幸運だったのかもしれない。 それでも跡継ぎにと望まれて迎えられた養子先では、恩義に報いようと勉学にも武道にも人一倍励んだ。 だが養父母に諦めかけていた待望の男子が生まれ、偽物の自分はあっさり用なしになった。 戻った生家には居場所などとうの昔になく、自然と外で無茶をすることが多くなった。 一度捨てられ、また捨てられ、自分がいらないものなのだと自覚するのにそれほど時間は必要なかった。 酒に女に賭博に喧嘩。殺し以外はありとあらゆることをやった。 己の境遇に不満がなかったとは言わないが、淋しさを紛らわすだの鬱憤を晴らすだの、そんな一時的な衝動に突き動かされてというよりも、正直なところ他に何もすることがなかったのだ。 小十郎の頭の中は周りの熱気とは裏腹に、いつも不気味なくらいに冷めていた。 何を見ても心を動かされることはなく、笑っても泣いても胸の内は乾ききっていた。 異父姉以外は誰も自分に近付かなくなり、次第にそれにも飽きて今度は自室に篭もることが増えた。 書物を読み、笛を吹いて、時には剣を振り、だが何もせずぼんやりとしている時間が一番長かった。 それで分かったのだ。 誰も自分を見ない。必要としない。どこにいても、何をしていても。 確かに自分は自由で、人並み以上には何でも器用にできたが、それだけだった。 自由は退屈と変わらず、万能は能無しと同じだ。 もしも自分が不幸だったとするならば、理由はそれに尽きるだろう。 せめてもっと愚鈍であったのならば、そんなことを考える余裕すらなかったのかもしれない。 生きていても何もすることがないというのは、ある意味死よりも酷い拷問だった。 内側に出来た小さな空洞は、目に見えないところでどんどん広がって己を限界にまで蝕んでいた。 天下などどうでもよかったのだ。 ただ、この退屈を紛らわしてくれる何かをひたすらに渇望していた。 そんな時、あの小さな小さな主君に出会ったのだ。 「片倉小十郎景綱と申します」 平伏し、つい先日もらったばかりの慣れない名前を口に乗せる。 傅役となることが決まってから慌てて元服させられたのだから、感動というよりも違和感のほうが強かった。 本当ならばとうに元服している年齢であるのに、出戻り次男のことなど誰の念頭にもなかったらしい。 景は代々片倉家男子に付けられる字であるが、小十郎にしてみれば思い出したように元服させておいて今更という気持ちもある。 もちろん、そんなことは口には出さなかったが。 「まあそう固くなるな、景綱。梵天丸は見ての通り片目が不自由でな、その分お前がよく気をつけてやってくれ」 「は」 顔を上げると、今日から自分の主になるはずの、まだ幼いと言っても差し支えない少年は新しい傅役を前にしても眉一つ動かすことなく、まるで世界のすべてを見透かそうとでもするようにじっとこちらを見ていた。 荒れに荒れていた一時期ですら唯一小十郎を気にかけていた義姉の喜多は、辺り一帯の領主である伊達家に乳母として仕えていた。 重臣・鬼庭左月の娘であるという素性があったことも確かだが、女の身でありながら文武両道に長けるという本人の才を高く買われたことも大きい。 その縁があって、小十郎も伊達家当主である伊達輝宗の徒小姓として伊達家に出入りしていた。 だが身分は最下層。もとが武家の出でもないため、これ以上の出世の見込みは薄いだろうと、年明けて十九歳になっていた小十郎のもとへ誰も予想していなかった話が舞い込んできた。 伊達家の長子、梵天丸に傅役として仕えること。 その日珍しく輝宗の傍へと呼び出された小十郎は、あまりに突拍子もない話に「はあ」と気のない返事をして、あやうく義姉に殺されかけるところだったのだ。 しかしどうやらその話は嘘ではなかったらしいと、本人を前にしてようやく実感した次第だった。 この梵天丸という若君は、普通ならば嫡子として誰からも傅かれる存在であるはずだが、現在は非常に微妙な立場に置かれているということは、さすがの小十郎でも知っていた。 天然痘にかかって一命は取り留めたものの、包帯に隠されている右目は白く濁り眼窩から飛び出ているらしい。 醜さゆえに母からの愛情も、不具ゆえに臣下からの忠誠も失ってしまったのだと。 ひとつ望みがあるとすれば、父である輝宗だけはまだ長子の彼を跡継ぎにという気持ちを失っておらず、最大の愛情をもって接していたことだろうか。 小十郎自身は両親ともに幼い頃に亡くしており、養家での扱いも実子が生まれてからはぞんざいだったので、家族の情愛というものはあまり馴染みのあるものではなかったが、それでもこんな得たいのしれない底なしの暗さはなかったと思う。 「良いな、梵天丸。今後はこの景綱がお前の傅役として傍に在る。何かあれば景綱を頼るのだぞ」 梵天丸ははいともいいえとも答えず、最後まで漆黒の闇を注いでいた。 「若様、至らぬところもございますが、今後よろしくお願いいたします」 気味の悪い子ども。それが第一印象だった。 ―――こんな経緯を経て梵天丸の傅役として務めることになって五日。 することといえば勉強の間中静かに傍に控えておくことと、時折出る散歩に付き従うことくらいで、結局のところ暇を持て余す場所が変わっただけだった。 梵天丸の日々の生活はとても静かだ。 朝餉を済ませると午前中いっぱいは読書と勉学に勤しみ、昼を過ぎれば剣や馬の稽古。それが終われば、散歩に出たり花を生けたりお茶をたてたりしている。 食が細いせいか九歳という年齢にしてはやや華奢で、外で稽古をするよりは一人で静かに書物を読んでいるほうが好きらしく、武家の若君というよりは貴族のような雰囲気があった。 しかも不思議なことに、この子供はなにもしゃべらない。 話しかければじっとこちらに目を向けはするのだが、固く引き結んだ唇は決して開かれることはない。 口がきけないわけではない。 念のために喜多にも確かめておいたが、聡明で大人相手でもひけをとらない弁舌家だという。 乳母の贔屓目があるにせよ、たいへんこの若君のことを高く評価しているようだった。 だとすればこの態度は一体何なのか。 何かまずいことをしただろうかと己の所業を振り返ってみるが、会った瞬間からこうだったのだから、こちらに何か非があるとは思えない。 まあ自分が子どもに好かれるような外見でないことは百も承知だ。 突然見知らぬ大男に懐けというほうが無理だろうし、しばらくは様子見だと決め込んで、とりわけ何か行動を起こすこともなかった。 今日は梵天丸はめずらしく外へ出ていた。 だが別に何をしているわけでもなく、木の影に座って目を閉じて、蝉の鳴き声やその合間から聞こえてくる葉ずれの音に耳を傾けているだけだった。 「あち……」 梵天丸は涼しい顔をしているが、日陰に入っていても暑い。うだるような湿気に汗がだらだら流れ落ちてくる。 主君の前で不敬かと我慢していたが、ついに耐えきれずに着物を片腕肌蹴てしまった。 離れるわけにも寝るわけにも行かず、ぼんやりと虫だの草だのを眺めていると、視界に梵天丸が入る。 こうして見れば、あの瞳の印象が強すぎるせいで気が付かなかったが、随分と綺麗な顔立ちをしている。 白い肌に長い睫毛にさくら色のうすい唇。女子であれば十年後には相当の美姫となっただろう。 だが彼は男子だ。果たしてどのような未来が待っているのか想像するのは難しかった。 普通の子であれば武将となり戦場に赴くのだろうが、隻眼である彼にとってそれは荷が重いだろう。 とはいえ、武家の長子を出家させて仏門に入らせるとも思えない。 もしも彼が伊達を継ぐのであれば、自分も養家の跡取りなんかになるよりも相当の出世をする可能性がある。 別に出世がしたいわけでもないのだが、小十郎の中にある空虚を埋める役にはたつかもしれない。 こんな忠誠心もくそもない傅役をつけられて、若様こそ気の毒だなと他人事のように考えていたら、突然に背中が粟立ち、心臓を抜き取られるような怖気を覚えた。 はっとして前を見る。梵天丸と目が合った。 いつの間に目をあけていたのか、艶めいた漆黒が己を見据えていた。何度見ても何の感情も読み取ることが出来ない清廉とした眼差し。 まるで値踏みするように凝視していたことを決まり悪く感じてしまう。 「えー、失礼しました」 まさかこちらの思考まで読まれていたわけでもないのに、つい謝ってしまった。 相変わらず梵天丸は何も言わない。 ふいと視線をそらすと、小十郎などそこに存在しないかのように、無表情のまま立ち上がり着物に付いた土を払う。 しかしさきほどの感覚は、恐怖といっても差し支えなかった。 殺気ではない。けれど、何かとてつもなく恐ろしいものであったことは確かだ。 あれは梵天丸だったのだろうか。だとすれば彼は、一体何ものだ。 ―――面白い。 唇の端っこに知らず笑みを刻んでいることに、小十郎自身は気付いていなかった。 梵天丸は早々と屋敷のほうへと帰り始める。近すぎず遠すぎずの距離で小十郎も後を追う。 さらさらと湿った風に煽られる黒髪を見つめながら、もしかしたら何か面白いことが起こるかもしれないと久々に昂揚を覚えた小十郎だったが、そのときはまだ何も分かっていなかったのだ。 それは降って落ちるように慟哭すら呼びよせるほどの音だった。 「景綱」 こちらを振り返りもせずに、前方から声がした。 「……へ?」 「お前の名は景綱ではないのか」 驚いた。おそらく自分はたいそう間抜けな顔をしていただろう。 まだ声変わりもしていない柔らかな彼の声は、腐りかけの果実のように甘く思考を一瞬の内に融かした。 「あ、ああ。そうでした」 我ながら阿呆みたいな返事だった。 義姉だけは今までどおり小十郎と呼ぶが、普通は恩義のある目上の人間か親しい間柄でない限り、元服した男子を昔の名で呼ぶなど侮辱でしかなく、それは妥当なものなのだがどうにも余所余所しく響く。 梵天丸は妙に慌てた様子の小十郎を表情もなく振り返って見上げた。 早く、この呼び名にも慣れないとな。 「明日から来なくていい」 大概のことには驚かないだけの精神力は持っているつもりだったが、梵天丸はその斜め前を行く。 どうにも調子が狂わされっぱなしだ。 「そりゃ、どういう了見ですかね」 「お前はどうやらこちら側の人間みたいだからな。可哀相に思ったまでだ」 「こちら側って……」 「俺を恐ろしいと思っただろう?」 その刹那、この世の深淵を覗きこんでいるようなあの厳しい瞳が、はじめて笑った。 毒を含んだ妖しい笑みだった。こんな顔をする人間を見たことがない。 この子どもは、何をどこまで知っている? そこで引いたほうが利口だということは分かった。だが、自分はこの世の全てに飽いていたのだ。 「お断りします」 毒のほうが、少しだけ甘いらしい。 |
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