夏は暑い。それは冬になれば分厚い雪に閉ざされる奥州とはいえ、例外ではない。 特に今年は酷い猛暑だった。体力のない子どもや老人にとっては過酷な状況であり、一番の盛りを前にして小十郎は伊達家当主よりある役目を言い渡されていた。 「時宗丸様! そんなに走らないでください! 梵天丸様もそんなところで何をなさっているのです」 傅役を務める嫡男の梵天丸と、その従弟の時宗丸を領内の避暑地へと連れて行き、そこでしばらく過ごしてくるというものである。 一応館には何人か世話をする人間を手配してもらえる手筈になっているが、基本的に供をするのは小十郎一人。 というのも、当の梵天丸自身が他の者を寄せ付けるのを嫌うことと、供をするほうにしても隻眼で忌み子と呼ばれる梵天丸に近付くのを恐れるからだ。 梵天丸が他人を寄せ付けなくなったのには、深く重い理由があるのだが多くの人間はそれを知らないし、知る必要もないと思っている。 同じ物を見て同じ言葉を話していても、所詮他人は他人。皮一枚隔てた向こう側で何を考えているのかなんて分かるはずもない。投げやりではなく、それは仕方のないことだ。 だからこそ、心を通わせたことは奇跡。 他人を寄せ付けない梵天丸と、他人に興味を持てなかった小十郎は、一見まったく合わないように思えた。 根っこのところでお互いの信ずるものが分からず、しばらくは意地と意地の張り合いの日々だった。張り通すほどの意地もなければ、とっくに駄目になっていただろう。 だが、反撥しあいながらも不思議な糸で結び合わされるように、惹かれあった。 割れ鍋に綴じ蓋というよりは、相手の領土に土足で踏み込んで居座っているようなものだが、死んでもいいと思ったあのときの絶望と、それを覆した希望。もう二度と得ることは叶わないあの瞬間は、小十郎の中で今なお鮮やかに残っている。 出会ってまだ一年余り。これから先、二人にどんな行路が待ち構えているのかは分からない。 けれど、何故かこの規格外の幼い主君のことを嫌いになれそうにない。 山の奥へ進むたび、人の姿はどんどん少なくなった。 途中までは馬で来たのだが、山間の奥地にある別荘へは足場が悪いため、麓の村で馬を預けて、小十郎は子ども二人を引き連れて歩いているのである。 先ほどから時宗丸はちょこまかと落ち着きなく動きまわっている。迷子になられてはたまったもんじゃないと、小言で牽制するがまったく聞き入れる様子はない。剣の腕に関してはさすが伊達一門に生まれただけのことはあり、子どもながら侮れない素質があるが、それ以外は充分にただの悪童だ。 一方の梵天丸は大人しく歩いているものの、興味をとられるものがあるとすぐ足を止めてじーっと見入ったりしているので、そちらもまた目が離せない。 無関心より好奇心旺盛なのは結構なことだが、時と場所を選ぶということをしないので少しは振り回されるこちらの身にもなって欲しい。所詮、こちらも悪童である。 力技で時宗丸の首根っこを捕まえてから、足を止めた梵天丸のところまで引き返した。 「小十郎。あの赤い花は何だ」 道の脇には、力いっぱい夏の瑞々しい緑をたたえた草木が生い茂っているが、その中に筆で紅を落としたようにくっきりと赤い花がぽつんと咲いていた。 「花? ああ、あれは彼岸花ですよ」 「ヒガンバナ?」 「丁度この彼岸の時期に咲くから、彼岸花と呼ばれているらしいですけどね。死者を弔う花とも聞いたことがあります。あまり縁起のいい花じゃねえんで、山に自生しているようなものばかりですけどね」 「成程な……」 「さ、分かったら行きますよ。もうすぐ着きますから」 云いながら梵天丸の手を引いて小脇に抱えると、梵天丸が慌てたように声を上げた。 「小十郎! 何をする!」 「暴れませんように。屋敷に着いたら何でも答えて差し上げますから。俺もいい加減この山道を抜けたいんでね」 長らく城の奥深くで、殆ど人と会うこともなく暮らしていた子どもは人に馴れていない。 その本質は野生のけものだ。こんな風に不意打ちで触ると、警戒心をむき出しにしてくる。 そのくせ計算高いので、懐いたふりをして手懐けられていたのは、実は小十郎のほうだった。 梵天丸の望みを叶えるため―― だが今となってはどうでもいい話である。どんな道を辿ろうと、傍にいることを選んだのは小十郎自身だ。 それに最近は、ほんの少しばかり様子が変わってきた。 警戒されるのは相変わらずだが困ったような、戸惑うような反応を見せる。どうでもいい相手なら、彼はきっぱりと拒絶するだろう。今度は嘘も駆け引きもなしで、向き合おうとしている。 少しずつでいい。この子が、小十郎を信じてくれたように、自分のことを信じられるようになるため。 その日は、きっと来る。 「こじゅ! 俺も、俺もっ!」 遊んでいるとでも思ったのか、大きな目を輝かせながら時宗丸が見上げてくる。幸い荷物は他の人間が持っていく手筈になっているので、二人を抱えるくらいは問題ない。 やれやれと思いながらも、こんな生活も悪くないと子どもたちを抱き上げて山道を進んだ。 半刻も歩かない内に平らで拓けた場所に出た。傍には清流があり熱を和らげている。 白っぽい陽光に照らし出された平屋建ての瀟洒な建物が、今回逗留する別荘だ。 小十郎たちが入ると、あらかじめ準備に借り出された人間が空気の入れ替えと掃除を済ませており、探索好きな時宗丸はまたしてもどこかへと行ってしまった。 当主の小姓をしていた頃に一度だけ付き添いで来たことがあるが、普段人が住んでいるわけでもない家はだだっ広い部屋がいくつも並んでいるばかりで、好奇心を満たすほどのものはない。 そのうち飽きれば戻ってくるだろうと、とりあえず放置して荷解きにかかった。 出立前に、義姉が用意してくれた涼しい紬の浴衣を取り出す。勿論小十郎にではなく、梵天丸のためである。 「汗をかかれたでしょう。こちらにお着替えを」 「ああ」 城にいるときは殆ど白い着物ばかりを着ている梵天丸だが、露草色の浴衣を着るとぱっとその場が華やいだような感じがする。小十郎だけでなく、通りかかった手伝いの小姓も一瞬息を呑んでいた。 隻眼を嫌ってか、梵天丸は自分の容姿を醜いと思い込んでいるような節があるが、とんでもない誤解といえば誤解だ。 「よくお似合いです。鏡でご覧になられますか?」 「いらぬ」 「そういうと思いました。ま、梵天丸様のことは俺が知っていればいい話ですね」 軽口を叩けば眉を寄せるが、やはり怒っているというわけではない。どう反応すればいいのか困っている感じだ。 人は器量だけで簡単に測れるものじゃないが、内側にあるものは目には見えないから、外側から知ることだって必要だ。泣いたり、怒ったり、笑ったり。 八重の花びらが綻ぶようにして、また一つ新しい表情を見せる。今はそれが何よりも楽しみだ。 数日過ごすために用意した荷物を片付けてしまうと、探索を終えたらしい時宗丸が何かを手に戻ってきた。 「梵、これ、何?」 どこから発掘してきたのか、蒔絵のついた小箱である。 埃を被っているが、手で払うと綺麗な朱塗りのそこそこの調度品であるらしかった。きっちり縛られた上に小さな錠が取り付けられているので開かないが、振ってみると中から何かかさかさと音がする。 「どこから持ってきたんですか」 「あっち」 指差したほうに行ってみると、陽の当たらない奥の部屋に行き当たった。女物の道具箱の引き出しがいくつか引っ張りだされていた。 中身は全部空っぽだったが、少し妙な感じがしてよく見れば、一つだけ妙に奥行きの浅い棚があった。引っ張り出してみると、丁度奥にその小箱が納まる程度の空間がある。時宗丸はそこからこれを持ってきたらしい。 「何なんでしょうね、これ。財宝の地図とか?」 小十郎も一緒に首を捻るはめになった。錠を壊せば中身は分かるだろうが、誰かが隠そうとしたものを本人のいないところで暴きたてるのは少々気が引ける。 やりとりを傍らで聞いていた梵天丸が、そういえばと何かを思い出した様子で口を開いた。 「虎哉に聞いたことがあるな。ここは昔、どこぞの豪族の妻が不義を疑われ、離縁も里下がりもさせてもらえずに一生を過ごした別宅だったとか。先々代はそういった曰くに頓着する性質ではなかったらしいからな。案外それもその女の遺したものかも知れぬ」 美人にも関わらず、世間一般で言う適齢期が既に過去のものになりつつある義姉などが異例なのであって、女は相応の年になればどこかに嫁いで、一生をその相手の庇護のもとで暮らす。自由はないがそこには安定がある。 それが本当に幸せかどうかは小十郎には分からない。分かるとすれば、自分が女であってもそれは望まないだろうということくらいだ。周囲の大人たちに振り回される幼少時代を過ごしただけに、その気持ちは強い。 自分には地位も名声もないが、五体満足な身体がある。自ら選んだ道を進むための足がある。 だから、どこまでも走り続けられると思うのだ。梵天丸が向かう先が、未来を示し続ける限りは。 顔も名前も知らない、自分たちが生まれるずっと前に世を去った元の住人に同情はしないが、こうして時を経て邂逅することになったのも何かの縁だ。 せめて彼女が隠そうとしたこの小箱はそっとしておいてやろうと、元の場所に戻して棚を元通りに戻した。 「どうして中を開けないんだ?」 「故人がどうしても隠して置きたかったんでしょう。見ず知らずの他人の秘密まで抱え込むなんて、俺は御免被りますよ」 世の中には、知らなくていいこともある。 梵天丸は納得しかねるという顔だったが、食い下がるほどの興味もなかったのか分かったと頷いた。 その代わりに人の悪い笑みを浮かべると、こんなことを言った。 「先ほどの話には続きがあってな。幸せだった日々を思い返して、夜になると泣く女の声がするんだそうだ」 戌の刻も過ぎ、梵天丸と時宗丸を寝かしつけてから、勉学のために書物に目を通そうとしていたところに、軽い足音が近付いてくるのが耳に入った。襖の向こう側に表れたのは案の定、梵天丸である。 「これは、梵天丸様。もうお休みになっていたものを思っておりましたが、どうされたのです」 「時宗丸が鬱陶しくて敵わぬから、お前のところで休ませてやってくれ」 気がつかなかったが、梵天丸の後ろには腰の辺りにしがみ付いくようにして時宗丸もくっついていた。 「幽霊が怖いんだか何だか知らぬが、俺の布団に潜り込んできた」 「はは、時宗丸様は幽霊が怖いのですか?」 「だって〜!」 虎哉和尚も梵天丸相手では怪談のし甲斐もないだろうから、今度は時宗丸にでもしてやればいいのにと無責任なことを考える。 普段はあまり小十郎には懐かない時宗丸だが、やはりこういう時ばかりは大人は心強いのか梵天丸から引き取ると、ぴたっと抱きついてきた。苦笑を浮かべつつ布団に寝かしつけてやる。 戸惑いなくできるようになってきたあたり、傅役にも慣れて来たなと感じずにはいられない。 「梵天丸様は平気ですか?」 「幽霊など怖いものか。俺は部屋に戻る」 「そうですか。ではお部屋までお送り致します」 「構うな。それより時宗丸を頼むぞ」 言うだけ言うと、さっさと踵を返して宛がわれた部屋へと廊下を歩いていく。時宗丸も大人しくなったので、もう少しと思って小十郎は再び本を開いた。 しかし旅の疲れはあったのか、ほどなくして灯を消し眠りに着いた。 子の刻は越えただろうか。夜半、目が覚めた。 昼間に比べれば暑さは随分と和らいでいたが、喉の渇きを覚えてそっと部屋から出た。 「梵天丸様?」 何気なく外に目をやると、人影が目に付いた。 瞬間的に頭が覚醒してどきりとしたが、その小さい影は小十郎には見慣れたものだった。 「小十郎か。どうした」 「いえ、少し喉が渇きまして水でも飲もうかと。梵天丸様こそ、こんな夜更けに如何なされたのです」 近くには履物など置いてないし、世話係の者たちも休んでいるので仕方なく裸足のまま降りる。 梵天丸はうすい雲の広がる夜空を見ていたようだった。雲がかかっているせいか、星の輝きは淡くて月だけがくっきりと明るい。ぬるい微風が吹くと、ほんのわずかに甘く清々しい夏の緑の匂いがした。 周りには人家の一つもなく、木々が梢を鳴らす音しか聞こえてこない。 まるで、自分たちだけが世界に取り残されてしまったかのようだ。 「月が明るい日は、死者が起きて来やすい」 「もしかして昼間の? 幽霊ってのは本当なんですか」 左目が濡れたように艶々と光り、小十郎を捉える。 「さあ。それが本当なのかどうかが気になってな。まあ幽霊など殆どは死者の弱い念だ。たまに菅原道真や平将門のように強い怨霊となる場合があるが、基本的には呪のように現世へ影響できるほどの力はない。せいぜい残留思念が時折現れるくらいだ。勘の強い者や、子どもなんかは見やすいがな」 「勘が鈍い上に大人の俺は、その残留思念とやらも見たことはありませんが、梵天丸様には見えるのですか」 「見えるというより、感じるな。負の力には惹き合う性質がある。死者よりも生きた人の念のほうがよほど強いから、俺の中にある呪は、幽霊程度の弱い念なら簡単に喰ってしまう」 「喰う……」 「喰われれば輪廻から外れる。まあ、来世やあの世があるかどうかなど知らぬが、幽霊も俺のことが恐ろしいのさ」 実の母に忌まれ、人から隠されて育った闇は深い。 人に嫌われ遠ざけられることに慣れた言葉は、明らかに倒錯しているのに卑屈っぽく響かないのは、彼自身が己を不幸だと憐れんだり、境遇を言い訳に甘える気持ちがないからだ。 だからこんなにも、凛々しく美しい。 惹かれる心には際限がなく、少し切なさを孕んだこれの感情は多分、愛しいというのだろう。 「この屋敷には、幽霊などおらぬ。きっと女も、いつまでもこんな場に未練を残しているより、そんな男のことなど見限ったのだろう」 それは、ささやかな願いにも聞こえた。 自分たちしか知らないあの事件を乗り越え、梵天丸は変わろうとしているが、まだ殻の外にある広い世界を知っただけだ。彼が抱えているものは消せないし、無くなりもしない。一生向かい合って、飲み込んでいくしかない。 ただ思うのだ。過去は絶対に変わらないし、未来だって永遠ではないが、たゆまず怠けず進んでいけば、望みの尻尾くらいは掴めるのかも知れない。 だから出会えた。小十郎は運命を信じないが、自分の人生の中がもう自分の手の届かないところで決められているのだとしたら、あの日出会えたことも今ここで傍にいることも、自分だけに許されたことなのだと、ほんの少しくらいは思い上がってもいいだろうか。 「夏とはいえ、裸足のままではお身体が冷えますよ。部屋にお戻りください」 細い肩を抱いて促すと、一つきりの目で真っ直ぐにこちらを見据えた。月光が混ざる朱金に輝く。 「――小十郎」 「はい」 「……お前の、部屋で寝ても良いか」 幽霊や闇を恐れたわけじゃないだろう。でも、一人でいることの怖さや寂しさは、一人のままでは知りようもない。その矛盾すら、大切に思えてしまうのだ。 「勿論です」 翌朝、伊達屋敷では少しばかり不思議な光景があった。 梵天丸の近習としてやってきた時宗丸が、一人で起きて朝餉を済ませると、いつも通りうろちょろしては側仕えの人間たちを慌てさせていた。 だがその傍には普段ならいるはずの隻眼の主君と無愛想なその傅役の姿がないのだ。 何故なら、二人はまだしばしの間穏やかな眠りを味わっていたからである。 |
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