静かな部屋にキーボードを一定のリズムで叩く音だけが響いていた。 片倉小十郎、二十九歳、某大学準教授の日々の生活は規則正しい。 朝五時に起きるとその日の気分に合わせて体力づくりと維持のため運動をし、シャワーを浴びてから軽く朝食をとり、新聞にざっと目を通すと愛車に乗って出勤する。 日中は研究のためにあちこちへ足を運び、学会向けに論文を執筆し、学生相手にも教鞭をふるう。 同僚や学生と飲みにいくこともあったが、大抵仕事が終わればまっすぐ家に帰って簡単に食事をすませ、論文に目を通したり音楽を聴いたりして、風呂に入ると十二時には就寝する。 特別刺激的でもないが、気をつかう家族も嫁もない気楽なこの一人暮らしを気に入っていた。 だが最近、その生活に少しばかり変化があった。 「なー、こじゅーろー、それいつ終わるんだ?」 長い手足をだらしなく伸ばして、気まぐれな猫のようにソファに寝そべっている相手が静寂を破る。 「もう少しだ」 「つまんねえ……テレビも何もやってねえしお前がパソコン使ってるからネトゲもできねえし」 「だから来なくていいって言っただろう」 「何だよ!出張から戻ってきたっていうから来てやったのに!」 憤りを隠しもせず子供っぽくふて腐れてみせる。だがここで相手のペースに乗せられたら終わりだ。 昨日まで一週間ばかり学会のために出張に出ており、休みの間に家で溜めた仕事をするつもりだった。 日付が変わる頃に家に戻って、さすがに疲れていたので荷物を置くとすぐさま眠ってしまったのだが、太陽がすっかり昇りきるまで惰眠を貪るなんて本当に久しぶりのことだった。 それが昼前、目を覚ましたらセミダブルベッドに何故かもう一人もぐりこんでいたのだ。 染めているわけではないのに赤みを帯びた茶色の少しくせのある猫毛。今は閉じられているが気の強さのよく出ている黒目がちな瞳。東北の生まれだからか透けるように白い肌。 小十郎はパジャマがわりのシャツとジャージを着ていたが、その人物は若くしなやかな肢体をおしげもなく晒して天下泰平の眠りを満喫していた。 言いたいことはぐるぐると頭の中をめぐっていたが、とりあえず起こさなければ話にならない。 「政宗!」 なるべく厳しい声を出して名を呼ぶと、ぴくりと長い睫毛がふるえた。 そしてゆるりと左目が開かれる。幼い頃に大病を患ったため右目は眼球がなく、開けることができないのだ。 二、三度まばたきしてからぼんやりと焦点のあわない目で小十郎を見上げ、まだ半分寝ぼけているのだろうがそれはそれは幸せそうな顔でにこりと微笑んだ。 「おはよ、小十郎」 伊達政宗、十九歳、某大学学生の日々の生活は気まぐれだ。 起きるのも寝るのも、いつでもどこでもとにかく自由。それがたとえ他人の家であろうと、そうしたいと思えば躊躇わない。 そんな彼に小十郎は最近振り回されっぱなしである。 ――二人が出会ったのは三年ほど前のことだ。 当時まだ高校生だった政宗が持ち前の正義感とはるかに上回る無鉄砲さで、あまり素行の宜しくなさそうな連中と喧嘩騒動になりそうだったのを偶然見かけたのだ。 頼りないほど華奢というわけではないが見るからに細い政宗と、何かスポーツをやっているのかそれなりに屈強な身体つきをした大学生くらいの男が五人。 どう見ても多勢に無勢。それでも周囲の大人たちは皆素知らぬふりをしていた。 小十郎自身特別正義感が強いということもなく、基本的に面倒ごとは極力避けたいタイプだが、男たちを前にしても全く怯んでいない政宗のその眼差しに一瞬目を奪われた。 一触即発か、というところで機転を利かした小十郎は警察に通報したぞと割り込んだ。 若い頃は大分無茶をしたこともあり、今でも身体は衰えていないから乱闘戦になったとして勝てただろうが、ことが表沙汰になれば立場上非常にまずい。 そこで穏便に収めるためはったりをかましてみたら、突然割り込んできた強面の男に対峙していた男たちは悪態を付きながら散っていった。 その場には何故か呆けたような顔をした政宗だけが残った。さすがに怖かったのだろうと鞄を拾って渡してやり、あんまり無茶をするなよというようなそれらしい声をかけて立ち去ろうとした。 本来ならそれだけの関係のはずだったのだが、何がどうなったものやら携帯のナンバーを交換することになり、あれよあれよという間に猛アタックを受け、いつの間にやらむにゃむにゃの関係になってしまった訳である。 愛想のいいほうでもないし、ただの吊り橋効果だろうと最初は相手にもしなかった。重ねて同性だとか未成年だとかも散々繰り返したが、政宗はまったく譲らなかった。 何が彼をそこまで思い込ませたのか、政宗の言葉にならえば運命とかいうものらしいが、そこまで一途に慕われれば情も湧く。ここに至るまでのすったもんだの醜態は、小十郎としては思い出したくもない類のものもあるにせよ、目下のところ政宗は可愛い恋人である。 色々問題は山積みなれど一応恋人というカテゴリーに入っているわけだから、家にやってくること自体は特に問題はない。何が問題かといえば、小十郎の都合などおかまいなしの政宗の奔放っぷりである。 よくある女みたいに『仕事と私、どっちが大事なの?』とは言ってこないが、ある意味それより性質が悪いというか、とにかくすべてにおいて伊達流で型破りなのだ。 自由奔放は彼の大きな魅力ではあるが、決して長所ではない。 今日も仕事をするから相手は出来ないと早々に追い出そうとしたのだが、俺に会いたくなかったのかと逆ギレされて、結局そのまま居つかれている。 今まで付き合ってきた女性は大概年上で思慮も分別もつく人間ばかりだった。みっともなく罵ったり叫んだりせず、分かれる間際までスマートな恋愛をするのが大人だと考えてすらいた。 とっくに結婚適齢期に入っている三十路前の男が、こんな十も離れた年下のしかも同性の恋人に振り回されているという現実。ため息をつくなというほうが無理だ。 さきほどから十分おきにつまらないを連呼する相手を振り返る。 「邪魔するなら追い出すぞ」 「だってお前、もう少しって言ってからもう一時間だぜ。せっかく一週間ぶりなんだし昼からやろうと思ってたのに、日が暮れちまう」 「……政宗、もうちょっとオブラートに包んで言えないのか」 今時の若者たちの性に対する常識がどうなっているのか小十郎には計りかねるが、そう口にすれば少なからず自分が動揺するのを分かっていて効果的に使ってくるので始末が悪い。 子供のような無邪気さの中に、淫猥な大人の表情を浮かべて挑発されれば、彼を貪る権利と欲をどうしようもなく刺激される。 別に恋人だから結婚したからといって身勝手なセックスをしていいとは思わないが、少なくとも自分には正面から抱きたいと口にすることやそれを受け入れてもらえる権利みたいなものはあるのだろう。 すべてを身体の関係に帰結するつもりはない。けれど健康な男子としてはそういう要求は抗いがたい。 しかし色恋に溺れていられるのは十代までの特権で、自分の世界や生活がある程度確立してしまっている大人である以上、自分からはそれぞれの生きる世界へ干渉するほどの無鉄砲さはどこかへと置いてきてしまった。 傲慢さや身勝手を投げつけることができなくなったのは、臆病になったからだ。 もしも明日彼に捨てられたら、多分相当のダメージを喰らうのを分かっていながらがむしゃらにはなれない。 「本当にあと少しで終わる。それまで大人しくしててくれ」 視線はパソコンに向けたまま、手を伸ばして背後でごろごろしている政宗を撫でてやる。 「わーったよ。暇だから風呂でも入ってくる」 小十郎の手をいとおしむように握ると、ソファから降りてバスルームのほうへと消える。 自分が政宗の年齢だった頃、これほどまでに他人を強く想ったことがあっただろうか。 思い出せない。恋愛もセックスもそれなりに数はこなしてきたが、政宗が自分に対するほどには必死ではなかったと思う。そんな政宗だから、好きになったのだと思う。 政宗が風呂に入っている間に仕事は終わり、何とはなしにテレビのスイッチを入れた。 一瞬分からなかったが、画面に広がったのは懐かしい洋画だった。誰もが一度は耳にしたことがある馴染み深いメロディがふと蘇ってくる。 ひと夏の冒険。もう戻らない少年の日々。二度と得ることは叶わない友情。眩しくて未熟なセンチメンタル。 「何見てるんだ?」 どこまでもお約束をやりたいのか、ちゃんと彼のサイズに合わせた上下そろいの着替えもあるにもかかわらず、わざと大きな小十郎の着替えの上だけを着て政宗がリビングに戻ってくる。 きわどいところが見えそうで見えない白い足が目に毒だ。 「スタンド・バイ・ミー?あー、歌は聴いたことあるけど映画は見たことねえなあ」 なるべく視線を向けないように画面を凝視したままでいれば、清潔なシャンプーの香りを纏わり付かせたまま、すとんと小十郎の隣に座り込む。 「古い映画だがいい作品だぞ。俺も見るのは久しぶりだが」 「へえ。お前がそんな風に誉めるなんて珍しいな。どんな話なんだ」 「もうすぐ中学生になる少年四人が死体を捜しに線路沿いをずーっと歩いていく話」 「それだけ?」 「それだけだな」 「……どう聞いても面白そうに思えねえんだけど」 確かに一緒に映画を見に行っても、政宗は悪の組織と銃で撃ちまくるだけの分かりやすいB級アクションなんかが好きだ。そして意外と家族愛のような感動ものに弱い。 一度泣き顔を見せてしまったことによほど矜持を傷つけたらしく、あれ以来頑なに拒否している。 泣き顔などベッドの中で何度も見ているので今更だという気はするが。 「言ってろ。俺にだって青春の思い出くらいあるんだよ」 結局彼らが得たのは、困難に立ち向かった現実と、それぞれの内側のささやかな傷と、二度と交わることのないという決別の予感だった。 それでも小十郎はこの映画が好きだった。切ないけれど、優しい。優しいけれど、切ない。 理由はつけられないが大人になっても忘れられないその感情は、多分あの頃にしか得られないもので。 思い出すたびに胸のどこかを刺し、ここにあるよとか細く訴えてくる。もうが彼らほどむしゃらにはなれないが、その純粋さに胸打たれたという事実が、ただうっすらと名残雪のように残っていればいいと思う。 いつか誰かをそういう風に愛したいと思ったとき、真っ直ぐに愛せるように。 「お、青春の思い出ってなんだよ。まさか初デートで見たとかじゃねえだろうな」 「そういうわけじゃないけどな」 初デートなんて覚えてもいない。確かに高校生の頃だったとは思うが、柄にもなく緊張していたなという記憶があるだけで相手の顔も名前も思い出せやしないのに。 でも幼く青い恋をその時誰かと共有していたというのは、とてもたいせつな過去だ。記憶喪失にでもならない限り二度と起こり得ないことだから。 道ははるか昔に分岐し、お互いもう違う他人を愛していたとしても、今でも胸の奥底であたたかに眠っている。 「小十郎ばっかりずりい」 「あ?」 基本的に短気な上に感情の起伏が一定でなく、扱い辛い気分屋なので突然臍を曲げることも珍しくないが、ただ昔話をしていただけで責められる理由が思い当たらない。 感情的ではあるが、政宗の思考はいつも極めて論理的だ。 思わず隣に座る頭一つ低い小作りな顔を見下ろすと、彼の悪い癖で爪を噛んでいた。せっかくの綺麗な手なのに勿体無い。 「だって俺はお前の青春だって、初めての奴だって何にも知らねえ。お前は俺の青春だって知ってるし、初めてだってお前なのに」 政宗とはじめて関係を持ったのは出会ってから一年が過ぎた頃、彼がまだ高校生だったときだ。 懐かれていることを悪くは思っていなかったが、親愛と恋情の間くらいでどうしようとも思っていなかったのに、ただそうする時が来たように自然にやってしまった。 後々出来心ともいえる自分の軽はずみを死ぬほど呪ったのだが、政宗を抱いたこと自体に後悔はなかった。 「全部を話せといわれても困るが、一体何を話したら気が済むんだ」 「初体験とか」 「断る。大体、それを聞いたところで腹を立てるのはお前だろう」 「そうかもしれねえけど……俺はお前しか知らねえのに、お前のこと知ってる女が他にもいるってのが気にくわねえ」 複雑な思いを自分ひとりでは処理しきれないように、拗ねた口調で呟く。二人の間に横たわっている溝のような歳月は、小十郎が感じているのとはまた別の重みを持って政宗は抱いている。 でもそれを投げ出そうとはせずどうにか上手く自分の中に収めようと、小十郎にとってはすでに遠い過去のことを、政宗は今リアルタイムで重ねているのだと気付いた。人生で一度しかない恋を貫こうと必死な眼差しで。 多分自分が気付いていなかっただけで、今までだって何度も。 我侭で意地っぱりで傍若無人なくせに、妙なところで初心でいじらしい。 そう思った瞬間、この年下の恋人をたまらなくいとおしく思った。 背中から抱きすくめるようにして、白いうなじに唇を寄せる。風呂上りでしっとりとした身体が敏感に跳ねた。 「な、なんだよ、なにいきなりやる気になって……んっ!」 「昼からやろうと思って来たんじゃないのか?」 「そうだけど、いきなり態度が違いすぎだろ……!」 しかしそれ以上の反論は、壊れるほどの抱擁とキスで封じてしまう。 今日も明日も明後日も、こうやって二人一緒にいられたらいい。 そんな子供みたいに甘ったるくて切なくて未成熟な日々もそんなに、悪くはない。 |
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