暗闇の深さはどれくらい/1
「梵!梵っ!早く来てくれっ!」
自室で書を読んでいた政宗の下へ、血相を変えた成実が飛び込んできたのは静かな昼下がりのこと。
伊達一門の中でも直系の政宗の従兄弟にあたる少年は、元服を果たして数年立つのに未だに幼名、しかも略で呼ぶくせが抜けていない。
真面目な綱元などは何度も苦言を呈しているが、政宗自身が気にしていないので直す気もないらしい。
その成実といえば政宗に負けず劣らず頭に血が上りやすく、話をややこしくすることはあってもその逆はあまりないのだが、彼がもってきた報せは一瞬何のジョークかと思うような内容だった。
「小十郎が、喧嘩ぁ?」
片倉小十郎といえば伊達家嫡男の傅役を務め、この世でただ一人右目を名乗ることを許されている男だ。
頭は切れるし、剣の腕もたつ。思い込んだら一直線で何かと暴走しがちな政宗に比べて冷静で思慮深く、そのくせ冷たくはないので部下からの信頼も厚い。
その気になれば天下に覇を唱えるだけの力量は充分に持ち合わせているが、決してでしゃばることなく主君のためだけに力を尽くす忠義心の塊でもある。
とにかくどこをとっても非の打ち所のない男が、城内で喧嘩をして大暴れしているというのだ。
年明けて政宗十七歳。丁度十歳年上の小十郎は二十七歳。ものの分別がつかぬ年ではない。
それが止めに入ったものまで巻き込まれるほどの事態だというから、完全に我を忘れてしまっている。
日頃は諌め役にまわることが多い小十郎だが、意外に沸点は低く一度キレると手が付けられない。
政宗の傅役となる前は相当にやんちゃをしていたとは、彼の若かりし日を知る人間共通の認識だ。
もとはさして長くもない堪忍袋の緒が、必要に迫られて伸ばさざるをえなかったというところか。
「相手は誰なんだ」
「えー、何つったっけな。小次郎様付きの奴らしいけど」
それだけで大体の予想がついた。
小次郎は政宗の血を分けた実の弟だ。兄に似ずにどちらかといえば気性の大人しい、武芸よりも詩歌を嗜むような心優しい少年だった。
まだ幼名を名乗っていた頃は、母親との確執を発端として兄を廃嫡し弟を次期当主として擁立しようとする動きもあったが、二人の父親である輝宗の考えはそうではなかった。
元服して藤次郎の名を与えられたことは、政宗が次期当主として認められようなものだ。
危ぶまれた初陣も見事に果たし、何事も起こらなければ家督を継ぐのは弟ではなく兄の政宗になる。
だが母である義姫はまだ小次郎に家督を継がせたいと思っているとの噂であるし、古い家臣の中には隻眼であることを理由に不具の主君では他国に侮られると輝宗に進言しているものまでいるという。
一旦は収まったかに見えたが、いまだ伊達家の内紛の火種は完全に消えうせてはいない。
複雑な感情がないといえば嘘だ。もしも小次郎が先に生まれていれば、家中ももっと纏まっていたかもしれないし、何より家督をつがない次男であれば母の愛情も得られたかもしれない。
考えても詮無いことだ。頭では分かっている。
長男として生を受けたことも、右目を失ったことも、今ここに至るためのたったひとつの道筋であり、手放すのは己を手放すに等しかった。
しかし周囲がどうであれ、政宗は弟のことを彼なりに可愛がっている。
だがこの世でたった一人の兄弟であっても、気を許してはいけないと小十郎には厳しく言われていた。
譲れないものにたいしては、おそろしいほど冷徹で容赦がない。
野菜を育て政宗を抱く優しい手で、人を斬り罠を張って屍の山を築く。
そこに微塵の迷いも挟まないところが実直な彼らしく、本人すら気付いていないであろう純粋と鈍感の危うい均衡にはこちらのほうが不安を覚えてしまう。
駆け引きもはったりもお手の物の伊達軍きっての軍師だが、こと主君に関することについては馬鹿すぎるほどに正直。もとより他人を貶めるという感覚がないのだろう。
嬉しいと思う反面、目には見えない澱のように耐え難い空虚は少しずつ広がる。
たとえば今みたいに、自分には見せようとしない顔。そこで小十郎が何を考え、どう行動しているのか。
突然突きつけられると、その落差を埋めようとして上手く行かなくて混乱する。
忠信を疑っているわけじゃない。けれど、小十郎はすべてを晒そうとはしない。
いつまでたっても『梵天丸様』の傅役のまま。
政宗ですら暴きだしたことのないその鉄壁の自制心が一体どうやって崩されたのか、興味と奇妙な焦りが速攻を信条とする足をやや鈍らせる。
「だいたい喧嘩って、一体何でまた」
「分かんないんだよっ!とにかくもう梵じゃなきゃ小十郎兄はどうにもできない」
少ない語彙を駆使して状況を説明することに焦れたのか、とにかくと成実に押されて現場へと向かうことになった。




「政宗様、ご足労頂き申し訳ありません」
出迎えたのは綱元だった。伊達興って以来の忠臣・鬼庭家の当主左月斎の実子であり、喜多を挟んで小十郎とは血の繋がらない義理の兄弟になる。
武士というよりも学者といったほうが似合いの物腰の穏やかな人物だが、今は頬に派手なあざを作っており唇の端っこも少し切れて血がこびりついていた。
成実が政宗を引っ張り出すまでにどう収集をつけたかは知らないが、現場はとりあえずは落ち着いていた。
破れた障子や生傷を作った若衆の様子からある程度の被害は推し量れたが、当事者の話を聞かなければいかんともしがたい。生憎小次郎が出かけてしまっているので、相手の話を聞くのは後回しだ。
部屋にいたのは綱元と、こちらに背を向けて正座をしている後姿の小十郎のふたりだけだった。
「ひでえ顔だな」
「面目ありません」
ははと笑う綱元にしたって剣の腕は悪くないのだが、小十郎や成実に比べると少々見劣りするのは事実だ。
本人もそれは充分に理解しているらしく、戦場では出しゃばることなく政務において堅実に仕事をこなすことを己の役どころを心得ていた。
武勇に逸りがちな伊達衆において変わり者だと称されることもあったが、肝の座り方はさすが鬼の名を継ぐだけあり、いざというときには単身敵国に赴いて外交の糸口を手繰り寄せることもある剛の者だ。
そして何より、政宗や成実にとっては口うるさいお目付け役である小十郎に、対等にものを言える数少ない人物でもあった。
促されて部屋に入るが当の小十郎といえば、石窟から掘り出された仏像のごとく微動だにしない。
「景綱」
主が来たことなど襖を開ける前から気付いていただろうに、振り向こうともしない小十郎に呼びかける。
政宗だけでなく殆どすべての人間が通り名で呼ぶのに、綱元は本名で呼んでいた。生真面目なところは小十郎に共通するところを感じる。
「少しは頭も冷えただろう。城内での私闘は御法度だということは景綱も充分に承知しているな。しかも、政宗様の側役であるお前があのような醜態を晒すなど、政宗様の顔に泥を塗るのと同じだ」
普段は他人を諌めるばかりの相手が、このように諭されているところを見るのは初めてかもしれない。隣で成実も目を丸くしている。
綱元の言葉に荒っぽい部分はなかったが、逆らい難い怖さがあるのはやはり一角の人間ではない。
しかし対する小十郎も荒事においては百戦錬磨だ。指一本動かすことなく、伸ばされた背中にはがんとした頑なさが見える。
「こちらから裁定を仰ぎに行かねばならないところを、わざわざ政宗様にお越し頂いたんだ。いつまでも駄々をこねる子どものように黙ってないで、何があったのかご説明したらどうだ」
原因については成実同様、綱元も知らないようだった。
ある方向において短気ではあるが、何でもかんでも因縁をつけるような器の小さい男ではないし、抑制心だって人一倍以上はある。よほどの事情がなければ、このような事態を引き起こすわけがない。
その点については皆の見解が一致するところであり、小十郎が信頼されている証でもあった。
それだけにこの小十郎の態度は歯痒い。
客観的に判断するものがなければ、援護してやりたくともしようがないし、相手に付け入らせるすきにもなる。
だが怒鳴ろうが宥めすかそうがこの様子では無駄だろう。すぐ傍に鉄砲弾が跳んできてもこうしているかもしれない。動くことがあるとすれば、政宗の身に何か起きたときくらいか。
こと主君に関しては、冷静沈着で知られる右目の人が変わるのもまた周知の事実だった。
「綱元、それに成実も席を外してくれ。小十郎とふたりで話がしたい」
「承知しました」
昔から頑固なのは知っているし、頭に上った血がさめたところで取り乱すどころか、ますます深みに嵌って自己嫌悪に陥るだけなのだ。
確証はなかったが短くはない経験上、小十郎は落ち込んでいるのだという気がした。
邪魔者が消え、二人きりになったところでもう一歩近付く。しかし石仏と化した男に動く気配はない。
「こっち向けよ、小十郎」
「………」
「俺の命令が聞けないってのか」
そう言えば小十郎が従わないわけがない。
おそらく今かなり険しく深い皺を眉間に刻んでいることだろう。頭の中では政宗を追い払う方法を考えながら。
短気な政宗にしては辛抱して黙って待つと、姿勢を崩さないままに膝頭をこちらへ向けた相手は予想通りの表情をしていた。ひどい仏頂面だ。
いつもは綺麗に撫で付けられている髪が乱れ落ちていたが、顔にはそれらしい傷痕は見当たらない。
ざっと見ただけでも綱元含め五、六人は派手なあざを作っていたし、件の相手はもっと酷い有様だろうと考えれば、ひとりであの人数を相手にして無傷とはさすがというか。
剣の腕も達人の域だが、実のところ規則無用の乱闘戦のほうが小十郎の無類の強さをより実感できる。
それも、政宗には殆ど見せることのない、でも紛れもないこの男の姿だった。
「申し開きがあるなら聞くぜ」
なるべく軽い調子できりだすが、馬鹿が付くほど真面目な相手は厳格な態度を崩しもしない。
自分が向かい合っているのは、小十郎の皮をかぶった本物の仏像なのではないだろうかという気までしてくる。どのみち仏様にはあまりいい印象は抱かれていないだろうが。
「ま、男ばっかりのところだしよ、喧嘩の一つや二つ仕方ねえけど」
「先に手を出したのは小十郎の非にございます。減給でも謹慎でも切腹でも、いかような処分を言い渡されようとも覚悟はできております」
ようやく口を開いたかと思えば取り付く島もない。この調子だと、じゃあ切腹しろと言ったら本当にしそうで怖い。
自分の前だったらという淡い期待は、本当に泡より儚い期待だった。
――儚いって、人の夢って書くんだよな。
これは酷い篭城戦になるとすぐ目の前に腰を下ろして胡坐をかいた。向き合う小十郎は、ただでさえ上背があるのに、姿勢を正しているから余計に大きく見える。
不思議なのは、所作が洗練されているせいか少しも圧迫感をともなって見えないところだ。
本来の気質と幼い頃の習慣のたまものか、日常生活において彼は全く粗雑なふるまいをしない。それを少しも苦だと思っていないところがまた凄い。強面なのにもかかわらず、女子供にも意外と好かれているのも頷ける。
幼い頃、憧れの男性像といえば父ではなく小十郎だった。
今はもう少しかたちの違ったものではあるが、自慢の家臣であることには変わりない。
「あのな。別に死人が出たわけでもねえし、喧嘩くらいで腹切ってたらいくつ腹があっても足りやしねえ。それより原因は何だよ?」
「言いたくありません」
にべもない返事だ。普段であればどんな理不尽な要求であろうと政宗には何一つとして逆らわない小十郎だが、一度こういう態度をとったら頑固さでは右に出るものはいない。
加えて政宗は政宗で我慢の利かない性質であるから、喧嘩に発展するには最悪な組み合わせである。
だが今日は事態が事態であるので、いつものように怒鳴りそうになるのをぐっと堪えた。
「じゃあ当ててやる。お前が自分のことでキレるわけねえしな……」
政宗だって人の上に立つ以上、ある程度部下のことについては情報を集めている。
小十郎自身はそんな素振りは微塵も見せないが、譜代の家臣ではなく神職の家柄であることから謂れのない謗りを受けていたことだって知っている。
今でこそ次期当主の傅役としての努力も本人の才能も少しずつ認められているが、ここに至るまでの苦労は並大抵のものではなかったはずだ。
幼い主君を持ったせいで、本来政宗に向けられるべきものまで全て傅役の青年に向けられた。
それでも小十郎は一度も辛いとも苦しいとも言わなかった。全部を自分の中に収めて、ただひたすらに政宗のためだけに生きてきた。
こんなに純粋で、一途な男を他に知らない。
だからそんな彼が我を忘れるとすれば、自分以外にありえないのだ。
「俺のことなんだろ」
「………」
顔色一つ変えないが、まとう気配が鋭くなったような気がして確信した。
自惚れでも何でもなく、常に小十郎は己のことよりも政宗のことを第一に考えている。
その政宗を侮辱することは、彼の激高をいとも簡単にあおる引き金になるのだと分からない人間がまだいるとは。もし分かっていてやったのであれば自業自得だとしか言いようがない。
ため息よりも細い息を吐くと、少しだけ小十郎が決まり悪そうに態度を軟化させた。
「何言われたか知らねえけど、そういうのは黙って流しとけって。相手してたらキリがねえ」
「己の主君のことを悪く言われて黙っていられるほど、小十郎はできておりません」
間髪いれずに言い切られて、咄嗟に返す言葉が見つからない。
何の照らいもなく、そうしないことが不思議だとでも言うような、自然で洗練された迷いのなさ。
他人の思惑や言動に揺らぐことのない、本当は誰もが持っていて誰にもは貫けない己の意志、望み。
そこまで彼に想わせている人間を殆ど殺意にも似た勢いで、憎いと思った。
自分なのだけれど、それがもう自分ではどうにも出来ない話で、嬉しいのに同じくらい怖くて。
二人ともただ言葉なく、視線だけを絡ませていた。
触れてもいないのに、身体の奥のほうで熾火のようにじわじわと熱を感じる。
静かに凪いだ部屋に政宗を探してやってきた小姓が一人、来客を告げた。
こんなときに限ってとは思ったが、自分はいずれ当主となる身。公の自分を蔑ろにはできない。
立ち上がるとき、小十郎の耳元に唇を寄せた。
「今晩、寝所に来いよ。続きはそこで聞いてやる」
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