暗闇の深さはどれくらい/2
小十郎とはじめて肌を重ね合わせたのは半年ほど前、夏が終わる頃のことだった。
それまでも冗談の延長のように軽く触れるだけのキスを仕掛けたりしたことはあったが、その度にあの渋面でお戯れがすぎますと退けられるばかりの、振り返ればあまりに長い春。
若い身体は体感時間が長いせいかずっとこのままだったらと、愚かだと笑ってすませるには真剣すぎる焦りすらあった。いっそ吹雪でも吹いてくれと、物騒な物思いを何度したことか。
でもあの日、いつもと何かが違った。
長く因縁の続く相馬氏との小競り合いに勝利した酒の席で、小十郎がいなくなっていることに気が付いた。
常に政宗の右側に影のように控えている男の不在に、政宗の中の何かがひっかかった。
勘というほどの確証はなかった。何かを足すものでなく、何かが足りないそんな感じ。
いくら自分の右目を名乗っているからと言って、四六時中離れず傍にいるわけじゃない。仕事で数日不在にすることもあれば、このように城内にいるときにふと姿を消していることもある。
もう傅役がいる年齢でもないし、政宗の酒が過ぎないように頃合を見計らって戻ってくるはずだ。
寧ろ口うるさい相手がいなければ存分に成実たちと騒げるのにどうしてか落ち着かなくなり、少し酔いのまわった頭で小十郎を探しにふらふらと宴の席を後にした。
あの日に限ってどうしてそれに気が付いたのか自分でもさっぱり分からないが、結果としてあのときの決断がふたりのはじまりとなったのは間違いない。
本丸を出て小十郎の居室のある別棟のほうへ訪れた政宗は、探し人を見つけるのと同時に思いがけないものを目にすることとなった。
基本的に伊達の宴会は酌をする女中以外はむさくるしい男ばかりのものだが、時には娼妓を呼んで楽器や舞を楽しむこともある。全員が全員というわけじゃないが、気に入りのものがいれば寝所に呼ぶのも珍しくはない。
姿を消した小十郎は女と一緒にいた。
相手の名は覚えていなかったが、今日の宴の席で一等笛の上手だったものだ。華やかな美女たちの間にあって控えめな楚々とした感じの女で、小十郎も笛をたしなむから話があったのかもしれない。
しかしまさか小十郎に限ってという考えはどこかにあった。
男の目から見ても惚れ惚れとするような美丈夫であるし、独身で男盛りの年齢とあればこの程度の女遊びは当たり前のことなのに、一瞬で頭に血が上っていた。
「小十郎!」
うわずった声は静寂をまとった離れでは一際甲高く響いた。
賑やかな宴席を離れて静かな場所に移りたかっただけなのか、着物は乱れもせずに酒を飲んでいただけだったが、これから情事に入るであろう男女の熱っぽい雰囲気は年若い政宗には結構な刺激だった。
耳まで赤くなりながらも退くに退けず、ぎろりと二人を睨みつける。
だが小十郎はもとより、さすがに玄人である女性も不躾な闖入者にさして驚きもせず、小十郎が女の耳元に何事かを囁くと、彼女は清楚な笑みを浮かべたまま丁寧にお辞儀をして部屋から立ち去った。
部屋に静けさが戻ると、小十郎は何事もなかったように突っ立ったままの政宗を部屋に招き入れる。
「政宗様、まだ宴の最中でしょう。このような場所までどうされた」
怒っているとも呆れているともつかない平坦な声で問いかけられる。
いくら主君とはいえ礼を欠きすぎている自覚はあった。どう考えても政宗のほうが悪い。
徐々に冷静さを取り戻してくると決まり悪くなってすぐにでも引き返してしまいたい気分だったが、邪魔をされるだけされた小十郎にしてみればたまったものではないだろう。
酒のせいで思考がうまくまとまらないのに、感情は方位磁針みたいに一定方向を指し続けている。
いつからなんて覚えていない。ありったけの愛情と献身を注がれて成長した身体と魂。気が付いたときにはもうこの男が動かせない場所にいた。
「……お前が、いなかったから」
「小十郎を恋しがるようなお年じゃねえでしょう。いつも子供じゃないとおっしゃるのはどこのどなたです」
今度ははっきりと呆れた調子で、ため息を付かれる。
「子供じゃねえからだろ!女なんか呼びやがって!」
「いったいなんの話です」
「今からあの女と同衾するつもりだったんだろ」
「それは……小十郎も男でございますから。配慮が至らなかった点については深くお詫びします」
「詫びなんざいらねえ!俺が、俺が気に食わねえのは」
胸倉を掴みあげて噛み付くようにキスをした。
それからのことはあまり覚えていない。ただ何度も何度もキスをして、すきだすきだと繰り返した。
多分何度も諭されたはずだ。でもどうしても小十郎が欲しかった。おそらく覚えていたらしばらくは立ち直れないほどのことはやらかしたと思う。
果たしてどうやって篭絡させたものか、その夜二人は宴の場には戻らず静かにけれど激しく抱きあった。
覚えているのは、熱ばかりだ。小十郎の手、小十郎の唇、小十郎の体温。
ひとたび禁を破り、その甘い蜜の味を知ってしまったらもう歯止めが利かなくなった。
月に何度かは寝所に引っ張り込むようになり、やはり最初はやるやらないで攻防になるのだが、最終的には政宗が押し切ることが多い。
一度ならば気の迷い、もしくは魔が差したで済んだかもしれないが、二度目となるとそうはいかない。
責任だなんていわれたら殴り倒してやろうと思っていたが、小十郎はぞくりと腰にくる低音で欲しいと囁いた。
好きでなければ、いくら懇願されたところで小十郎は絶対に手を出さなかっただろう。
その点については小十郎は自分を欲しているのだという自信はある。でも困らせているのかもしれないという不安は常にどこかにあった。
この戦国の世において、一般的とはいえないまでも衆道をたしなむものは少なくはない。
信頼と忠誠によって、ときに血縁よりも強く結ばれた証として。
だが臣下でありなが主君を組み敷いていることに対して、馬鹿を二乗しても足りないほどに真面目な男が葛藤を抱いていることくらい少し考えれば分かる。
逆になればいいという話でもないが、どうも小十郎は政宗に対して過剰すぎる保護欲があるように見えて仕方がない。
情人である以前に主従。不満なわけじゃないし、それもひっくるめての関係だとは分かっている。でも。
その融通のきかなさが時折、歯痒い。




来ないかもとほんの少しだけ疑っていたが、夜も深くなり自室で最近覚えた煙管を吹かせていたところに小十郎はやってきた。
寝巻き姿ではなく袴を穿いて帯刀までして、これからどこに攻め込むつもりだというような恰好ではあったが。
「父上は此度の私闘については俺に任せるとさ。この期におよんでだんまりはなしだぜ。どのみち明日には小次郎が帰って来るからな。相手に洗いざらい吐かせる用意はできてるんだ」
「政宗様こそ何故そこまでこだわるのです。小十郎の不始末として処断なされば済むだけのこと」
「Why?お前がそれを言うか。他の奴ならともかくお前は俺の右目だろう」
他の人間であればそうしたかもしれない。だけど小十郎はそうじゃない。
彼が嬉しいと思うことは一緒に分かち合いたい。彼が悲しいと思うことも一緒に分かち合いたい。
優しく綺麗なものばかりじゃなくても、痛いもの醜いものだって引き受けて共に戦ってゆく。それほどの覚悟で自分は彼に右目を与え、彼もそれを受け取ったのだ。
まだ九歳と、十九歳でしかなかった二人のあのときの愚かしいほどの真摯さと、呆れかえるほどの無謀さは、今でも確かにこの手の中に残っていると信じている。放さない。
襖の前で正座をしたままの小十郎にずりずりと膝でにじり寄って下から覗き込む。
「なあ、俺はお前のなんだ?ただの主君か?守らなきゃならねえだけの子供か?答えろ」
ずっと知りたかった。あまりに幼いときから傍にいすぎたせいで、本当であれば他の人間に向けるべき父性やら庇護までが二人を縛り続けていた。
元服するまではよかったのかもしれない。しかし欲望の対象として相手を意識したとき、その均衡はすでに崩れていたのだ。
小十郎は気付いていなかった。この聡い男が政宗を大切に思うあまりに。
眠りから醒めたように、小十郎が呆然と政宗を見る。ややあって、らしくもなく困ったように息をついた。
「ただの主君なら抱いたりしません。子供なら……尚更のこと」
「なら話せよ。お前が俺のことを一人で抱え込むなんて我慢ならねえ。二人なら重さだって半分だろ?」
「……分かりました」
透明な樹脂でも飲み込んだような歯切れの悪さで、ようやく降参の意を表す。
眉間の皺がいつもより多い。政宗自身は知らぬことだが、こんなふうに無防備に覗き込まれるといつも嫌とは言えなくなる己の甘さに対してだ。
「おそらくただの軽口だったのだと思います……もしあなたが伊達を継がぬのであれば、織田でも豊臣でも潜り込むのは簡単だろうというような内容でした。その、武将としてではなく」
「あー、なんだ、色小姓ってことかよ」
政宗にしてもあまり楽しい話題ではないが馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
兄が家督を継がなければ、もっと取り立てられる機会があったかもしれないという避けては通れないやっかみ。
醜ければおそらくそれに相応しい台詞に変わっただけで、若く見目麗しい政宗だからという程度の取り立てて理由もない揶揄だ。
不思議なのは小十郎ほどの男がどうしてそこまで怒り狂ったのか。
疑問をそのまま口にするとおそろしいほど渋い顔をしたが、一度腹を括った以上は背を向けるのはよしとせず、極めて事務的な口調で続ける。
「勿論あなたのことを軽んじられたことが一番の理由ですが、腹をたてたのは今まで見ないようにしてきた事実を突きつけられたからです」
「どういうことだよ」
「小十郎の欲が、あなたに向けられているということ。あいつらよりも性質が悪い」
「別にいいんじゃねえの。俺がそうしたいんだ」
「いいわけないでしょう。いくら望まれようと手を引かねばならないところを、家臣がそれも傅役であった小十郎があなたをいいように手篭めにするなど」
分かってはいたことだが、あらためて常識論で説かれて鷹揚に構えていられるほど政宗は大人ではなかった。
いっそのこと全部を自分のせいにすればよかったのだ。主君の命に逆らえなかったとでも言われたほうがマシだった。
傷つかないようにと、不器用すぎる優しさが根底にあるからだと分かっている。分かっていても悔しい。痛いもの重いものはすべて一人で抱え込んで、その上でただ甘やかされて優しくされるのは。
立場は主従であっても、気持ちは対等じゃなきゃ嫌だというのは我侭なのだろうか。
もしも自分がもう少し大人だったら、もっといろいろと慎重にことを運んだのかもしれない。
暴れそうになる感情は自分の中で上手く選り分けて、見えないところでこっそりと捨てたのかもしれない。
でもそれはできなかった。今もう一度選べと言われても、やらない。
「ったくこの石頭!もうやっちまったもんは元には戻らねえ。そんなに俺が嫌かよ!」
腹の奥から込み上げる激情を、幼い頃から何度もしてきたようにそのままぶつけた。
反論は聞かないとばかりに噛み付くように唇を押し当て、膝に乗りあがった。
子供じみた嫌がらせだということくらい承知しているが、どうせまた困惑交じりの仏頂面で説教をくらうはめになるのだ。これくらいしてやらねば気がすまない。
だが、その思惑は真っ向から跳ね除けられた。
突然身体が宙に浮いたかと思うと、巨体が伸し掛かって手首を床に押し付けられた。驚いたせいで反射的に起き上がろうとするが、ぴくりとも動かない。
物凄い力だった。閨事でもいつも壊れ物のように大事に大事に自分に触れた小十郎の容赦ない本気。
見下ろしてくる男の顔は今まで見たこともないほど凶悪で、けれどあからさまな情欲の焔が見て取れる。
「小十郎も男です。何の苦もなく抑制しているとは思わないでいただきたい」
「おい……!」
そのまま襟元を開かれ、鎖骨の間を強く吸われる。
これまで情事において跡など残されたことがない。終わればそっけないほど早々と身体を清め、同じ床で眠ることすらないのに。
「……あまり俺を信用しないでください。あなたが俺の前で無防備になる度、このようなことばかり考えている。どこまでお許しになるつもりか」
胸元に顔を埋めたままの小十郎の声が、少しだけ震えて聞こえた。
――そうか。そうだ。
自分は何て愚かだったんだろう。
確かに小十郎は大人で、多くを知っていて、智も腕も才もある。
でも小十郎だって普通の男じゃないか。誰よりもそれを知っているはずなのは自分だったのに。
大人と子どものあわいで不安定な主君を支えるのは自分しかいないと、かたく戒めていなければ触ることもできないほど、小十郎は政宗のことを求めていたのに。
許されたい、許されたくない。
男の中で相反し責め合うその想いを、どうすれば少しでも優しいものとして返してやれるのだろう。
「はは……馬鹿だな、俺もお前も」
「政宗様」
「許すも許さねえも、俺はお前とやりたい。今日も明日も明後日も、頭も身体もからっぽになるくらいお前とやりたい。他の女にも男にもお前は誰にもやらねえ。OK?」
「……まったく、どこでそんな口説き文句を覚えてくるんです」
苦虫を噛み潰したような顔をして、情欲の灯る黒い瞳の上に映る自分を見た。
小十郎の目はありとあらゆる色を飲み込んで、ひかりすらも閉じ込めたような底なしの暁闇だ。
自分たちはもう知ってしまった。
こんなにも深い夜の底で、手を伸ばしあって裸で抱き合う相手がいる。けもののように抱き合いながら、自分の気持ち一つままならないちっぽけな人間で、それでも飽きもせずに求め合う。
痛みも背徳もすべてを引き受けて、ただこの人だけだと。
構わない。今ここで神様に見捨てられても構わなかった。
二人なら。
「あなたが、欲しい」
本当に、本能をむき出しにして告げられた。返事の変わりにキスをひとつ。
くちゅりと歯列をなぞる湿った音と、少しだけ乾いた唇の感触が鼓動を加速させる。
頭の後ろに回された手が、ゆっくりと紐を解いて鍔が外される。
五歳のときに失明してからずっと闇の降りている右の瞼に、優しく唇が触れた。
右目を抉り取られたあの時、死を覚悟したのは政宗だけじゃなくて小十郎も同じだった。
彼の左手が、決して消えることのない闇を与えてくれた。そこで輝けるように。光を掴み取れるように。
だから右目にあるこの暗闇だけは、いつか誰か別の人の手を取ることになったとしても小十郎のものだ。
この命の最後の瞬間まで。
着物を脱がしあいながら喉仏の辺りに噛み付いてやる。本気で歯を立てたりはしないが、野生の動物はこんな風に本能を丸出しにしてセックスをするときですら、相手に急所を晒したりはしない。
まさしくけだもの、だ。
燭台の火がそっと落とされ、二人以外の地上のすべてが眠りにつく。完璧な夜が満ちてゆく。月の光さえも今は遠くて、静けさがなお優しい。
暗闇の深さは、二人の想いよりもはるかに深く、そして甘く、尽きることなく。
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