雷鳴が獣の咆哮をあげ、夜空は汚泥を啜り暗雲満ちる嵐を呼んだ。 城下では店は早々に店じまいをし、商人も武士も誰も彼もが息を殺して家の中で身を潜めている。 城も下働きの者たちが扉が飛ばぬように補強を施し、殿位に当たらぬものたちは自宅へ下がったため、いつになく静まり返っていた。 生ぬるく湿った風が、すぐ傍まで迫った雨の気配を纏って伸びた髪の毛をはためかせる。 ―――来る。 最初の一滴が地面をうつと、それからはまばたき一つする間もなかった。 猛るような音を立てながら、視界が白と灰にくもるほどの大降りになる。 今日に限っては人目を気にする必要もなく、人気のなくなった庭に裸足のまま降り立つ。 足裏に当たる砂は水分を含んでひんやりと気持ちよく、歩みを進めるたびに柔らかな足跡を残した。 髪も体もずぶ濡れになるが、雨があたる感覚が気持ちいい。 遠くに閃光が走る。いよいよ待ちわびた瞬間だ。 「政宗様!」 どおんと響く雷鳴に、名前を呼ぶ大声がかぶさった。己の姿が見えなかったので探しに来たのだろう。 誰にも見られないように来たというのに、相変わらず勘のいい男だ。 草履がぬかるんだ地面で滑らないように気をはらいながら、大股でやってきた。 「やはりこちらにおられましたか」 自らも濡れることを厭わず、追いかけてきたのは小十郎だ。 いつもは乱れ一つなく後ろに撫で付けられている髪が、雨に濡れて落ちて額に張り付いている。 「よくここが分かったな」 「足跡を辿ってきました。こんな日に外に出られる物好きなど政宗様くらいです。早く室内へお戻りください」 雨の音が煩いので、怒鳴るほどに声を出さなければ聞こえない。 「お前もどうせ濡れたんなら、このまま付き合え」 「おふざけは大概になされよ。万が一雷が落ちたら洒落になりませんぞ」 「雷でくたばる間抜けな竜がいるかよ」 鼻で笑えば、仕様のないというように肩をすくめる。 とりあえず諌めはするが、結局小十郎も付き合って二人一緒にずぶ濡れになるのだ。 分かっていても言わずにはいられないところが、真面目な小十郎らしい。 昔からそうだった。こんな風に嵐が来るたび落ち着かなくなる。 雨の冷たさ、風の荒々しさ、雷の激しさを肌で感じると、眠っていた何かが起き上がるのが分かる。 幼い頃に教えを受けた虎哉和尚は、身体の中の竜が共鳴しているのでしょうなどともっともらしいことを言ったが、理由などどうでもよかった。 嵐の中でも、小十郎は自分を探しにやって来る。その事実が真実であるのなら。 「もう一度だけですよ」 「ああ」 普段は右側に立つ小十郎だが、風が左方向から吹いてくるのを遮るように並んで立つ。 もう今更だとは思っても、当たり前のようにそうするのは小十郎の混じり気ない優しさだった。 前は分からなかったけれど、今は彼がどれほど自分を大切にしているのか苦しいほどに分かる。 早々に放棄してしまった母親だけでなく、家督という分かりやすいかたちで愛情を示してくれた父親にしたって、誰も彼もが自分を持て余し気味にしていた。 小十郎だけだ。小十郎だけは決して諦めなかった。 どんな言葉を投げつけようと、臍を曲げて黙りこくろうと、その度に辛抱強く付き合った。 右目のこと、母親のこと、家のこと。当時己を取り巻いていたすべてのこと。 何一つ整理できないまま、全部を剥き出しにして小十郎にぶつけても、怯むことなく向き合ってきた。 伊達家に取り立てられた恩義を感じていたとしても、一介の傅役が引き受けるには重すぎただろう。 跳ね除けることだってできたのだ。 でも彼は、彼なりにそれを受け止めようと努力して、少しずつ政宗の心を開かせた。 もしも自分が逆の立場だったら、とてもじゃないが付き合いきれないと思う。 愛想を尽かしたってよかっただろうに、どうして彼がそうしなかったのかいまだに分からない。 忠義心なら立派だが、多分そうじゃない。そうじゃない、政宗には理解しきれない何かが小十郎の中にもあったのだろうと想像してみるだけだ。 そして、いつだったのだろうか。この気持ちに気付いたのは。 小十郎は自分にとって、あまりにも全てすぎた。 これが果たして純粋な恋情なのか、醜いばかりの執着なのかもう自分にも分からない。 ただ、小十郎を何か一つだけ恨むのだとしたら、自分をもう彼なしではいられなくしてしまったことだろう。 「好き」 口に出してみる。普段は言えない言葉を。 「好きだ」 激しく吹き荒れる嵐の中なら聞こえない、届かない。 「好きだ、小十郎」 言いたい。告げたい。伝えたい。 これ以上押さえ込んでいれば、身のうちで激しく燃え上がって触れ合った瞬間に爆発してしまうかもしれない。 今や政宗は火で、小十郎は火薬のようなものだった。 頭一つ高いところにある小十郎の横顔を左目だけで見上げる。 こっそりやったつもりだったが、すぐにこちらに精悍な顔を向けられる。 その瞬間、彼の後ろで光が弾けた。眩しさに一瞬目を瞑る。追って低く唸るような音が空気を振るわせた。 雨はますます激しく降り続ける。 促されるように背中を押されて、一歩だけ歩みを進めるがすぐ立ち止まれば小十郎も立ち止まる。 「お身体が冷えます」 あくまで臣下であることを踏み越えようとはしない声音。 分かっている。それを踏み越えてはいけないことなど、誰より自分が知っている。 もう少し、あと少しだけ我慢すればこの火も細く小さくなって、破裂することなく穏やかに続くのかもしれない。 狭い世界しか知らない政宗の勘違いという可能性だってなくはないのだ。 激しさは自分も相手も傷つけるもの。政宗と母親がそうだったように。 けれど、一方で燃え尽きてしまえばいいとも思っている。 最高の場所と最低の場所を知っていれば、それは想いが成就した何よりもの証ではないだろうか。 「お前が温めてくれたらいい」 「ご冗談を」 戯れに混じる、偽りのない本音。 聡いこいつが気付かないわけがない。たとえ何も聞こえていなかったとしても。 本当は全部知っている。知っていて、知らないふりを続けている。 幼い頃の政宗の感情は全て小十郎に傾いていた。そうしたのは他でもない小十郎自身だ。 ぺたりと額に手を当てて張り付いた髪の毛を押し上げてやると、ゆるく眉間に皺が刻まれふと目元が緩む。 笑うのと困るのと中間のような、時折小十郎が見せるこの表情がたまらなく好きだ。 同じように自分の頬に張り付いた髪の毛を耳元までそっとかきあげられる。 優しい手付き。仕草一つで、心臓の奥にあるどこかが痛むような思いがする。 その優しさを向けられるたび、ほんの少しだけ打ちのめされそうになる。 もっと、もっとと求める手を拒まないくせに、これ以上は決して手を伸ばさない、伸ばしてこない。 ここが限界。そう一人で決めてしまう。 「着物を着替える。手伝え」 「はい」 手を放して歩き出す。土砂降りに流されて、行きの足跡はすっかりと消えている。 小十郎の中にあった嘘を一つだけ見つけた。 足跡なんてなくても、追ってくるくせに。 重たくなるほどに水気を含んだ着物を脱がされ、清潔な柔らかい布で全身を拭われる。 元々日に焼けにくい体質なことに加えて、異例とも言える早さで元服は果たしたものの、未だ戦場には出ていない身体は傷一つなく綺麗なものだ。 下着まで濡れていたが、お互い幼い頃から慣れているので小十郎は躊躇いなく外して取り替える。 本来小姓がするようなことでも嫌な顔一つせず、手際よく政宗に新しい着物を身に付けさせると、失礼と断ってから小十郎自身も着物を脱ぐ。 若く張った胸板に見るからに強靭な腕。露わになる逞しい体躯は自分とは大違いだ。 政宗も剣や武道の稽古は毎日欠かさず行なっているが、期待ほどに筋肉はついてくれず恨めしい。 まだ成長途中とはいっても、十年たったところで彼のようになれるとも思えない。 「男の裸なんて見ても面白いもんじゃねえでしょう」 黙って凝視していれば、恥ずかしくはなくてもいくらか居心地悪いのか顔をしかめる。 「別にいいだろ」 「……構いませんけどね」 こうなったら梃子でも動かないのは承知済みで、諦めた様子で下着を外す。 城の外での小十郎のことなど殆ど知らないが、聖人君子じゃあるまいしたまには街で女遊びをすることだってあるだろう。 現れたものを目にして、急に恥ずかしさが込み上げてきた。 今更裸を見たり見られたりすることに抵抗などあるはずないと思っても、一度意識したら駄目だった。 知識としては閨事も教わってはいるが、政宗自身にはまだ経験はない。 心音が否応にも高まっているのが分かる。慌てて視線をそらすが、頬が赤くなっているのが自分でも分かる。 好きだという感情に、生々しい色が付いてるのを本能的に悟ってしまった。 そして、この感情が勘違いでも何でもないことも。 「政宗様?」 突然黙ってしまった政宗を、着替え終えた小十郎が気遣わしげに覗き込んでくる。 どこかから入ってくる隙間風で時折揺らぐ燭台の焔に、もう駄目だと息を小さく吸い込んだ。 小十郎の着物の裾を掴んで、胸に額をあてた。 ほんの少しだけ好きなようにさせて、温もりが伝わりきらないうちに身体を引き剥がされる。 「ここは冷えます。部屋までお送りしますので温かくしてお休みください」 「……お前、時折本気でずるいぞ」 「小十郎は政宗様が思ってるほど誠実ではありませんよ」 「俺は、お前のそういうところが嫌いだ」 「小十郎もです」 掴んだままの袖を握る指に力が入った。そんなことを言わせたいわけじゃない。でも止められない。 「お前、本当は全部知ってるんだろう?」 俺がお前のことが好きだって、知ってるくせに。 小十郎は何も答えない。 だんまりを決め込んで、それが自分の使命だと思い定めているような静かな表情をしている。 ひやりと砕いた氷を飲み込んだような感覚に全身を貫かれる。 もどかしかった。辛かった。悲しかった。 こんなかたちで彼に拒絶されたのははじめてだった。 小十郎のやっていることは、臣下として何も落ち度はない。 政宗は自由であって、自由ではない。恋一つすることさえ好き勝手には許されない身だ。傅役に対して信頼以上の感情を持つなどあってはならないことに違いない。 でもそれが正しいとか間違っているとかではなく、小十郎はいつだって政宗の気持ちに対して真っ直ぐに向き合ってくれた。 それなのに。どうして今更拒もうとするんだ。 顎を上げて睨み付ける。 「何とか言ったら……」 尚も言葉を重ねようとすると、何の前触れもなく腕をつかまれて引き寄せられた。 物凄い力だった。反射的に怖さに身体を引こうとしたが、力強い腕はびくともしない。 そのまま背中を抱かれると、唇に温かいものが触れてようやく口付けられているのだと思い至る。 衝撃に目を閉じることすら忘れている間も、されるがままに思い切り吸われ深く舌を絡められ、悪い酒でも飲んだ後のように頭がくらくらとした。 ようやく離されたときにはもう足にも腕にも顎にも力が入らなくて、支えられながら荒い息だけつく。 「……こじゅ、」 「政宗様の求めるままに答えたら、小十郎は多分今の貴方には想像もつかないほど酷いことをするでしょう。小十郎のことを必要としてくださるなら、これ以上はご勘弁を」 「何だよそれは……意味分かんねえ」 「取り返しが付かなくなってからでは、遅すぎる」 「は……結局神だか親父だか知らねえけど、罰が怖いってことかよ」 挑発するようにそう口にすると、ほんの一瞬小十郎の視線が激情を孕んで鋭くなる。 引きずり出してやりたい。忠誠の隙間から見えるそれを、自分は知りたい。 「神だろうと、輝宗様だろうと、罰ならば何も恐れはしねえ……ただ」 障子の向こう側に、空を渡る光芒が見えた。 「ただ俺は、政宗様を傷つける自分だけが恐ろしい」 雷鳴が轟く。 雷は、神鳴り。この身の奥に潜む何かが目を覚ますのが分かった。 轟音が去って、一瞬の静けさが訪れる。 傷つけられるものならば、傷をつけてみればいい。 お前が選び、育て、守り、従い、慈しみ、愛するこの竜に。 消えない瑕を。 「好きだ、小十郎」 |
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